まつりごと

宮島から地へ鹿が渡る話から田所家の家紋を発見

宮島の昔の生活の話を親父からきくたんび毎度面白い。「泳いで渡れるんで」と宮島出身の親父がいうのでヨウタンボウ(酔っ払い)の戯言じゃろう、ホントかいのと確かめに行ってみた。鹿や猪も泳いで渡るんじゃと親父がいう。

宮島と大野との間の海峡は、とても狭いです。その通称「大野瀬戸」は宮島と本土との海峡で一番狭いところ。実際行ってみるとホンマにせんまい!これなら渡れそうな。

下の写真を御覧ください。その画角はいずれも50mmです。

①宮島口桟橋から大元神社あたりを眺める、コレがいつも見ている宮島航路の宮島までの距離のイメージ

次に、②大野瀬戸を大野から。宮島を眺める

近いです!ここは↓ 

確かにここを大型船が通ることは無いですね。ここでは浅瀬で座礁するでしょう。

縄文海進で分断されるまでは宮島と本土は地続きであったそうです。

調べていたら、広島の旧家、田所家の家紋が厳島から地(本州)へ渡る鹿なのを知りました。

田所家の家紋

こちらが田所家の家紋!浅瀬をわたりよってじゃ。古代には浅かったのでしょう。波のデザインが良いです。

縄文海進までは本土とつながっていて浅瀬の時代もあったでしょう。渡っていたというのはまことのようです。

厳島は約6,000年前縄文海進により本州と離れ離島化したが、その際に本土側の鹿の個体群から分断したものが宮島の鹿の起源であると考えられている。のち本土側個体群の分布域が縮小して厳島の対岸側には鹿が生息しなくなったことで厳島のものが孤立化した。

平成 30 年度宮島地域シカ保護管理対策 より引用

この田所家の家紋は、その鹿に、油紙に包んだ文をくくりつけて、宮島から田所家屋敷へ運んでいたことにちなみます。宮島と地(本土)との間の輸送は船しかないと思っていたら、なんと鹿が運ぶ・・・クロネコとかペリカン便とかカンガルーとかアリさんが、現代において運送業界でしのぎを削っておりますが、古代の広島では鹿さんが頑張っていたと!

鹿よ、おまいら泳げるんかよ!

鹿は足が長いから、浅瀬なら行けそう。昔は干潟が多かったけれど、鹿の細長い足なら行けるかも。

とおもっていたら、鹿のことを調べるうち、泳げると判明!結構深いところも上手に泳いでますね。溺れているようでは無いです。

大阪淀川河川敷のシカ、泳ぐ!(2017/09/23)
洞爺湖中島 シカ泳ぐ
【HTBセレクションズ】海を泳ぐシカ!?

田所さんに、お話を伺いに行ってみた

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この謎の家紋の意味を知りたくて、田所さんの末裔が神主をされている田所明神社へ思い切って行ってみました。田所あきら神社ではないです、田所みょうじん社、です。お間違いなく!

多家神社のすぐ近くです。運良く田所明神社の宮司 田所恒之輔さんにお目にかかることができました。寒いのに外で30分以上丁寧に話をしてくださいました、ありがたかったです。広島の歴史を伝える田所家文書を残した田所家の当主田所さんにお話を直に伺えるとは。神様に心から感謝!。神社の掲示に「厳島より田所屋敷へ遣わされる神鹿(しか)」の絵があります。

厳島から田所屋敷へ遣わされる神鹿(シカと読む)背中に油紙に包んだお手紙が!食べちゃいけんよ。

ところで、鹿は白ヤギさんと同様に紙を食べるんよネ、鹿は腸内にセルラーゼを持っとってじゃけ、紙を消化分解できる。はたして手紙はうまく届いたんじゃろうか、途中で読まずに食べてしもうたりせんだったんじゃろうか。

運輸業界のクロネコとかペリカンとかの大先輩かもしれん

田所明神社は厳島遙拝所(国廳神社こくちょうじんじゃ・槻瀬明神つきのせみょうじん)と大黒社を合祀した社やしろで、多家神社の近傍の国廳(県庁とか都庁とかに使う庁の旧字。国庁だからさしずめ今の広島合同庁舎みたいな国の役所の出先)があった地域にあります。律令制の頃の話。国庁で行政職である田所職を世襲されていた田所家(=佐伯家の本家)は、徴税機能だけでなく貢納物を運ぶ海運や流通も支配していたので、このマークは現代の流通業に使われる動物マークの先駆けかもしれん!

