足寄 網走本線→池北線→ふるさと銀河線

網走本線は、かつて、唯一の大動脈であった

池田~北見の路線は、かつて北海道の西側と、道東の開発拠点北見市(野付牛)とを結ぶ唯一の重要路線で本線の役割を担っていました。短絡路線が次々出来ることで本線ではなくなり、役割を譲っていきました。北回りの路線「名寄本線」、旭川への近道「石北本線」が出来ても、少なくとも戦前、戦中は時刻表を見る限り列車本数はそれほど変わっていませんでした。

戦後、モータリゼーションと人口減少の結果、ふるさと銀河線を最後に95年の歴史を閉じたと思われました。

足寄駅は池田~北見のあいだにありました。

駅舎は残してあり商業活用されている。

北見は道東の開発拠点で、旧名が野付牛

ふるさと銀河線について。歴史を見ていきます。

ざっくりと3つの時代があり、網走本線(黄金時代)、池北線(本線の役割を他線に譲って、「本線」ではなくなった時代)、第三セクター鉄道時代、となります。

私の手元にある古い時刻表の路線図です。野付牛は北見駅の旧名です。北見は道東の開発拠点で、今も重要拠点。大正14年には網走線は全線開通しています。

大正14年(1925年) 鐵道省運輸局編纂汽車時間表
大正14年(1925年) 鐵道省運輸局編纂汽車時間表
大正14年(1925年) 鐵道省運輸局編纂汽車時間表 p176
大正14年(1925年) 鐵道省運輸局編纂汽車時間表 p176

時刻表、お弁当駅は野付牛、陸別、池田だけです。お間違えなく!駅についたらホームに弁当売が来て、こっちー!(妄想)池田~野付牛全通しの運行本数は往復三本づつ。

網走線は、十勝(池田)と網走支庁管内を結ぶ幹線鉄道として、明治43年(1910年)に池田側から開業、明治44年(1911年)には野付牛(現在の北見)まで延長、明治45年or大正元年(1912年)にはさらに網走へ延長、同年11月18日に網走本線に格上げされました。上の路線図では北濱まで、その後昭和4年(1929年)札弦まで伸びます。湧別までの支線を持っていました。その他森林鉄道で木材を搬出していました。

大正10年に名寄本線が開通し、函館までの経路が併存するようになった(ライバル出現)

続いて昭和5年の時刻表です。

昭和5年(1930年) 鐵道省運輸局編纂汽車時間表
昭和5年(1930年) 鐵道省運輸局編纂汽車時間表
左から二列目、区間距離「粁(キロメートルと読む)」に変わった。以前は哩(マイル)

池田~野付牛間、往復四本ずつに増えています。

大正10年(1921年)10月5日名寄から紋別遠軽経由で野付牛と結ぶ名寄本線が全通。函館から野付牛へ行くルートが網走本線だけではなくなります(ここがポイント)。昭和5年4月からメートル法が導入され時刻表の表示がマイル(哩)からキロメートル(粁)に変更になっています。

昭和6年(1931年)9月20日、 屈斜路湖と摩周湖の間の山岳路線、札鶴~川湯間が開通、網走駅 – 札鶴駅間が釧網線(東釧路 – 札鶴)とともに釧網本線へ編入されます。

昭和7年、石狩北見を短絡する、石北線が全通(強力なライバル出現)

昭和7年(1932年)10月1日、石狩北見間を短絡する石北線が全通。網走本線が担っていた、道東と北海道の西側とを結ぶ役割が石北線に移っていく(ここもポイント)。戦後、網走本線であった池田駅 ~北見駅間を池北線と呼称が変更、北見網走駅間は石北本線に編入され、網走本線の線名は消滅します。

昭和9年12月号 鉄道省編纂汽車時間表
JTBジャパン・ツーリスト・ビューロー!日本旅行協会
標津線は中標津厚岸間が出来ました。サロマ湖西側に”丁寧駅”、気になる。
石北本線開通後。上から石北線、名寄本線、網走本線。

レイアウトの一番下が網走本線、本線機能を奪われてちょっと寂しい位置づけになっています。特に意図は無いのでしょうが。将来を占っているような気も。運行本数は前回の時刻表とほぼ同様です。しかし、終戦まで本数の顕著な増減はありません。

