千葉の洞窟遺跡、2箇所

大寺山洞窟遺跡鉈切洞窟遺跡をチラ見してきました。海蝕洞穴と、舟葬が特徴になります。

大寺山洞窟遺跡

まず、大寺山洞窟です。古墳並みの豪華な副葬品が、洞窟から出土しました。関西風の副葬品であったようで、船でやってきたのかも。もともとは海で作られた海蝕洞窟です。陸地の隆起により現在は山裾の横穴のようになっています。

いずれの副葬品も、東国の大型古墳から出土するものと比べて内容的に遜色ありません。これらの副葬品が海食洞穴墓から出土している例はなく、当時の流行であった「古墳」を築造することなく、独自の墓制を守り続けた集団の姿が浮かび上がってきます

なかでも、三角板革綴短甲横矧板鋲留短甲、歩揺付金銅製品、銅製鈴、漆塗りの木製盾は、東国の古墳の中でも貴重な出土例です

「舟葬」という葬送儀礼を確認できたはじめての遺跡であり、古墳時代に海を意識した他界観が形成されていたことを示す資料として貴重なものです

副葬品をみると畿内政権との関連が強く認められ、生業基盤を海に求め、海上交通を支配した海人集団の墓であると考えられます

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page000366.html

(関西風といえば古代に関西からやってきたとされる忌部氏でしょうか。でも忌部氏は海人族ではないし、誰だろう。。)

こちらは三号洞窟⇩ 一号洞窟など他は私有地のため立入禁止です。

薄暗い洞窟遺跡はゾクゾクします。褶曲した地層のアーチの下に海蝕洞窟があります。柵から中を覗きました。縄文時代から古墳時代までの土器、人骨、武器などが多数発見され、副葬品からは畿内との関連が示唆されるとのことです。寺の所有地の範囲だけを総持院の住職さんに見せていただきました。

鎌倉を中心に房総にも見られる上流階級の横穴式の墓「やぐら」という形式があります。この海蝕洞穴のある後述する鉈切神社内にも「やぐら」があり、鉈切神社の海蝕洞穴自体も横穴式石室です。横穴式のところだけ一致しますが関連はよくわかりません。

南房総の隆起と海岸段丘

なぜ海蝕洞窟が山にあるか少し述べます。南房総は大地震ごとに上昇し、その都度段丘ができます。関東大震災では2m上昇しました。下の段々は地震ごとに海から上がってきました。

房総半島の海岸段丘 | 国土地理院

国土地理院の解説図

次は同じ南房総、千倉における海岸線の変遷。「元禄型関東地震の再来間隔、最短2000年ではなく500年 – 東京大学 大学院理学系研究科・理学部 (u-tokyo.ac.jp)」より引用

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2017/5369/ より引用

このような隆起によって、2つの海蝕洞窟は今は山手にありますが、昔はもっと海に近かったに違いない。

地震で隆起した海岸|早川由紀夫|note
青森県深浦町千畳敷。波浪浸食でできた波食棚が1793年2月8日の地震で隆起した。山側に広い平坦面がもう一段見える。ひとつ前の地震で隆起したのだろう。 千葉県白浜町野島崎。1923年9月1日に起こった大正関東地震で1.8メートル隆起した。隆起した波食棚で灯台が取り囲まれている。海岸段丘のなかに、地震によって隆起...

鉈切洞窟遺跡

次はなたぎり洞窟遺跡、やはり山側にあります。かつては海に洗われてできた海蝕洞穴が、隆起してここにあります。

鉈切神社は2箇所あり、海側と陸側2つあります。海側は島だったであろう海南鉈切神社。巨石がおみやの裏にあります。御神体でしょうか。

ササラは雨の音

サイノカミ?と思ったら力石だそうです。

アメコミキャラ風。。

お宮の裏に回ると巨石が、更に見上げると、

見上げるような巨石がありました。コレって磐座なのしょうか。

次は、船越鉈切神社にある、鉈切洞窟遺跡へ移動します。交差点を渡ってすぐ右。

なんだか薄暗いしひと気もない。迷わず進みます。

「海神の御子・豊玉姫命を祀る」と書いてありますが、ん???。。。御子→巫女では。。。海神の御子とは?豊国の豊玉姫じゃ。。。お口チャック!!

