壬生義士伝 浅田次郎 下巻

下巻。読書していてわからない言葉を調べました。浅田次郎の本はとても面白いです。

以下個人的メモです。

p51 「本郷も兼安までは江戸のうち」兼安??かねやす?

江戸東京博物館の回答。

「かねやす」は地名と店名として知られる。地名としては本郷三丁目の兼康横町。『御府内備考』によると、兼康祐悦という口中医師(歯医者)が住んでいたことに由来する。店名としての兼康はこの地に祐悦が開いた店。享保年間(1716年頃)から乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したという。質問にある川柳は、中仙道を北上すると兼康の店がある辺りから江戸の景観が農村的に変化したからと考えられている。現在、店は移転し、洋品店となった店舗(文京区本郷2-40-11)脇に説明プレートがある。

(参考資料)

【資料1】『日本歴史地名大系 第13巻 東京都の地名』平凡社地方資料センター/編 児玉幸多/監修 平凡社 2002年 請求記号:2910/139/13-S00 p.519

【資料2】『江戸語辞典』大久保忠国,木下和子/編 東京堂出版 1991年 請求記号:8183/7/91 p.183

【資料3】『江戸学事典』西山松之助/他編集 弘文堂 1994年 請求記号:2136/396/94 p.119

【資料4】『江戸社会史の研究』竹内誠/著 弘文堂 2010年 請求記号:2136/885/0010 p.72~74

【資料5】『東京江戸案内 歴史散策 巻の3 老舗と職人篇』桜井正信/編 八坂書房 2003年請求記号:2913/725/3 p.75

文京区HP  https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/kaneyasu.htmlwindow open (最終アクセス日:2019年6月12日)

士道不覚悟・・・「自分の敵を目の前にして背中を向けて逃げ出すような者は武士として心得がなく、武士を名乗る資格すらない」という事を表す言葉

「小川信太郎の作法には何の落度もなかったのじゃよ。誰の目から見ても、谷三十郎の取り乱しようは士道不覚悟じゃった。」上巻

「今じゃから申しあんすが父上、わしは人ば斬ることが、辛うて辛うて仕様ねがった。そんたな顔を土方さんに気取けどらるれば、士道不覚悟で何をされるかわからながった。じゃからわしは、血も涙もねえ顔ばして人ば斬り申した。」下巻

「もっとも、ことの発端はそもそも近藤のえこ贔屓なのだから、土方以下は誰もこの粛清に異論はなかったのじゃろう。おそらく日ごろの傍若無人のふるまいに加えて、介錯失敗という士道不覚悟、近藤がいかにかばいだてしたところで、沖田や斎藤が黙っているはずはないと、誰もが了簡したのであろうよ。つまり、天誅だったのじゃな。」下巻

p72「戊辰の戦ののち、会津藩士が下北の斗南(となみ)に流されたことは知っておるであろう。斗南は南部領の北の涯(はて)、凍餒蛮野(とうたいばんや)なる不毛の地じゃ。」

現在のむつ市に該当。

むつ市には戦時中大湊警備府があった。

1886年4月22日、「海軍条例」において全国に五つの海軍区を定め、第五海軍区の範囲は「北海道陸奥ノ海岸海面及津軽海峡」と決められた。1890年2月4日勅令第7号「第五海軍区鎮守府位置設定ノ件」によって、室蘭鎮守府の設置を内定したが、室蘭は地形的に太平洋からの攻撃に対して防御が困難であるとの理由で、1895年6月12日に軍港予定地を大湊に変更した。しかし、大湊に鎮守府の設置は実現しなかった

1900年春から大湊水雷団敷地の造成工事が始められ、1902年8月1日、後に大湊要港部へと発展する大湊水雷団(横須賀鎮守府管下)が開庁し、あわせて大湊海軍修理工場を開設し、翌年9月に第4水雷艇隊(水雷艇4隻)が配属された。

日露戦争において、大湊水雷団は津軽海峡警備を担った。戦後、日本の南樺太領有に伴い、北方方面の警備が重要となり、1905年12月12日、大湊水雷団は大湊要港部へ昇格した。当要港部は、北方海域における警備、権益保護、漁場安全確保、救難救助などに従事した。

