磨く

包丁を研ぐのが好きでたまにやる。砥石には荒砥石、中砥石、仕上げ砥石があり、荒い砥石で先に研いでその後きめ細かい砥石に変えていく。家の玄関タイルや部屋の床は、電動ディスクサンダーを用いて磨いた。その研磨ヤスリも順番があって荒い方からきめ細かく番手を上げて仕上げていく。

ところで昔、上岡龍太郎師匠がパペポテレビで似たようなことをおっしゃっていた。「僕はトイレでお尻を拭くとき、きりがないねん。だから予め決めて、紙を指の間に5枚挟んで用意しとく。5枚の用途は、粗拭き、下拭き、本拭き、ツヤ出し、総仕上げ」すかさず鶴瓶がつっこむ「ハハハ、そんなとこツヤ出してどうすんねん!」。

100%の仕事を目指して納期を守れない人より、70%ぐらいの仕事の出来栄えで納期を守る人のほうが実際には求められる。100%の仕事は必ずしも必要がないときに、お客さん視点より自分自身の満足が優先し仕事が仕上がらず信用を失ってしまう人もいる。機械を作る、人の生命に関わる仕事は100%の仕上がりが求められるし完璧主義の人に向いている。しかし、そういった場合でさえ言えることは、手を抜ける所は抜いて、精を込めるべきところにしっかり注力するバランスのとり方が必要であるということだ。全部に全力をかけると疲弊し良い仕事は出来ないことは言うまでもない。

肛門を拭くのは本当にきりがない。いくら拭いても、という時がある、まるでシャチハタスタンプのように。。。肛門を拭くという営みは、各個人の裁量にほぼ全てを依存しており、個人の良心に全権を委ねられているということだ。これくらいでいいんですよ、とトイレの中に入ってきて(あるいはマイクで)アドバイスしてくれる人はまずない。肛門を拭くことへの迷いと、床を不必要にツルツルに磨き、過剰な仕上がりを追求するDIY初心者の迷いとは非常によく似ている。なぜなら、迷うがゆえに程々でいいものに対しても不必要な美しさを求めるからである。「そんなとこツヤを出してどうすんねん」ということである。

そもそもどこまでの深さが肛門であるのかという領域に関する問題すら未解決である。グローバリゼーションだの世界市民だの薄気味悪いスローガンを声高らかに言う割には、お尻をどこまで拭くかという問題は人類に共有すらされていない。「どこまで拭けば一体拭いたことになるのか?」「それは自己満足ではないのか?」このような内なる誠実な問いに対し、いい加減に生きられない人はパンツをずりおろしたまま、孤独に自問自答をし苦悩を今日も深めているのである。

File:The Thinker, Rodin.jpg
ロダン「考える人」(※本文とは関係ありません)wikipediaより引用

いくつもの人生の哲学的難題に対し我々はそれぞれの孤独のうちに相対的な真理つまり、個人やその周囲にだけ通用する合目的的な解を得て「こんなとこツヤを出してどうすんねん」と自分自身に妥協を求めつつ生きている。実用上はパンツにつかない程度に拭き上げできればよいのである。こういった現実との妥協を重ねることで肛門を拭くという”芸術”は完成する。地上に堕ちた真理として。

つまるところ、芸術とは歩み寄りと妥協による産物にすぎぬ。もっといえば芸術など絶対的真理からは程遠いものである。

(というか、最初からウォシュレット使いなさいよ。。。)

DIYに美しさを求め始め、道具を次々に買い求め、時間がかかってしょうがない自分自身に対し、戒めを込めて、かようにこっ酷く書き連ねた。即ち、自分の信ずる美しさにこだわり、客観的視点を失った”アート”というものは、無駄以外のナニモノでもなく、実用性からは程遠いものとなる。

Take home message こんなとこツヤ出してどうすんねん

最後まで読んでいただきありがとうございます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました