他人の土俵で相撲をとるほうが良いと思う

該博を持つことは一つの理想だと思ってきた。狭い世界で尖ることは良し悪し。ニーチェは蛭の脳髄だけの専門家を戯画的にツァラトゥストラで描いて「そんなやつに何を語れるのか」と否定的な文脈にしている。

Generalistであるべき、と盲信する原理主義の視点から、無能で、狭隘な領域からいちいち物を言う専門家を本来穏やかであるべき飲み会の席にて、真っ向唐竹割りにしてしまい、そいつによって人事で不利を食らったことがある。すいません、今日は酔っ払ってまーす(sake 5合)。

該博を有することを理想と思うのは、煎じ詰めるとどのようなところにも真理があり、それもこれも知りたいという欲求からだ。だからこそ、お客さんのじいさんばあさんとの会話に集中できるのである。真理は細部に宿る・・・あれ、どこかで聞いたな。。向田邦子だったかな。

私の結末は見えている、つまり、おそらくなんの真理にも近づけない。それを逆に支持してくれるのはこれだ。高校生の時に読んだ、キルケゴールの「主体的真理」というひとこと。

「真理が客観的に問われる場合には、真理とは客観的内省が向かうひとつの対象であり、これにかかわるのは認識する者としての主観である。そこでは、かかわりかたいかんに内省が向けられるのではなくて、主観がかかわっている対象が真実であることに反省が集中する。もしも自分がかかわっている対象が真理ないし真実でありさえすれば、主観は真理のなかに吸収、包括されるのである。真理が主体的に問われる場合には、主体的内省が個体のかかわり方そのものに向かう。このかかわり方そのものが真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っているのである。よしんばそのかかわる対象が非真理であったとしえも、主体のかかわり方が真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っているのだ」(キルケゴール)

ちょーかんたんにつんづめていうとー、真面目に生きてる人はOKだよー!ってこと。キルケゴールとニーチェの真ん中ぐらいで生きていきたいと思います。

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