1941年11月20日、日米開戦が迫る中、その対応のため大湊要港部は大湊警備府に昇格した。太平洋戦争中は、千島方面の防備強化、第5艦隊・第1水雷戦隊・第12航空艦隊への後方支援、海上護衛、対潜掃海等に従事したが、戦局は悪化し、1945年8月9日から10日にかけての大湊空襲により大きな被害を受け終戦を迎え、同年11月30日に廃止された。

1953年9月16日、保安庁警備隊(後の海上自衛隊)によって大湊地方隊として復活。同時に地方総監部を設置。他の4地方総監部(横須賀・舞鶴・佐世保・呉)は全て既存の鎮守府から継承した為、大湊のみ、「鎮守府」への実質的な昇格を果たす形となる。

とう-たい 【凍餒】 寒さにこごえることと、飢えること。生活に苦しむこと。
出典徒然草 一四二「世治まらずして、とうたいの苦しみあらば」
[訳] 世の中が治まらないで、こごえ飢えの苦しみがあれば。

の、異字が餒

食が委える、で飢える 魚が腐るの意味も。

p103 「蔵前の有力な札差でしたが」 札差とは。

1.江戸時代、旗本・御家人(ごけにん)の代理として、禄米(ろくまい)を受け取り、また金貸しなども業とした人。
2.宿場(しゅくば)の問屋場で荷物の目方を検査した役目(の人)。

p113 「済生学舎に入学を許されました」

さいせいがくしゃ【済生学舎】
医師の長谷川泰(はせがわたい 長岡藩典医)により1876年に創立された民間の医学校。当時医師になるには大学卒などを除いては医術開業試験を受けねばならなかったが、いわばその受験のための学校であった。当初本郷区元町のち湯島に移り付属病院(蘇門病院)も設けられた。講師は主として東大の教授・助教授・助手などがあたり、大量の学生を相手にして試験を課さないなど独特の教授法をとったがこれには批判もあった。女子の入学も許し吉岡弥生(よしおかやよい)も同校出身の一人だが、のち女子学生を締めだしそれがもとで吉岡が東京女医学校を創始するところとなった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

明治三十四年に帝大や医学界の拒否にあい大学への昇格を得ず、一旦閉校。のちの日本医科大。

p173 「万斛(ばんこく)のおもいで母と妹をすてた」 

ばん‐こく【万×斛】
《「斛」は石こくの意で、10斗》はかりきれないほど多い分量。「万斛の涙を注ぐ」多分万斛の涙の思いで、の略か。

p175 千住掃部宿まで迎えに出た。せんじゅ「かもんじゅく」作った人の名前から。

かもん‐りょう〔‐レウ〕【掃部寮】
律令制で、宮中の掃除や、儀場の設営などをつかさどる役所。また、その職員。弘仁11年(820)、宮内省の内掃部司と大蔵省の掃部司とを併合して掃部寮とし、宮内省に属した。かもりづかさ。かもんづかさ。

井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼

『千住旧考録』によると石出掃部介の新田開発によって元和2年(1616年)に掃部堤(かもんづつみ)が築かれ、万治元年(1658年)に隣接する掃部宿(かもんじゅく)・河原町(かわらちょう)・橋戸町(はしどちょう)が開発された[掃部宿開発の記録『千住旧考録』]。

p218 「南部大豆とイヤァ、大坂の相場を左右するほどの名品でした」

仙台のだだちゃ豆は知っていたが。南部も?

https://www.mame.or.jp/Portals/0/resources/pdf_z/087/MJ087-04A-SR.pdf

豆しとぎ。豆でシトギを作る!シトギはモチの原型。正月のお供えはシトギが由来。

煮て潰した青大豆に米粉と砂糖を入れて練った生菓子。「しとぎ」は米をつぶして粉にしてつくったもので、現在の餅の原型とも言われ、全国で神前のお供え物とされていた。南部地方ではしばしば冷害に見舞われ、米が貴重だったため大豆を加えてつくられるようになり「豆しとぎ」とよばれるようになった。どの家庭も味噌を仕込むために大豆の作付けは多かった。ハレの日に山の神や農神へお供えして、健康と豊作を祈り、その後蒸したり焼いたりして食べる。(農林水産省

青森の幻の調味料!「南部玉味噌&すまし」現場レポート
かつて青森県の南部地方で作られていた「南部玉味噌」と「すまし」。現在このような味噌づくりをしている人はほとんどいないそうですが、旧南郷村(八戸)にある「山の楽校」が再現に取り組んでいます。現地を訪問し、作り方を体験してきました。 南部玉味噌とは、2月の寒い頃、大豆を蒸して潰し、大きなおだんごのようにまるめ、藁を編...