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田所家は行政職(公職)を世襲してこられた家系

仕事(役割)それぞれにマークがあります。一人4役。なんていそがしそうな田所家!

国衙官人、田所職を勤めてきた鹿さんマークだけでなく”上卿”(しょうけい)も担当する家で厳島神社との関係も深く、その厳島神社の神紋も使用します。

上卿(しょうけい)役とは?上卿役が居ないとお祭りは始まらない

上卿(しょうけい)は、寺社に儀式などで天皇のお言葉を変わりに述べる役です。

もともとは上卿とは平安時代以降の朝廷で、公卿が関わる組織や儀式・政務・公事などの各種行事における役目の中の筆頭の者を指す職名です。つまり、律令制の行政機関である太政官機構の議長に当たる役で左大臣や右大臣のこと。もう1つは年中行事など、あらかじめ翌年行われる事が明らかな行事に関して、その行事を取り仕切る行事所の長官を務める公卿のことで、これを上卿と呼びました。

院政期以降になると、元は別当(官人と神職を兼務すること)と称されていた所の長官や社寺などとの取次役を指して上卿(しょうけい)と称する例が現れます。記録所の長官(まさに田所職!)などが挙げられ、重要社寺に関する奏宣(天子に申し上げること)などを担当し、宣下(天皇が宣旨(せんじ)を下すこと)を代行したようです。宣旨とは、勅令を伝えるために弁官および外記局などから発布される文書のことで、平安時代初期蔵人所の設置後発達した文書形式で、要するに天皇の命を伝える公文書のことです。

勅命は内侍から蔵人の職事、さらに太政官の上卿 (しょうけい) に伝えられ、上卿は内容によって弁官および外記局に命じて文書を作成させ宣下しました。鎌倉時代後期以降、上卿が寺社伝奏することへと発展したとみられています。

いずれの上卿(しょうけい)も準備から後処理まで、様々な手続や作法を必要とするため、様々な故実に通じている必要がありそのための知識の熟達が求められたとのことです。

下記、厳島国府上卿役について、https://tadokoromyoujinja.jp/download/treatise.pdf より転記。

上の写真、桟橋みたいなところに田所氏(上卿役)の船が接岸して奥にある厳島神社に向かいます。「上卿雁木」雁木は階段状の船着き場のことです。

行政職というのは王様ではありません。田所職はその時代時代の権力と良好な関係をそれぞれに結び、行政と神職を世襲で担当してきたのでした。権力がコロコロ変わっても、大人な対応をしてきたものと察します。考えや感情は表に出さず淡々とこなしていくイメージ。公務に求められることは、私心なくいかなる公にも尽くすことだと思います。

さて、福岡の太宰府は今は神社ですが、都府楼跡に”地方行政機関”があったように記憶しています。確か太宰府とセットだったような。官人が神職を務めた場合もあったようです。おそらく古代には「政」と「祀り」の2つのまつりごとは横断的に行われていたのでしょう。

宗教というのは人間と人間との間の経済活動の調停機能であるという考えを私は持っています。それは倫理道徳を定め、神の罰によって強制するからです。昔は神は今でいう法そのものでした。人間が作ったものですが、万人には通じない倫理道徳のかわりに宗教による律法が始まった要素もあると思っています。そのいみで、政治と宗教は、古い時代においては不可分というより一体であったと思います。

安芸国衙の行政(まつりごと)と安芸国の祭祀(マツリゴト)を同じ佐伯氏が行っておられました。他地域は如何なのだろう、と少し興味がわきます。

2010/ 5/16 13:19 wikipediaより引用 vigorous action さんの投稿作品「都府楼跡」

田所明神社の御祭神”槻瀬明神”つきのせみょうじんとは

田所明神社HPです。↓ ↓

[厳島遙拝所(国廳神社 槻瀬明神)大黒社 合祀]田所明神社 tadokoromyoujinja(広島県)
田所明神社は厳島遙拝所(国廳神社)と槻瀬明神と大黒社を合祀した社です。厳島神社神主家(佐伯氏)及び田所明神社の佐伯氏(田所氏)は安藝國第一の旧家で、その祖先は遠く、初代天皇 神武天皇の時代より、東征に尽力した天湯津彦命とし、成務天皇の勅により、阿岐国造を賜った、飽速玉命とされます。厳島神社、埃宮・多家神社、速谷神社の「...

