厳神社(西国街道)

厳神社と明治に改称されるまでは”厳宮大明神”(ごんのみやだいみょうじん)と呼んでいたそうです。山の上からは厳島の西端が見えます。

このあたりの大竹に、奈良から追放された佐伯さんが流れ着いて住んでいました。この人が大竹の人々を連れて厳島神社を創建し、以後神職になった、という言い伝えがあるようです(大分端折ってます)。

厳神社の祭神「伊邪那岐神」「伊邪那美神」「宇迦之御魂神」、厳神社は近辺の神社を司っているそうです。

令和二年一月二日に参拝、手をスリスリ合わせていると高校生ぐらいに見えるカワイイ巫女さんが拝殿の奥からスススっと現れて、賽銭箱の向こうでちょんと立ち止まり、御幣をシャリンシャリンとやってくれました。かたい表情に見えたので、可能な限り威儀を繕って会釈しすぐに目を閉じて手を合わせました。拝殿に神主さんと巫女さんがもうひとりおられ「お神酒をどうぞ」とすすめられ、履物をぬいであがります。「よくおまいりくださいました。」とお言葉をいただきながらお神酒を注がれ、三三九度しそうになったり、一口でゴクリしたあと「ごちそうさまでした!」といい間違えそうになったりしながら礼をしました。許可をもらって拝殿をぐるっと見せていただきました。

拝殿の長押に据えてある氏子さんからの絵馬をみていると、神主さんが次のことを丁寧に教えてくださいました。絵馬をだいぶ片付けてしまったこと、当地から北の方角に飯谷という土地があり、もっと古い神社があり千年祭をしたこと、この神社のある山の南裾は埋め立て前は海岸線で、西国街道はもと亀居山の北側を通っていたが、埋め立て後に神社の南側を通るようになったこと。この神社のある山と、亀居山と2つの山をあわせた形が亀のように見えることから亀居山ということ、などを教えていただきました。

厳島神社と同じ、両部鳥居というタイプ。神仏混淆の名残。

両部神道はインドの仏さんと日本の神さんは同じ(でもちょっと密教の仏がうえ)という真言宗の立場からの習合思想。「神道という宗教にはもともと明確な教えはなく、神に対して祈願したり、感謝の念を捧げる儀礼が基本にある」(神も仏も大好きな日本人p167 島田裕巳)だけで理論らしいものはなかったようです。両部の由来は、真言密教の両界(両部)曼荼羅により説明するところから。天台宗の立場から神道の理論化をしたのが山王神道。高校の日本史には出るらしい!

神主さんから聞いた、”飯谷にある神社”が気になって調べると、「後飯谷客神社の力量石」という記事がありました。客神社、、、

客神社(マロウドジンジャ)は厳島神社にも入り口すぐの左手にあって、それと別に門客神社が鳥居と本殿の間に左右二箇所にあります。

川手の歴史 の記事の中に、次のようにありました。神主さんがおっしゃった千年祭をした神社はこの客神社のことのようです。

”後飯谷の発展に関係する記述が「大竹市後飯谷客神社御鎮座千年記念誌」にあります。「長保元年(999年)藤右衛門という人によって客神社が久保の岡(山の頂上付近)に勧請された」ことが記録に残っています。これによると、源平合戦に敗れた平家の落人も住みついたと考えられますが、それ以前にかなりの開拓者がいたことになります。なお、平成11年(1999年)秋には、客神社の鎮座千年祭が盛大に挙行されています。”

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