小泉武夫 食マガジンより引用。

南部玉味噌とは、2月の寒い頃、大豆を蒸して潰し、大きなおだんごのようにまるめ、藁を編んで藁葺き屋根の家の軒下などに吊します。すると天然の麹菌がやってきて、大豆だんごに棲み付き、春には大豆麹になります。これを臼と杵で叩き割って細かくし、塩水と混ぜて熟成させ、味噌にします。

p220 「侍が商売に手を染めるてえのが、そもそもご法度なんです。だから、実務はみんな商人任せだった。」「名代と蔵元と掛屋(中略)その3つの商人てえのは、今日びで言うならさしずめ、不動産屋と商社と銀行。」

名代 精選国語辞典より

④ 江戸時代、大坂で、各藩の蔵屋敷の名義上の持ち主をいう。当時は、松山・津の両藩のほかは、大坂三郷内に屋敷を持つことが許可されていなかったので、商人から借家をして蔵屋敷とし、蔵役人を置いた。その蔵役人を代表する名義人を名代といった。
※御触帳‐宝暦五年(1755)一二月二三日「名代用聞廻船并荷物所持之者、名前書付可指出之事」

蔵元 

江戸時代,大坂などにおかれた諸藩の蔵屋敷で蔵物の出納売却などを管理した人。当初は藩派遣の蔵役人がこれにあたったが,寛文年間 (1661~73) 頃から商人があたるようになった。これら町人蔵元は普通,藩から扶持米 (→扶持 ) を給され武士に準じる扱いを受け,蔵物の売却にあたって口銭を得,また売却に関連して莫大な投機的利潤をあげた。蔵元には掛屋 (かけや) を兼ねる者が多く,大名をしのぐほどの経済的実力をもつ者もあった。岡山藩,広島藩,福岡藩などの蔵元をつとめた鴻池家,同じく松江,高松,久留米諸藩の天王寺屋,姫路,松山,熊本諸藩の平野屋は有名である。

酒を作る処によく「蔵元」とあるが、蔵元は酒蔵のオーナーで、つくる人ではない。つくる人のリーダーが杜氏、その下で働く職人が蔵人(くらびと)。もとに帰って蔵元は酒の場合「酒蔵元」なんだろうか。

p235 「あっしのところにゲソをつけるわけえものにしたって、ちょいと(叱言)こごとをいうとすぐにプイッといなくなっちまう。部屋住みの辛抱てえのができねえんです。」

部屋住み・・インターン、住み込み研修。

【これ本音】ヤクザの部屋住みは辛いんだ!部屋住みあるある - 最新ヤクザニュース
目次1 ヤクザの部屋住みとは?2 部屋住…

p236「軍隊じゃあ死に方を教えてくれるがね、生き方ってのを教えちゃくれません。」「男なら男らしく生きなせえよ、潔く死ぬんじゃあねえ、潔く生きるんだ。潔くいきるてえのは、てめえの分を全うするってこってす。」

p240 「南部藩は水戸藩とご縁が深くって、御当主美濃守様の奥方様も、水戸からお興し入れになった。」「御譜代大名にもかかわらず彦根が薩長の側についたってのは、水戸出身の慶喜将軍が気に入らねえってこともあったんじゃねえでしょうか。(中略)井伊大老は慶喜様を推さなかったんですよ。」

p275 「東中務様(東次郎)てえ南部一門の御家老」は天朝を担いだ賊軍薩長に恭順の姿勢。東中務様と勢力を分ける「楢山佐渡」は反薩摩の旗頭。

p280 「兵隊をおっぽらかして江戸に逃げ帰るような将軍家になんの義理もあるもんか。天朝様を担いで転訛を乗っ取ろうてえ薩長が、我慢ならなかったんです。それに、腰抜け将軍の代わりに頑張った会津様が、ひとりで悪者にされるてえのもたまらねえや。仙台の伊達様も米沢の上杉様も、むろん南部のお殿様もね、天朝様に弓をひくつもりなんて毛頭なかったんです。ただ、会津を勘弁してくれろとお願いしていただけなんで。」

