個人の狂気などたかが知れている

一年前。時間が経てば例の病気は風邪の一つに落ち着いていくだろう、と疾病史の視点から同僚と予想していた。今の所どうなるかはわからないが、その考えは変わっていない。ウイルスは常に変異していて真新しいことでもない。一方で株価は急落した。世の中の狂乱ぶりに同調する人たちは聞く耳を持たず、合理的な行動を行えなくなった。怪しい自称専門家の扇動や、科学的知識のないテレビ局員のほうが正しいと、まるで両人を教祖のように崇める信者が増え、世の中は不安に喚くばかりの末法の世となった。なんなんだあの化け物みたいな化粧を施した太ったおばさんは。だいたい新しい風邪は出始めは派手なのがまあ通り相場でだんだん落ち着くもの。世界は破滅するというデマが罷り通り、過去の経験則を述べることすら許さない。違う意見が通らない。大多数の意見が主流で、それに同調することを強いられた。これを集団の狂気と言わずなんというべきか。戦争を知らないがこういう心理状況だろう。

世界史は集団の狂気が作る。個人の狂気はたかが知れている。民衆の狂気が歴史を作ったのであって独裁者個人の力で作られたのでは決してない。戦争犯罪者を個人の責任に集約し話を単純化するがそれは正しい歴史認識ではない。朝日、毎日、講談社と言った戦時中のマスコミは大東亜戦争を煽りに煽り、民衆も狂乱した。東条英機一人に帰するやり方は公正であるとは思わない。あんな程度のおばさんを崇めるような集団の狂気こそが問題ではないか。

人々の狂乱ぶりを確かめながら、自分の予想に従って暴落時に大量に株を逆張り買いした。このような買い方は、リーマンショックなど暴落イベントのたびに胃を痛めながらやってきた。なんの意見も通らない集団の狂気にあえて意見せず、悪く言えば手玉に取ることだけを考え同調せず実行してきた。和して同ぜず。マスコミの垂れ流すデマやウソは、そこから距離を置けるならば投資家にとってありがたいものになる。実態とかけ離れた評価を生み出す源泉と考えれば利用価値がある。集団の狂気によって評価はオーバーシュートし、過剰/過少が生じる。自分が信じる価値を狂気に評価されてたまるかと考えて普通に行動することが必要。狂気の集団の真ん中にいて皆が言っているのと同じことを声高に叫ぶ人々は偉くなった気にでもなれるのであろう。しかし、それは共有情報を追随しているにとどまり、そこから将来を予想していることにはならないから慎むべき。集団の大きな声に距離を置き単独行動することは孤独であり心理的にも負荷が大きく胃が痛くなる、しかし恐慌に逆らうことは、実りが大きいことを同時に知っている。

実社会と相場での行動様式は違うほうが良い。相場で信念を貫き他人と違う行動をするとき、他人には狂気に映るように、別の自分もまた自分自身を狂気であると一歩引いてちゃんと見ている。つまり個人の狂気は完全な狂気にはなりきれないのであって、ために胃も痛くなる。繰り返しにはなるが、個人の狂気などたかが知れていて、集団の狂気こそが私にはよほどか恐ろしく手がつけられないものと考える。その一方で、集団の狂気は予想通りにさらに”悪化する”から予測がしやすい。集団の狂気は、台風みたいなものだ。そろそろ去ってほしい。

私は半額弁当が好きだ。予想通りの価格変動がおこり、相場より簡単だから。閉店間際の異常な需給差が異常な価格を決定する。売り切らねばならないという店の慌てぶりを楽しむ。価格は価値を決めるものではない。価値は自分が考えるものだ。

日記はデスマス調で書くべきだとは思うのですが、ゴメンナサイ。お読みいただく視点が考え事してると抜けてしまいます。デスマス朝、世界史っぽいです。。お口直しに広島の穴子焼きです。ほんじゃあの~

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