御祭神の「槻瀬明神」ですが御由緒がよくわかっていないそうです。しかし、なんと正二位と神階がとても高い。不躾にも「月読信仰と関係があるのでしょうか」と宮司さんに質問したらそれとは関係はないとおっしゃられました。なぜ私がそう思ったかと言うと神武東征の際に当地、多祁理宮(多家神社)に滞在した、とするなら、豊家の月読信仰が伝わっても良いような、と思ったからです。ツクヨミとツクノセ、ちょっと違いますが。説明板を見ると、↓

上記画像内(9行目)より「槻瀬明神 つきのせみょうじん 「芸藩通史」名神考 安芸国神名帳に正二位五前の位階とある。「芸藩通史」巻ニ、五三二頁。田所氏の宅後に神石あり、つきのかみと称して、毎年正月三日、十二月晦日、燈を献じて之を祭る。」

正二位って神階ではかなり上です。

正二位一覧

葛野月読神 (山城国 月読神社)
多度神 (伊勢国 多度大社)
熱田神 (尾張国 熱田神宮)
中山金山彦神 (美濃国 南宮大社)
建御名方富命前八坂刀自命神 (信濃国 諏訪大社)
二荒神 (下野国 宇都宮二荒山神社、日光二荒山神社)
若狭比古神 (若狭国 若狭彦神社)
熊野神 (出雲国 熊野大社)
杵築神 (出雲国 出雲大社)
熊野早玉神 (紀伊国 熊野速玉大社)
大山積神 (伊予国 大山祇神社)
市杵島姫神、湍津姫神、田心姫神 (筑前国 宗像大社)
健磐竜命神 (肥後国 阿蘇神社)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%9A%8E

田所氏の宅後に神石あり、つきのかみと称して」・・つきのかみ!ここでいう神石とは月読信仰の月延石(つきのべいし)ではないだろうかと考えて、失礼にも月読尊でしょうか?と田所さんにたずねたわけです。ツキは槻であり月ではないとのお返事でした。リンク先はチリコさんのサイトです。勝手にリンクしてすみません。

田所職という行政職名から、名字田所さんとなった今も「佐伯さん」でありなおかつ「田所さん」なのです。

広島県安芸郡府中町は国府(コフと読む)があった場所で、ここで行政を担当していたのが田所明神社宮司さんの祖先の田所職の佐伯さんです。田所(たどころ)というのはそもそもは行政職名で、徴税や記録などを司るのが「田所職」でした。もともとは佐伯さんですが、職名から名字は田所さんになりました。つまりここの宮司さんは今も佐伯さんであり、なおかつ田所さんなのです。佐伯さんであり田所さん・・・どうぞ混乱しないでください。

『先代旧事本紀』「現代語訳」巻十国造本紀によると『国造氏族は佐伯氏と伝えられ、厳島神社の神主となって以来、代々世襲してきた。田所明神社の田所氏も国造佐伯氏の後裔とされる。』と書いてあります。

佐伯さんの先祖は、神武東征に尽力した家系で阿岐国造を賜った飽速玉命(あきはやたまのみこと)

厳島神社神主家(佐伯氏)及び田所明神社の佐伯氏(田所職を経て現在までの田所氏)は安藝國第一の旧家です。その佐伯氏の祖先は、遠く初代天皇神武天皇の時代、東征に尽力した「天湯津彦命あまのゆつひこのみこと」で、成務天皇の勅により阿岐国造を賜った「飽速玉命あきはやたまのみこと」とされています。

つまり田所明神社の宮司さんは、安芸国を開拓した飽速玉命(あきのはやたまのみこと)の血統ということになります。厳島神社、埃宮・多家神社、速谷神社の式内社に列せられる「安芸国三社」とも深いつながりのある田所さんです。そんな事も全く知らずにお邪魔した私に丁寧にご説明くださるので、ひれ伏して帰ってきた次第です。とても親切で説明がわかりやすく知識豊富な宮司さんでした。陸上自衛隊でレンジャー教官もされていたそうです。古代の佐伯氏の祖先の神武東征における武勇とちょっと繋がりました。