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権

奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している。

成立間もない5月中に新政府軍は東北への侵攻を開始、同盟諸藩は新政府軍との戦闘を行ったが、勝利をおさめることはできずに個々に降伏(戊辰戦争)。9月には中心的存在の仙台・会津が降伏し、同盟は消滅した。wikipedia

ポイント 最初は京都守護であった会津を赦免嘆願するための同盟であったが、軍事同盟に変貌。

薩摩の私怨という印象は拭えない。

p316 國府鶴 日本酒「武蔵府中の國府鶴、近藤も土方も若い時分からこいつを飲ってたんでしょうねえ」

武蔵府中の地酒 國府鶴|合名会社 野口酒造店|武蔵府中の地酒 國府鶴
武蔵府中の地酒 國府鶴を製造する合名会社 野口酒造店の公式サイトです。

p322 近藤は「鳥羽・伏見の戦いのまえに墨染街道で肩にくらった鉄砲傷がどうともいけなくて」

近藤勇、伏見で銃弾を受ける|幕末特集 京都伏見の新選組|月桂冠 ホームページ

p323(池田七三郎は)「会津如来堂の激戦で斎藤とはぐれてから、半死半生で下総の銚子まで落ちてそこで捕まったんです。」

斎藤一コース|モデルコース
負傷した土方歳三と代わり、新撰組の隊長となった斎藤一。歳三が函館に向かった後も会津に残り激戦を繰り広げました。 斎藤のゆかりの地、戦地や城を巡り、戊辰に散った志士達の思いを馳せるコースです。

p333 中島三郎助「箱館総攻撃のとき、最後の最後まで降参せずに玉砕しちまった千代ヶ岡陣屋の大将です。」「もとは浦賀の与力だったんですが」「つるみて絵に痩せた丈の高い体に、鷲みてえな顔のついた年寄でした。」

Nakajima Saburōsuke.jpg

中島三郎助 wikipedia

本国は美濃、生国は相模、文政4年(1821年)1月25日、浦賀奉行所与力・中島清司の子として生まれる。母は浦賀与力・樋田仲右衛門娘。中島家は寛文9年(1669年)に下田与力に召し抱えられて以来、与力を務めてきた家柄である。若いころより砲術に才能を見せ、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた。また俳諧や和歌を父より手ほどきを受けたと伝えられている。喘息の持病があったという。

天保6年(1835年)、浦賀奉行与力見習として高五十俵で召し抱えられた。天保8年(1837年)、モリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。嘉永元年(1848年)、格別出精につき、五人扶持を加えられ、嘉永2年(1849年)、父の番代として浦賀奉行与力に召抱えられた。嘉永3年(1850年)、奉行所船庫の失火により、蒼隼丸をはじめとする軍船のほとんどが失われた事件では責任を問われ、押込となった。

嘉永6年6月(1853年7月)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)した際に、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船した。その後、浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともにアメリカ側使者の応対を務めている。なお、アメリカ側の記録では、船体構造・搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。ペリーの帰国後、老中・阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張。嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。

安政2年(1855年)、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた。「鵬翔丸」で帰府後、安政5年(1858年)に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられた。安政6年(1859年)、浦賀の長川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行った。万延元年(1860年)、軍艦操練所教授方頭取手伝出役に進んだが、病気のために文久元年(1862年)出役依願免、与力に戻った。

元治元年(1864年)に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの再び病気となり、慶応2年(1866年)出役依願免、同年末には与力の職も長男・中島恒太郎に譲った。慶応3年(1867年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。

慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁・榎本武揚らと行動を共にして同年8月19日(10月4日)に江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。箱館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並を務め、蝦夷地七重村開墾條約書には箱館奉行・永井尚志と連名で署名している。戦時は本陣前衛の千代ヶ岱陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦した。箱館市中が新政府軍に占領された後、軍議では降伏を説いたが、中島自身は千代ヶ岡陣屋で討死することを公言しており、五稜郭への撤退勧告も、新政府軍からの降伏勧告も拒否。本陣五稜郭降伏2日前の明治2年5月16日(1869年6月25日)、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。享年49。

