なぜ官能基は「官能」と名付けられたのか。

有機化学物質の構造を説明する言葉で「官能基」という言葉に高校のときにたいそう引っかかった。要するに官能という言葉に纏わる尾籠なイメージが先にあったからだ。

宇能鴻一郎、川上宗薫、団鬼六、富島健夫、フランス文庫。。

官能とは機能である

-OH -COOH -CHOなど、特定の構造を有機化合物が持つと、似た性質を持つ。例えば-OH(ヒドロキシ基)を持つR-OHは「なんちゃらアルコール」になる。また、水素結合を生じる水などの溶媒に溶けやすくなる。焼酎のお湯割り。。

メチルアルコール CH3-OH 

エチルアルコール C2H5-OH

-CHOを持つと「なんちゃらアルデヒド」になる。-COOH(カルボキシル基)を持つR-COOHは「なんちゃら酸」になる。例えばお酢に入っている有機酸である酢酸はCH3-COOHである。

有機化合物の性質を特徴づける機能を持つ-OH -COOH -CHOなど「官能基」はエロくもなんともないのに「官能」基、何故だ?

それは、意味「官能」=「機能」であるから。

したがって、官能基は機能基である。英語だとfunctional group

かん‐のう クヮン‥【官能】辞書引用

官能 かんのう〘名〙
① 動物の感覚器官の働き、または諸器官の働き。肺臓の呼吸作用、耳の聴力の類。
※医範提綱(1805)題言「其中より全身諸物の名及び官能の綱領を述べ」
② 感覚を起こさせる感覚器の働き。理性の働きのまじらない心の作用。感能。〔哲学字彙(1881)
③ 肉体的満足、特に性欲を享受、充足する働き。
※邪宗門(1909)〈北原白秋〉父上に献ぐ「ここ過ぎて官能の愉楽のそのに」
④ 機能。〔哲学字彙(1881)

出典精選版 日本国語大辞典

①諸々器の機能、②感覚器官の機能、④有機化学における官能は「機能」。

官能基は機能基と意味的に言い換えうる。英語ではfunctional group。

しかし、官能=エロ になぜなるのか。。

官能は主体の感覚器官、間接的に客体の官能性を示す

上記辞書の①②④の官能と、③の官能とは異質に見える。前者は主体のもつ感覚機能や器官の機能を示すのに対し、③では外部刺激に反応した感覚器官によって主体にもたらす状態に言い及んでおり、もっというと感覚器官を励起せしめた客体が感覚刺激的であることを示唆しその場合に官能的と表現する。

客体のクオリティを暗示することは転義なのかと最初はおもった。そうではなく実は③はブッダの思想に遡る。後に詳しく述べるがかんたんにいうと次のようになる。

我が器官が主人の意に図らず反応するのは悩ましい官能的存在に触れてのこと。人為的に自身の器官(官能)の反応をコントロールして平安な心の状態を保つことを目指したのがブッダである。五官(五つの感覚)を制御下に置き、心の平安を保つこの考え方は仏教とともにやってきた。漢字圏経由で来たので大陸語の五官に由来する。官能の本来の意味に自己と官能との関係、そしてそれらの制御のあり方が含まれる。すなわち、官能的という言葉がエロい対象を示すことは、転義ではなく由緒正しきブッダの哲学以来の含意である。

客体をエロいという代わりに「チンピクする」とか「おっきするお」「萎えるわ」という表現があるが、対象を直截に表現するのではなく、自分自身の器官(官能)の反応を通じて、その状態に至らしめた刺激体(客体)を官能的(=感覚器官反応的)と言及するのであるが、官能的の本義は、官能(感覚器官)作動的、機能作動的、感覚器官刺激的ということで感覚器官から様々な心の作用を生じ対象の性質までをも意味する。つまり「チンピクするほど美しいと思う」。

官能の原義は多義的で懐の広い言葉である。また概念をさし広義、狭義両者とも併せ持ち、文脈で意味が変化しうる。意味限定的な固有単語「ポルノ小説」では人目が憚られる場合に、幅広い変幻自在の多義的単語で「官能小説」というならば、子供にもあれなあに?ですみ、特にあやしげな裏稼業の日陰商売が表に出るために仮装を与える。見る人が見ればわかる”符牒”となりうる。「あれはね、仏道修行の本なのよ」と説明できる。

官能小説の立ち読みは仏道修行である

ブッダが官能をコントロールすると言う文脈で使った。官能とは感覚器官に意味が限局されず、それによって起こる心の不安定さ、煩悩などに拡がりを持つ言葉である。ポルノ小説ですと言ってしまうより「官能」小説という由緒正しき用語であれば少しは体裁がいい。