府中の立地は陸と海の物流をつなぐモーダルコネクトに適している

安芸の国府と鹿籠(こごもり)より引用します。国衙の西側は潟湖(せきこ)でした。海岸線は内陸にあり、太田川三角州はまだ海中にありました。鹿籠(こごもり)湾にはかつて湊があり貢納物を荷揚げしていました。国衙から役人が鹿籠まで来て、荷物を記録。陸と海を結ぶ湊ですが「泊とまり」となづくものは公的なみなとで、鹿籠には「朝泊」という湊があったそうです。現在は鹿籠の地名は残っていますが、朝泊という地名は残っていません。

安芸の国府と鹿籠(こごもり)より引用。

鹿籠湾の朝泊(港)で鹿さんマークの船から徴税品の積み下ろし、2km離れた国衙から役人がやってきて貢納物を調べ記載している、それが行政職である田所職でした。古代の重要港であったことは、国衙や山陽道の位置から容易に想像できます。田所明神社のある近辺一帯が国衙のあとになります。

なぜここが選ばれたかというと、太田川のデルタ地帯は遠浅で湊が作れない、府中鹿籠の朝泊のみなとを過ぎると、西側はと言うと、草津港まで行かないと港がなかったからというのもあるようです。下図、今昔マップより引用し私が着色。黄色が府中の鹿籠こごもり(朝泊)と安芸国衙青は草津港です。

鹿籠で荷を船から降ろして、北にある国衙(石井城)のあたりに運びます。

下図に旧山陽道を書き込みました。物流を考えるとやはり山陽道沿いの府中のほうが草津より有利です。府中の立地が海の物流と陸の物流とを結びつけるモーダルコネクトに適した場所であったことがわかります。

古代の府中は要港であり、神武天皇の埃宮えのみや・多祁理宮たけりのみやもここにあった?

古代のことは諸説あるので転記するにとどめます。よくわからないので。

『広島県史』原始古代 阿岐国造によると『阿岐国地域に存在した国造として阿岐国造が唯一のものである。神武天皇東征神話に阿岐国に滞留のことが見え、東征途次の駐留地がいずれも要地であることから阿岐国も山陽の要衝と認識されていたことが推測される。阿岐国造の本拠については、阿岐国でもっとも広大な平地の開けているのが西条盆地であり、阿岐国最大の前方後円墳の三ッ城古墳(みつじょうこふん)のあることからここから求める説も無視できない。しかしひるがえって考えてみれば、西条盆地はもちろん阿岐国造の領域内の重要地域であるけれど、やはりアキの地名の本拠地に求めるのが妥当であるとの立場にもとづくならば、安芸国のうちでもアキ郡アキ郷の地名を持ち、水陸の接点として重要な府中町に求めるのが妥当なのではなかろうか。今日では瀬戸内海水位がさがって陸地化したが、古代の府中は要港であり、神武天皇の埃宮えのみや・多祁理宮たけりのみやもここであったとされてきたことなどをもあわせて考慮に入れるべきであろう。』
『広島県史』原始古代、129頁,130頁。

安芸国の歴史と文化の学習より引用。

安芸国府周辺は神武東征の駐留地であったようです。多祁理宮(たけりのみや)→多家神社

『芸藩通志』巻一 安芸国 国名考によると『安芸の国名は初めて古事記、日本紀に見ゆ、曰く、素戔嗚尊 下至于可愛之川上、但し古事記には安芸の字、阿岐に作る、・・・思うに、その上既に国名ありて、国主の人ありぬべし、三代実録、貞観九年、授安芸国安芸津彦あきつひこ神、正五位下とあり、此これ安芸津彦の神、もと此の国もりにて死後にこれを廟祭せしなるべし、先代旧事本紀 国造本紀に、志賀高穴穂朝(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太=成務天皇)天湯津彦命あまのゆつひこのみこと五世孫 飽速玉命あきはやたまのみこと定賜 阿岐あきの国造くにのみやつことあり・・・国府 古制、国ごとに府をおき守介掾属(目)、これに居て政を聴く、故国に必ず府あり、府に必ず守介掾属(目)あり、安芸国府は今の安芸郡府中村是なり、・・・』

『芸藩通志』巻一、29頁。

守介掾目とは。国司(古代から中世の地方行政単位である国の行政官)は、中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)たちを指します。

古事記にも日本書紀にも天湯津彦命も飽速玉命もでてこないし阿岐国造のこともでてこない。平安時代初期の『旧事本紀』にしかでてきません。記紀には広島のことがあまりでてこないんですよね。

とっちらかったので整理します!

・宮島の鹿が本土に渡っていたという話を聞いて、調べていたら田所家の家紋を見つけました。田所家の家紋のことを調べ始め、田所さんの末裔にお話をきき、縄文海進やら安芸国衙のことについて興味を持ちました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: image-34.png

・宮島の鹿が田所屋敷(現広島市佐伯区)に海を渡って文を運んでいたのは縄文海進や実際泳ぐ鹿の動画をみたら、まことらしい。

・田所職を務めていた府中の佐伯氏と厳島神社の初代宮司家佐伯氏は遠い血縁関係。

・佐伯氏は神武東征に功があった家系で阿岐国造家に任ぜられる。佐伯氏は厳島神社の初代神職であり、本家佐伯氏が安芸国国庁(=国廳)で行政職の田所職を担った。(神政一致っぽいなと私は勝手に考えました)

・田所文書は安芸の歴史を細かく伝えている(今回は記載を省きました)。

広島市佐伯区の由来は、佐伯家の屋敷があったからだろう。

ちなみに田所屋敷すなわち佐伯家の屋敷はかつて、今の広島市佐伯区にありました(佐伯区の由来は佐伯さんに違いない!)。ここに最初住んでいて、安芸郡府中町に出て田所職を担ったのが本家の佐伯家ということです。田所屋敷は今はゴルフ場になっています(何番ホールかは失念)。地名がミヤケとかヤシロでなんとなくそれがあった名残っぽいですね。

広島市佐伯区 三宅(みやけ)、屋代(やしろ)あたりの地図。

田所明神社の宮司さんは寒い日であったにもかかわらず、展示物をお示しになられながら丁寧に安芸の歴史を教えてくださりました。ありがたかったです。ストーブをこっちに向けてくれるなど、とても親切にしていただきました。

蛇足

帰りしな、最寄りの天神川駅に向かう途中に、竹原ボクシングジムがありました。元WBA世界ミドル級チャンピオン竹原慎二さんは安芸郡府中町の出身です。タレントの吉川晃司さんも安芸郡府中町の出身です。府中の国衙で仕事してた人の末裔かもしれんの~、、などと妄想しながら帰りました。

ちょっと長くなりました。読んでいただきありがとうございます。

コメント

  1. nakagawa より:

    はじめまして。
    大野瀬戸は大潮の時は歩いて渡れると宮浜温泉の方に聞いたことがあります。
    さすがにそれはものの喩えだろうとその時は思いましたが、今年の潮位を調べると次の満月(2021/2/27)の最低潮位はサーフライフの予想で24.6cm(大野瀬戸)、海上保安庁の潮汐推算で-9cm(広島港)なので驚きました。
    鹿も渡れますね。

    田所明神社のことも厳島神社の初申神事も初めて知りました。
    一年の祭事の中でこの二祭が重んじられていることや神代の遺法であることなど、興味深いです。

    佐伯氏というと思いつくのは、地元福岡県那珂川市にある現人神社です。
    神功皇后の命により佐伯宿禰が祀官を務めることとなり、今も佐伯さんが宮司をされています。

  2. yopioid より:

    nakagawaさん、こんにちは。
    初コメントありがとうございます。イラッシャーイ。
    宮浜温泉、いいところに泊まられましたネ!
    宮島は、じいちゃんちだったので、鳥居の下で貝掘りしたり山に登ったり専ら遊ぶところでした。
    遅れ馳せながら歴史を勉強し始め、宮島って面白いなと思い始めたところです。
    佐伯さんって宮司さん、福岡にもいらっしゃるんですね。
    余談ですが広島市佐伯区を英語ネイティブが聞くと「サイキック」と聞こえるそうです。
    超能力!すみません・・・。
    いつもこんな調子のテキトー人間ですが、よろしくおねがいします。
    福岡の春日市に小中学校時代に住んでいましたよ。

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