数字だけを見る効率性は不幸のもと

中野剛志さんの本は刺激があって面白い。

不確実なショックが実際に起きた時の対応力のことを強靭性レジリエンス(resilience)と言う。脆弱性(vulnerability)の反対の概念。

何が起きても大丈夫な強靭さを確保するためには、非常電源を持っておくとか、食料を用意しておくとか余剰(redundancy)を持っておくことが必要になるが、在庫を多く持つということは帳簿上の数字が悪くなる。そこで帳簿だけ見てれば良いのか。

効率とはそもそも何に資する話なのかということ。確実に計量可能な数字の出せるものに対する費用対効果に着眼することは容易である一方で、強靭さとか幸福といった計量不可能な、不確実性の関与するものを目標にする場合、効率を数字で表せないために簡単ではない。強靭性と効率性とはそもそも背反しないが、計量不可能で不確実な要素を持つゆえに予測の対象外にされている(例えば仕分けと称しダム建設を中止したことなど)。帳簿だけを見ると間違うのだ。

効率性がそもそも中立的な概念であるのに、目的とする対象を確実に数字で記述できることだけに偏在させるからその予測は間違う。効率を重視しているつもりでその実、数字を追いかけるだけになっている例は世に溢れている。企業が利益を追求する事に終始し、社員の幸福などそっちのけになったりする。

市場に委ねておけば効率的な理想状態が自ずと達成されると信じているのが市場原理主義であるが、数字を良くすることだけに汲々とするただの自由放任である。市場原理主義は一見最も効率的な状態に市場が勝手にバランスを取って落ち着いてくれるように見えるが、その最も効率的な定常状態こそ不確定的事象の発生に対して弱く、redundancyの少ない状態となる。計量不可能な”幸福”であるかどうかの検証や、不確実性に対するレジリエンスがあるかどうかの検討は疎かになりがち。数字だけを見た結果として不確定性に対して脆弱な組織を自らが作ることになる。

自由な市場や市場原理主義であってもうまくいく前提とは何か。共同体の歴史的な秩序、つまり伝統や慣習、spontaneous order 邦訳”自生的秩序”によって人が支配されている限り、余計なことを国家が強制しなくとも、自由放任によって理想状態が達成しうると考えたのがハイエク。ハイエクは自由を目指したが、無制限な自由を是認したのではなかった。その真意は数字だけを良くすることではないことは自明。伝統や慣習というものは度し難いものだからだ。ところが現在、共同体は破壊され、グローバリズムが席巻し、良き慣習や自然法が失われ、ハイエクが考えた自由放任でうまくいく前提条件自体すら失われている。我が国の古い文化を否定して新しいものを革新と称して取り入れようとすることは、自由放任主義が機能しない方向に拍車をかけるだけであるのにそのことに気づかない。伝統的秩序を破壊することによって訪れるのは外来種による支配である。

企業のIRやHPを見ると、利益追求しているだけの企業ではありませんよ、と、わざわざアピールしているものが多い。泥棒が泥棒ではありませんよと否定しているようにも見える。流行り言葉の「エコ」だの「地球に優しい」だの薄ら寒い言葉をちりばめて企業のホームページは虚飾してあるが、自らの数字至上主義の腹黒さをその場しのぎのキラキラ言葉で糊塗しているようにしか見えない。自生的秩序の存立基盤である伝統や慣習や共同体を破壊させるだけのグローバル企業の”理念”なるものを聞くだに、薄っぺらくて虫唾が走る。

すいません、朝から悪態をついてしまいました。

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