列車本数だけを見れば、石北線開通後も減ってはいない。

昭和15年(1940年)10月号 鐵道省編纂時間表
「遊楽旅行廃止 国策輸送に協力」
「聖地参拝」なら大義名分がたちます。
標津線 中標津~標茶間が開通しています。網走常呂間も開通。中湧別~中佐呂間も開通。

石北線が若干増えて往復各5本、網走本線は全通しが3-4本。石北線に寝台車の設定があります。

昭和17年11月 社団法人 東亞旅行社 鐵道省編纂 時刻表
JTBが消えました。カタカナ言葉禁止でしたっけ。

石北線の往復5本ずつに対し、網走本線(敢えて旧名で)は4本ずつ往復があります。野付牛駅の名前が、北見駅に変わっています。昭和17年(1942年)10月1日、市制施行を機に、北見駅に改称。野付牛機関区も北見機関区に改称されました。

昭和19年 財団法人東亞交通公社 時刻表
昭和19年 財団法人東亞交通公社 時刻表  路線に大きな変化はありません。
昭和19年 財団法人東亞交通公社 時刻表 p199
昭和19年 財団法人東亞交通公社 時刻表 p199

戦後の時刻表はまたの機会に。

1989年6月に北海道ちほく高原鉄道株式会社・ふるさと銀河線として池北線区間が営業したがその後赤字が続き2006年4月20日廃止。

図4 2014年11月 交通新聞社 JR時刻表

2014年時刻表では一日に7往復ほど北見~陸別間にバスがありました。

足寄出身の鈴木宗男さんと松山千春さんにとっても生活の足だったのでしょう。

本別川橋梁 (1908(明治41)年架設)および、 陸別駅転車台 (1910(明治43)年設置)は「明治期に建設され当時の鉄道技術を現在に伝えるとともに、北海道東部が鉄道とともに発展したことを後世に示す貴重な土木遺産である。」ことから土木遺産に選奨されています。

旧網走線開業時の鉄道施設群 | 土木学会 選奨土木遺産

まとめ

ながながおつきあいありがとうございました。少なくとも戦争が終わるまで、時刻表を見る限り本数は減っておらず、活気のある路線だったと考えられました。

昭和5年4月からメートル法が導入され、時刻表の表示がマイル(哩)からキロメートル(粁)に変更、何だこの漢字は!

『現代日本文明史 第1-18巻』 東洋経済新報社 1940-1944 14冊 23cm
第13巻 科学史(石原純) 昭和17 <210.6-G29> p.125

「メートル法の単位記号としては、今日『粍』、『糎』、『粉』、『粁』、『竰』、『立』、『瓱』、『甅』、『瓩』が普通に用ひられてゐる。これは明治二十四年七月一日から、中央気象台が制定、使用し始めたものである。その理由は、メートル法が法律化した以上、従前のやうに 『佛里』、『佛尺』等の文字を用ひるのは穏當ではなく、さりとて『メートル』、『ミリメートル』等では長過ぎて不便であるからといふのであった。」 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000014281

メートル法の単位の漢字(米、粁、粍、瓦、瓩、立)について。元は明治24年から気象台が使っていた。昭和5年4月、メートル法が法制化し、流用されました。

例示「糎」(センチメートル)「米」がメートル、「厘」は100分の1、米+ 厘 でセンチメートル糎です。キロメートル「粁」、ミリメートル「粍」(消耗の耗は偏が来)

構成要素①10分の1を表すデシは「分」、100分の1を表すセンチが「厘」1000分の1を表すミリは「毛」、10倍を表すデカは「十」、100倍のヘクトは「百」、1000倍のキロは「千」。

構成要素②グラム「瓦」、メートル「米」、リットル「立」、

<度量衡法>サンチについて。

インチ(吋)、フィート(呎)、ヤード(碼)、チェーン(鎖)、マイル(哩)、サンチ(糎)。明治42年(1910年)に改正された度量衡法で、ヤード・ポンド法が公認。インチは「吋」、フート(フィート)は「呎」、ヤードは「碼」、チェーンは「鎖」、マイルは「哩」です。サンチはセンチメートルのこと。明治の人が言いやすいように最初は「サンチ」といった。サンチは漢字では「糎」と書く。

例)九〇式二十四列車加農 90しき24サンチキャノン(砲)とよみます。千葉の富津岬に配置されていた列車砲です。

コメント

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