関連書籍・作品
大島昌宏 『北の海鳴り 小説・中島三郎助』 新人物往来社、(1995年)、ISBN 4-404-02167-4
佐々木譲『くろふね』角川文庫、平成20年(2008年)、ISBN 978-4-04-199804-5
木村紀八郎『浦賀与力 中島三郎助伝』鳥影社、平成20年(2008年)、ISBN 978-4-86265-147-1
松邨賀太『義に死す 最後の幕臣 評伝・中島三郎助』文芸社、平成20年(2008年)、ISBN 978-4-286-04878-9
『壬生義士伝』(2002年1月2日、テレビ東京) 演:夏八木勲
『五稜郭』(日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:若林豪)
歴史秘話ヒストリア(2011年7月6日 再放送7月27日)「世にも数奇なラストサムライ〜幕末 いつも“そこ”にいた男・中島三郎助〜」が放送された。(演:アンディ岸本)

p337「矢面に立ったのはいつだって新選組と会津と桑名で、幕府のお偉方は将軍様はじめ、誰も手を汚さなかったのさ」

p363 「ダンブクロ」 コトバンクより引用 要するにズボン(軍服)

武士調練服の下衣。幕末徳川幕府が欧米諸国より開港を迫られた際に、従来の武士の服装が非戦闘的なのを悟り、1862年(文久2)閏(うるう)8月22日に武家の服制改革が断行された。そのとき、調練服を筒袖(つつそで)に股引(ももひき)、あるいは筒袖に裁着(たっつけばかま)とした。さらに慶応(けいおう)年間(1865~68)に下衣を細袴とし、この西洋式細袴を段と称した。つまり、日本式軍装の上衣を筒袖といったときに、下衣を段袋といったもので、形態は腰紐(こしひも)のついた袴仕立てのものである。

[遠藤 武]

p366 銃のいろいろ、列記。順に上の方が新しく高性能。

スペンサー銃 

米国南北戦争後、アメリカで余剰となったスペンサー銃、スペンサー騎兵銃が、幕末の日本に輸入された。総督府の発注で慶応4年(1868年)に大村益次郎が横浜で入手した際の価格は一挺37ドル80セントと記録されており、当時の官軍主力銃であったスナイドル銃の価格(一挺9ドル30セント)に比べると四倍近くも高価であった。

幕府歩兵隊と主に佐賀藩黒羽藩が購入して装備し、戊辰戦争で使用したが、高価さに加えて専用弾薬の入手難易度が高い(内製化されておらず、全て輸入に頼っていた)ため、弾薬補給の観点から他の輸入銃に比べて数は多くはない。この他に、郡上藩凌霜隊(同藩の佐幕派から成る諸隊の一つ)も装備していたとみられ、少数とはいえ討幕・佐幕双方で使用していたといわれる。

会津藩士の山本覚馬は長崎でスペンサー騎兵銃を購入し、会津に居た妹の八重に送った。彼女が戊辰戦争会津若松城籠城戦で城に入り、この銃で奮戦したエピソードが知られている。当時薩摩軍で分隊長だった大山厳に狙撃で重傷を負わせたのも八重だったと言われる。

スナイドル銃 次に述べるエンフィールド銃を後装式に改造した小銃  

エンフィールド銃 パーカッションロック式 前装式 ライフリングあり。前装式は銃口から火縄銃みたいに弾込めする。

ミニエー銃 前装式+ライフリングあり

ゲベール銃 前装式+ライフリングなし。

ミニエー弾 弾丸の空洞内に、弾丸の拡張を助ける役割を持つ鉄製のキャップが挿入されている弾丸。ミニエー弾の断面図、空洞内には半球型の鉄製カップが内蔵されている。銃を発射した時に、このカップが空洞の奥に食い込んでクサビのように作用し、弾丸を拡張させ砲身と密着させて圧を逃さない機構。従来のマスケット銃の有効射程にくらべ3-6倍に伸びた。

p372 「高幡のお不動様の裏手の山に登るとあいつ(土方歳三)が自慢していた通りの景色が合った」高幡不動尊金剛寺の近くに土方縁の地がある。

p415「「愛国」とは「神力」「亀の尾」とならぶ、明治の日本三大品種の一つであります。」

おくて(晩生 晩稲)は冷害をうけやすいため、寒冷地には向かないが、実入りがいい。

わせ(早生)は冷害を受けにくい。

静岡の「愛国」の早生のみ選別したもの。以後の冷害に強い品種の祖。

https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010771562.pdf

評判がいい小説なので読んでみました。噂に違わず面白かったです!

以上です。

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