帝美丸

まず、我が国のために戦っていただいた大日本帝国軍人に深い敬意を持ち、同時にアメリカの軍人に敬意を持っています。そして日夜国防に携わっていただいている自衛隊の皆様にも感謝の気持ちを持っています。

さて、私の祖父はこの船に乗っていて、南シナ海で沈められたが生き延びた。この船に乗っていたことを爺さんから子供の時にきかされたが調べようがなかった。あれから40年経って調べたら、あっさり記事が出て来て、沈めた潜水艦もわかった。インターネットは便利なものです。

簡単に次のようにまとめられます。

旧仏貨客船ベルナルタン・ド・サン・ピエール(Bernardin de Saint Pierre)。1942年6月傭船。1943年10月10日、第432船団参加中、カムラン湾北東沖で米潜ボーンフィッシュの雷撃により沈没。

帝美丸 略年表

T14.09.03:進水、命名:Bernardin de Saint Pierre T15.09.–:竣工、船主:Société des Services Contractuels des Messageries Maritimes マルセイユ~マダガスカル線

S11.マルセイユ~佛印線

S14.マダガスカル線

S14.ダカール~09.17ケープタウン

S15.西貢(香港)~マニラ線

S16.02.マダガスカル~西貢

S16.02.–:マニラ~上海~西貢線

S16.春 :石炭焚きにボイラー換装

S16.カンファ(朝鮮 江華島)~上海間石炭輸送

S16.上海・漢口~12.06マニラ

S16.ハイフォン(ベトナム北部)~01.西貢

S17.04.10:徴傭手続き開始

S17.抑留船舶証明書発給:帝國船舶株式會社に管理委託、「帝美丸」と改名

<メモ 帝国船舶について> 1937年(昭和12年)の日中戦争開始による軍需輸送の増大や、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦開始による世界的な船舶需要拡大、各国の海運統制強化などのため、日本は商船の船腹不足に悩むようになった。そこで、外国船取得による自国商船確保を目的として、政府の要請を受けて設立されることになったのが帝国船舶である

S17.運航:大阪商船株式會社(現在の商船三井)

S17.06.15:日本仏印海軍間で徴傭実施基礎協定調印(JACAR:B02032439000)

S17.09.02:帝國船舶株式會社は船舶運營會と再傭船契約を締結

S17.10.20:信号符字JKER、定係港:大阪

徴傭:陸軍

S18.03.26:宇品~04.05マニラ04.05~04.22門司

S18.04.30:解傭

S18.05.18:神戸~05.18大阪05.20~05.31門司05.23~05.28高雄06.01~
~06.09西貢06.20~06.21聖雀06.24~06.29昭南07.03~07.07西貢07.14~
~07.21高雄07.23~07.28門司07.28~07.29神戸

S18.08.08:神戸~08.09門司08.10~08.15高雄08.20~09.29西貢10.07~

S18.10.08:(第432船団)聖雀~

S18.10.10:沈没

喪失場所:N14.40-E110.12

仏印タイビン東方110km附近

喪失原因:米潜水艦Bonefish(SS-223)による雷撃

ボーンフィッシュ 第1の哨戒 1943年9月 – 10月

ボーンフィッシュ (SS-223) - Wikipedia


9月16日、ボーンフィッシュは最初の哨戒でビルフィッシュ (USS Billfish, SS-286) およびボーフィン (USS Bowfin, SS-287) とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。9月22日にバラバク海峡を通過し、南シナ海に入った。

3日後の9月25日朝、ボーンフィッシュは二列縦隊の輸送船5隻と、1隻の護衛艦を配する輸送船団を発見する。この輸送船団、サ12船団にはボーフィンとビルフィッシュも取り付いており[9]、午後に入ってからの攻撃で、ボーフィンは特設運送船(給油・応急タンカー)霧島丸(国際汽船、8,267トン)を撃沈し、その後もビルフィッシュとともに追撃を続けていた。ボーンフィッシュは夜に入ってから、爆雷攻撃による制圧で深深度潜航に移る前に北緯10度58分 東経112度39分の地点で特務艦足摺に対して魚雷を4本発射し、3つの爆発を確認するが実際には被害はなく、ビルフィッシュもタンカー誠心丸(日本油槽船、5,239トン)に対して魚雷を5本発射して1本の命中を報告したが、実際には命中していなかった。

2日後の9月27日未明、ボーンフィッシュは北緯10度30分 東経109度42分のカムラン湾近海で、シンガポールに向かっていた第324船団を発見。第324船団側もボーンフィッシュを発見して船団各船は避退行動に移っていたが、船団最大の船舶であった輸送船鹿島丸(日本郵船、9,908トン)は全速力で避退しつつあったところ、前を航行する応急タンカー千早丸(日本郵船、4,701トン)との距離がわずか約200メートルとなり、追突を避けるため速力を落とした。その時、北緯10度10分 東経109度40分の地点に至ったボーンフィッシュは、鹿島丸に向けて魚雷を4本発射。魚雷は2本が鹿島丸の四番船倉と五番船倉に命中し、鹿島丸は15分程度で沈没した。船団中にあった輸送船第一興南丸(日本海洋漁業(ニッスイの前身)、455トン)は、曳航していた特殊油槽船を放り出して救助作業を行いつつボーンフィッシュに迫ったが、ボーンフィッシュは逃げることが出来た。10月6日朝には北緯12度22分 東経109度30分の地点で3つ目の輸送船団を発見して魚雷を6本発射し、2隻の大型輸送船に魚雷を命中させたようだと判断された。

ブンタウ=サンジャック 聖雀とかく。

しかし、この時も実際には、第431船団に加入してサンジャックから高雄に向かう途中の輸送船対馬丸(日本郵船、6,754トン)に魚雷が向かっていったものの、6本のうちの3本が対馬丸の船底を通過していっただけだった。10月7日夜にも北緯13度24分 東経113度05分の地点で輸送船岳陽丸に対して魚雷を6本発射したが、命中しなかった。

10月10日午前、ボーンフィッシュは北緯14度32分 東経110度18分のカムラン湾北東約110キロの海域で高雄に向かっていた第432船団を発見する。ボーンフィッシュは後方から第432船団に迫り、北緯14度44分 東経110度16分に至った所で距離2,400メートルから魚雷を4本を発射。うち2本が輸送船五十鈴川丸(東洋海運、4,214トン)に命中して撃沈し、五十鈴川丸被雷を見て40度に回頭して魚雷を避けようとしていた輸送船帝美丸(帝国船舶、元フランス船 Bernardin Saint-Pierre /大阪商船委託、10,085トン)にも2本命中。うち左舷後部に命中した1本は不発だったが、船尾に命中した魚雷による被害が甚だしく15時21分に沈没した。10月14日夕刻には、北緯00度10分 東経119度15分の地点で2本マストの10トン級スクーナーを発見し、2基の20ミリ機銃の掃射で撃沈した。10月21日、ボーンフィッシュは45日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

ボーンフィッシュは各地を転戦し数々の戦功をあげ、各種の表彰を受けている。最終的には富山湾で大日本帝国海軍により沈められ最後を迎えたことが日米の記録によって確認されている。

日米の友好関係が今後も長く続くことを心から祈ります。

USS Bonefish (SS-223).jpg

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