官能小説を本屋で立ち読みする時に我々はかなり我慢しながら読まねばならない(一緒にすんな?私だけですか・・)。つまり反応してはならない(もっとも出来ない)。これはブッダの目指した状態へとつながるための修行だ。なぜ家で読まずに敢えて本屋で官能小説を立ち読むのか、これは仏道修行であるからに他ならぬ。飛行訓練の宙返りで失神しない訓練みたいなもので、冷静さを保つことの訓練である。感覚刺激への耐性をつけるために本屋で官能小説を読むという苦行は並大抵のことではない。フランス文庫コーナーで立ち読みしている人を決して軽蔑してはならない、彼らは行者なのである。

子供にあれなあに?と聞かれたら、「大人が六入の制感、つまり仏道修行をするための本」と説明すればよい。もっとも、歳をとると自然に耐性が発動するのだけども・・。

「官能」を哲学字彙にあたる。五官は仏教用語に由来。

上記日本国語大辞典の引用元「哲学字彙」を紐解く。編者、井上哲次郎。Metaphysicalを「形而上」と訳した人でもある。

国立国会図書館オンラインより引用 

西洋の文化を我が尊敬すべき明治の先達が必死に取り入れていた頃に編纂された哲学字彙(井上哲次郎 1881年 国立国会図書館オンラインより引用)のFunctionの項、訳として「作用・官能・関数」とある。やはり官能は物理数学的なfunctionでもある。ではSenseではどうだろう。↓

同辞書、Senseの項、訳として「感性・官能・意旨・覚官」。上で、現代の「五感に訴える」のファイブセンスが五官となっている。このころは五官>五感だったのか。まるで其々の感覚に五人の官人がいるかのよう。

感覚器官を「覚官」というのは、お坊さんの名前みたいでかっこいい、覚官大僧正。感覚を司る、覚官。どんなエロい写真を目の前に出しても絶対ピクリとも反応しないお坊さん・・・。

官能的 organoleptic

官能検査という、食品関連産業などで使われる真面目な用語がある。利き酒など、主観に依存した検査のことを官能検査というが言い換えれば人間感覚検査のことで、体調などに左右される。

「感覚器官知覚的」と意味限定し、ブッダ的意味の広がりを消去した organolepticという言葉がある。organolepticはフランス語に由来する(フランス文庫がorganolepticに関連するかどうかは知らないが)。このlepticという接尾辞は「disposed to accept」(この場合は感覚刺激を)受けやすい、という意味になる。チンコ用語で恐縮だか、味覚や五感がチンピクしやすいと言う意味。

ワインの怪しげな解説者が「官能的なワイン」と言っているのは案外に伊達でも酔狂でも突飛な形容でもない、まっとうな表現である。制御が効かないくらい美味で刺激的という褒め言葉になる。

-leptic<Greek lēptikós disposed to accept

https://www.dictionary.com/browse/organoleptic より引用

五官

五官という言葉は仏教用語である。

 「意地」はもともと仏教用語であり、人間の五官による認識、(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)の次にくる第六意識(心)のことである。大谷大学HP

第六の「意識」が五官をコントロールする、心の制御の道を教えるのが仏教であるという。

何かによってなにかが起きることが縁起であり因縁である。五官によって心の変化がおこることも縁起の諸段階の一つ。すれ違いざま肩と肩が触れて(感覚 「因」)イラッとしやすいチンピラが(精神状態など因の辺縁 「縁」)によって「おんどれなんや」と”因+辺縁”で因縁をつけてくる(=無茶な関連付けのこと)。縁起の最初は五官への入力。

ブッダは心の仕組みを考えた、心の元をたどれば五官(感覚)