宝蔵庫には船のカタチの宝物が入っているようです。

本殿の柵の隙間から洞窟を眺めてみますが、よく見えません。奥のお社の奥にあるようです。立て看板より引用↓ 36.8mも奥行きがあるようです。

房総半島南端の館山湾周辺には、縄文海進の時、地盤が浸食されてつくられた海食洞穴がいくつか見られる。本洞穴はその一つで、湾に面した洲崎半島中央部の標高25mの海岸段丘にある。洞穴開口部では高さ4.19m、幅5.85mをそれぞれ最大とし、開口部から最奥部まで36.8mである。

現在、洞穴には船越鉈切神社の拝殿及び本殿が建てられている。昭和31年(1956)10月、拝殿の建築工事に伴い発掘調査が行われ、縄文時代後期初頭(約4,000年前)を中心とした土器や動物や魚の骨、鹿の角や動物の骨で作られた漁の道具が多数出土した。調査の結果、魚の種類はわかったもので約50種、漁具は釣針や刺突具、網の錘(おもり)など内容に富んだものであった。このことから、ここに住んだ縄文人は豊かな海洋資源を獲得するため、多様な漁の方法を身につけ暮らしていたことが判明した。

この洞穴は、古墳時代に一部が墓として利用され、その後、丸木舟を社宝とした海神を祀る神社として地元漁民の信仰対象となっていることも、興味深い事実である。出土品の一部は館山市立博物館で公開されている。

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-041.html

大寺山洞窟遺跡は総持院の敷地にある

大寺山洞窟見学のために現地に着いて、いきなり面食らったのが鳥居にみえる冠木門です。神仏習合の両部鳥居みたいに見えます。住職さんに聞くと、密教寺院では冠木門を置くのが形式なのだそうです。鳥居の由来をよく知りませんが、カブキ門と関係があるのだろうか、と一人思案。

館山市総持院の敷地内に、古代、海人集団が崇拝した大寺山洞窟遺跡があります。館山市に連絡をとり、総持院の住職さんに挨拶をして、現地までの行き方を訪ねたところ道案内をしていただきました。総持院は、永長2年(1097年)安房の国司だった源親元によって創建されました。地元では「沼の大寺」と呼ばれ、そのため総持院の裏手の山を大寺山と呼ぶそうです。鐘楼の柱には小さなカエルの彫刻があり、これを撫でると「無事帰る」というご利益があるそうです。先述しましたが、3号洞窟の外観のみ見学しました。1号のところは立ち入り禁止です。

洞窟見学もそこそこに、鳥居のような冠木門とお寺にハマってしまいました。梵鐘は鋳物のブランド高岡製です。立派な山門。

大寺(おおでら)、総持院は、真言宗宗智山派です。

山号:三富山
宗派:真言宗宗智山派
本尊:不動明王
安房郡札三十三観音霊の第一番

真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)は、日本における仏教の宗派の一つ。弘法大師空海を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095年-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。天正5年(1577年)に根来山の能化職となった玄宥(1529年-1605年)が、天正13年(1585年)、秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山 智積院を、慶長6年(1601年)、徳川家康の許可を受け寺領(豊国神社付属寺院の土地建物)を拝受し復興させたことを端緒に創建されることとなった宗派である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97%E6%99%BA%E5%B1%B1%E6%B4%BE

根来!信長や秀吉を苦しめた鉄砲衆で有名な根来衆の根来ですね。信長による天正伊賀の乱で滅ぼされた忍者衆が、徳川家康を頼って保護され、江戸時代に一定の役割を果たす、忍者小説によくある筋書きです。その家康に復興を認められたのが智山派。

真言宗には2つあって、古義真言宗と新義真言宗とが政府の政策で1900年と1941年に合同させられたあと独立し、新義真言宗が智山派(もと根来)に、旧義真言宗は豊山派となります。

忌部氏が徳島や香川そして出雲だけでなく、紀伊にもいたそうです。そして紀伊の根来にゆかりのある智山派と、故郷が一緒だ、などと勝手に私が結びつけます。洞窟の主が忌部氏かどうかもわかってないのに。

以上、古代海人族系豪族の洞窟遺跡を裏山に持つ密教寺院総持院さんでした。

蛇足!鳥居がよーわからんとです。

厳島神社の大鳥居とにてるな~と。笠木(屋根のところ)が似てます。

厳島神社の大鳥居は、天文16年(1546年)に大内義隆が再建した時から両部鳥居になったと言われています。両部鳥居とは何でしょう。もうこのあたり理系野郎の苦手分野。一から調べてみましょう。

両部鳥居(りょうぶとりい)は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。派生したものとしては伊香式鳥居がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%83%A8%E9%B3%A5%E5%B1%85

密教の金胎りょうぶってなんやろ。

金剛界と胎蔵界金胎二部。

https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E8%83%8E%E4%B8%A1%E9%83%A8-506313

剛界と蔵界ってなんやろ。。金剛はダイヤモンド(金剛力士像はダイヤモンドレスラーと昔おぼえた気がする・・)。

大日経と金剛頂経、略して金胎、すなわち金剛頂経、大日経の両経を「両部の大経」と言う

http://mk123456.web.fc2.com/kyoten/ryoubukyou.htm

・『大日経』と『金剛頂経』は同じ大日如来(真言密教の教主である仏であり、密教の本尊)を主題として取り上げながらも系統の違う経典。違う時期にインドの別々の地方で別個に成立。その2つのことを両部という(本を数える時の部だな!)。

・金剛界と胎蔵界それぞれの内容を図解したのが、曼荼羅。

金剛界曼荼羅

胎蔵曼荼羅

正直違いがよくわからんよ。。

・胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えている、らしい。

つまり両部鳥居とは密教の原典2部(両部)の鳥居。

≒密教鳥居?(調べるほどわからなくなる不思議)

それで厳島神社の両部鳥居と密教寺院の冠木門とをもう一度見比べてみます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Itsukushimajinja-5-300x225.jpg

なんだろう、この鳥居感。。。稚児柱もある。。。いやいやここは密教寺院なので冠木門です。

厳島神社のある厳島も昔は密教が盛んでした。大晦日に行われる厳島神社の鎮火祭はもともとツゴモリヤマブシ(晦日山伏)という山伏が行う密教の行事で、明治維新後に厳島神社の行事になりました。今は宮司さんが弥山の消えずの火を運んできますが、江戸時代までは山伏さんのお仕事でした。

昔は、弥山にも山伏が修行によう来よった。

ほうじゃ今は大聖院やら大願寺の火渡り式に来よってよの。

見たことあろうがいの。

山伏が大晦日に手に手に松明を持って弥山から走り下りてきて、町の中を走り抜けたそうな。火の粉がいっぱい飛び散ってから、そこらじゅう火の粉だらけにしたんじゃが、どっこにも火がつかんで火事にならんかったそうな。
ほいでその松明の残り火をもろうて、正月の煮炊きの火につこうて、燃え残りを竈の神さんにお供えしといたら火事除けのお守りになるいうて、ありがたいことなんじゃ。
これが今大晦日にしよる鎮火祭いうお祭りなんよ。

https://www.miyajima.or.jp/legend/legend_miyajima7.html

また長くなっちゃいました。ゴメンナサイ~。お読みいただきありがとうございます。

コメント

  1. CHIRICO より:

    おお〜、思わず見入ってしまいました。
    興味深いですね。
    房総半島に渡った古代史族ですと、諏訪から南下したタケミナカタ族、畿内から移住した三島溝喰族、大彦の息子ヌナカワワケ族、それらを追った物部族、物部に便乗した忌部族あたりでしょうか。
    静神社(倭文神社)系を見ると、伯耆国から海部系の人も移住しているみたいですね。
    古い出雲族も移住していたようですし、インドネシア系の南方民族やアイヌあたりもいたのではないでしょうか。
    沖縄の洞窟で例の久米仙人に案内してもらったヤジャーガマは風葬地でした。
    インドネシアでは洞窟で風葬にする慣わしが、今もあるとか。
    千葉を掘り起こすと、いろいろなものが出て来そうです。
    緊急事態宣言が明け次第、千葉には飛ぶつもりです。
    ただそれは今回の執筆の取材旅行のためで時間が限られているので、今回の洞穴を回る時間はなさそうで残念!
    でもまた旅する機会があることを願っています。

  2. yopioid より:

    コメントありがとうございます。
    新しい単語がいっぱいで頭がパンクしそうで消化不良ながらお返事します。
    コメントにお返事が遅れたのはそういうわけでご容赦ください。
    タケミナカタとミシャグジさまが習合して関東方面(上毛、群馬、埼玉)にその分布がある話でしょうか。
    タケミナカタの居たところには横穴洞窟遺跡のある海部郷があったり安曇の地名やら海人族風のが混在してますね。
    次に、三島溝咋姫、ことしろぬしの后のひとりでクシヒカタの母ですね。https://omouhana.com/2021/02/09/%e9%ac%bc%e3%81%ae%e9%87%9c%e5%8f%a4%e5%a2%b3%ef%bc%9a%e5%85%ab%e9%9b%b2%e3%83%8b%e6%95%a3%e3%83%ab%e8%8a%b1%e3%80%80%e6%84%9b%e7%80%b0%e8%a9%a9%e3%83%8e%e7%8e%8b%e7%af%87%e3%80%8019/
    このへんまだ勉強不足です。
    大彦の子孫が東へ移って開拓し、それが物部の脅威になって物部が追いかけてきた、それに随行したのが忌部氏でしたっけ。
    恥をしのんでよくわからないままお返事しました。
    お忙しそうなので返信はいいですよ。頑張ってください。

  3. CHIRICO より:

    さすがですね、その通りですの解釈で良いと思いますよ。
    僕自身も関東・東国方面はまだ良く整理できていません。
    東国は江戸時代まで未開の地だったような印象がありますが、これだけ多くの氏族が入り混じっているのを見ると、それは間違いだと考えざるを得ません。
    ただ物部王朝以降、エミシの国として歴史を消されたのでこのような事になっているのでしょう。
    それを紐解いていくのも楽しいのですけど。

  4. yopioid より:

    エミシが分布していた北関東や東関東へ西からの高度な鉄や技術をもった出雲系文化が流入、
    穏やかに過ごしていたところへ物部がヤイヤイときて、
    エミシや出雲系を物部が「エミシ」「渡来人」と単純化したのかな。
    お疲れさまです。

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