インド哲学者中村元さんの言葉です。十二縁起について、下記引用より抜粋。

・考えていることのもとを辿れば感覚

・感覚を制御しているのが意識

・5つの感覚(五官)と、意識をあわせて「六入」

・「六入」が生じる背景に「名色(みょうしき)」←みょうしきは感覚器官に対する起因要素

・「名(みょう)」というのは精神的な働き。「色(しき)」というのは、物質面の働き

・名色と六入の対立、それを識別するのが「識」それを行動に移す精神作業が「行」

中村: その説明はいろいろでございますが、公式的には、「これがある時に、これがある」ということが言えるんですが、それが縁起の理法の根本ですが、しかし釈尊が、それを心に思ったというその動機は、自分の、あるいは人々の生活というものを考えてみると、いろいろな動きがございますが、人間は思うようにならないですね。必ずしも欲するようにいかない。そこで我々は、「老いとか、死」というようなものに最後には苦しむことになる。それは何故そういうことになるか、と、それを辿っていったわけなんです。それで今人間の最後の段階としては、老いとか死というものに悩むわけですが、「生死が起こるのは何故か」というと、「人間が生まれたから、と。この世に生まれてきたから」と。それ(生)が原因になっているわけです。さらにじゃ生まれてきたのは何故か、と元に辿りますと、「有」になるんですが、「有」というのは、サンスクリット語でbhavaと申しますが、これは人間の生存のことです。bhavaが「有」という動詞から作られたものだから「有」という訳語を、中国の漢訳仏典で使ったわけですが、ちょっと誤解されるかも知れません。むしろ元のbhavaというのは「生存」という意味です。じゃ、今度「人間の生存があるのは何故か」というと、これが人間が考えてみると、あくせく暮らしておりますね。いろいろな「執着」があります。そうすると元の執着を「取(しゅ)」というわけです。「取があるのは何故か」と、またその元に戻りますと、そうするといろいろなものに対する「愛着」があるわけです。じゃ、「愛着が起こるのは何故か」というと、それは外のものから、いろいろの「感覚を受ける」わけですね。「感覚を受けるのがあるのは何故か」と、また遡りますと「触れる」という字が出ておりましょう。これは呉音では「そく」と読みますが、外界からの対象が我々の存在に触れるからだ。どうしてそういうことが起きるかというと、そうするとまた遡りますと、我々人間が六つの感覚器官を持っているからなんですね。六つの感覚器官を「六入(ろくにゅう)」と申します。これは「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)」というんですがね。我々五官(眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚))がございますでしょう。その他に我々の心という器官がございますね。それで六つあるから「六入」というんです。それが何故働くかというと、また遡りますと、そうすると「名色(みょうしき)」がある。「名(みょう)」というのは精神的な働き。「色(しき)」というのは、物質面の働きです。これは仏教以前のウパニシャッドで使われた言葉なんですが、仏教ではそれを取り入れまして、その対立があるわけですが、その根底には何があるかというと、我々の精神作用があって、いろいろなものを識別するからですね。それを「識(しき)」と訳しております。「識」が起こるのは何故かと。これはまた元へ戻るわけですね。いろいろな精神作業をつくる形成力と言いますが、形成作用がある。サンスカーラと言うんですが、それを漢訳仏典では「行(ぎょう)」と訳しております。「諸行無常」なんていう時の「行」はこれなんですね。さらにその奥に何かあるんではないかと申しますと、それは「無明(むみょう)」というものがある。人間は生きている限りやっぱり「迷い」がございますですね。それで明らかな智慧がない、迷っている。それを「無明」というわけなんですね。これで十二になりましょう。つまり後で挙げたものがより根底的な働きで、それが順次に基礎付け合っている。それで掻い摘んで申しますと、この図式では根本に無知があるところの「無明」迷いが人間の根本にある。それが根本の煩悩を起こしておりまして、それによって本人には如何とも為しがたい激しい欲望が起きる。それが愛執という形を取りますから「愛」と訳すこともあります。そこで人間は、人間の生存に対する我執が起こる。いつまでも自分というものに滞っていますが、そうすると今度はそれによって苦しみであるところの老いとか死とか、その他のいろいろの悩みが起こるわけですね。こういう具合にしてブッダは、元の原因を、人間の迷いがある。その原因を突き止めようとされたんです。そして順次に条件付けの段階になっていますから、その元の原因が押さえられて、働きが無くなれば、それに基礎付けられている働きも無くなるということを気付きまして、そこで経典の中では、ブッダが詠嘆な詩を唱えられるということが伝えられています。

中村元 ブッダの人と思想

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-630.htm より引用

まとめ 本屋で官能小説を読んで官能を訓練しよう!

官能とは「機能」であり「感覚器官」である。「性欲を充足する働き」の意味になっているのは転義的なのではなく、ブッダの目指した心の平安につながる官能のコントロールを念頭においた「官能」の用法で、「五官」に元々そのような含意があった。官能が下卑たニュアンスで専ら使われるのはこの点を踏まえて部分拡大し符牒化したもの。

官能といった時に、その意味するところに本能的な感覚器官とそれをコントロールする人の葛藤というニュアンスが内包され、感覚器官の主である人間が逆に感覚器官によって懊悩を生じ、克服し難いものとなるというニュアンスが含まれる。五官や官能に翻弄される人の姿も見えてくる。そして、官能や五官を刺激せしめる外界の対象物、刺激体がみえてくる。つまり、官能とは、主客一体とその関わり方と、官能によって生じる心の迷いや苦しみの解決法全般のことを言っている。修験道の禅定、瞑想などは修業によって心の動揺をなくするための方法の一つである。

結論 本屋で官能小説を読んで官能を訓練しよう!本質的には禅の修行と目的は同じ。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございます。

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