櫂(宮尾登美子)読みながら調べた語彙(2)

続きです。自分用メモです。

p126 「とことんとことんと触れてくる団扇太鼓の外題の披露を」

触れる ・・・知らせる

団扇太鼓 ・・・仏具

外題 ・・・文脈では演目のこと。

外題はもともとは公文書(上申書の余白に書かれた袖や奥に採決や証明の旨を記したもの)

古文書

(1)古文書の様式の一つ。申状(もうしじょう)・解状(げじょう)などの上申文書の袖(そで)や奥に、上級者がその文書に対する裁決や証明・認可の旨を記したもの。平安時代には私領の譲与などに際して、国司(こくし)の承認を求める解(げ)を提出し、国判を受けねばならなかったが、これは通常、解の余白に記された。また、鎌倉幕府では、初め御家人(ごけにん)の所領譲与に対して、その安堵(あんど)のため、幕府の下文(くだしぶみ)・下知状(げちじょう)が発給されていたが、1303年(嘉元1)から、こうした譲与安堵には、下文などは発給せず、申請者の提出した譲状(ゆずりじょう)の袖にその譲与を安堵する旨を、執権(しっけん)・連署(れんしょ)の署判による下知状の様式で書き込むこととした。これを「安堵の外題」という。

(2)掛軸・書物などの表紙に記す表題。表紙にじかに記したり、細長い短冊型の紙(題簽(だいせん))に書し、表紙や巻子(かんす)の外側端に貼(は)ったりする。

(3)歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)などの脚本の題名。芸題。おもに上方(かみがた)における名称で、江戸では名題(なだい)という。

「袖判を通す」とは? https://raisoku.com/8673 より引用。
 書籍や博物館などで「袖判を通す(そではんをとおす)」という語を見たことがないでしょうか。
例えば「織田信長の書状に、将軍である足利義昭も袖に判を通した」などと表現されます。
つまり、同意してサインを書いたというわけですね。

p126 贔屓の引き倒し

ひいきにするあまり、かえってその人に迷惑をかけたり、困難をもたらすこと。ひいきが度を越したときに批判的に用いられる。出典 ことわざを知る辞典

p128 ずるりと禿げた頭の裾にだけ残っている僅かな髪は穂のでた薄(すすき)のように頼りない。

p128 「益さんの女ぜせりは浄瑠璃の講釈と並んで有名で、」

いそ‐ぜせり【磯挵り】広辞苑
①磯辺をつつきまわってあれこれとえものをあさること。
②遊郭で上級の遊女相手に華やかに遊ぶのでなく、素人女や下級の売女を相手にしての女道楽。磯狂い。傾城禁短気「其の癖若い時―して来たわろで」

p130 「豊竹呂昇の先輩に当たる」

不明 – https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=99240913, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=71567439による

p131 品評(ひなず) ひなず 不明

p132 「ウ音 中音 ハル音の区分けも」

近代能楽観世流のフシの統一 ウキをめぐって より引用

楽譜記号みたいなもの。

p132 莫迦(わや)にする。 やることがいい加減で信頼できない。

p132 「笑い三年泣き五年の修行のほども」

辞書には「笑い三年泣き三月 (義太夫節の稽古では、笑い方のほうが泣き方よりずっと難しいということ)」。。?

p132 「太棹に乗るような声は」太棹三味線のこと

p133 「綺麗で見場がええきに」

広島弁にもある「みばなぁとええわ」のミバ、漢字が「見場」だったのか。。外から見たようす。外観。見かけ。「―は悪いが味のよいくだもの」見端ともかく。

p133 「ヨネのはなしはハブンに聞いてボッチリ」「ヨネの話は半分にきいて恰度」ボッチリ=ちょうど

ぼっちり =
(1) ぴったり(量が)
(2) 完全な(仕上がりや出来、質が)、完璧な
(3) 出来事が想像していた通りだった

発音ー
普通に、ぼっちり、ということがほとんどだが、ぼっ、ちり、とゆっくりいうと、一ミリの違いもないほどピッタリという意味あいが表現できる。ちり、といった後は笑顔。

例文ー
(1) おはぎ用につくったあんこの量がぼっちりやった。
(2) この魚ずしの塩加減、ぼっちりやね。
(3) まあ、あんたお下がりの着物がよう似合うねえ!丈もおうちょうし(あってるし)。ぼっちり。

すくもちゃん新聞より引用 土佐弁

p135 「わいわいうどんで」うどむ 騒む 南国市方言では騒ぐ。だが、宇和島方言では苦悶する、になる。

p136 「高知の夏の宮祭は先ず田淵のお多賀様から始まり、山田町の八幡さま潮江の天満宮さま、上町のお稲荷様(調べたがわからない)へと移り、遠い一宮の支那禰様で打ち上げになる。」

多賀神社 山内一豊によって分霊された。多賀信仰。

多賀大社のほう、琵琶湖のそば

p136 「番茶に岸豆を入れて飲むのは土佐独特のもので」

きし豆入り土佐番茶/土佐茶工房 ||| 森木久次郎商店
高知特有の「きし豆入り土佐番茶」。強火で炒ったサッパリとした『番茶』に、『きし豆』の香ばしさ、ほんのりとした甘みが加わった、とても相性の良いブレンド茶です。 たっぷり飲んでいただける袋海と、手軽にお使いいただけるティーバッグをご用意しております。

高知では昔から摘みとった茶葉を蒸して、揉まずに開いたまま乾燥させ、分厚い大きな鉄の釜に入れ、焦がさないようにシャモジでかき混ぜながら香ばしく炒りあげたお茶に、ほんのり甘みのある「きし豆」をブレンドし「番茶」とよんできました。普通の番茶にある苦味渋みはなく、ほんのり甘みと香ばしさのあるお茶です。田舎のやさしさが香る高知特有の「きし豆入り土佐番茶」としてお届けいたします。

きし豆

きし豆

きし豆とは、正式名称『カワラケツメイ』といい、日当たりの良い原野や川原などに群生するマメ科の一年草です。日本各地でさまざま別名がありますが、高知での呼び名は「きし豆(岸まめ)」です。

カワラケツメイ - Wikipedia

カワラケツメイを「浜茶はまちゃ」という。別名を弘法茶。カワラケツメイをブレンドしたのが高知の番茶。アサヒ飲料が販売する十六茶にも16個の素材の一つとしてブレンドされている。

Harry Rose from South West Rocks, Australia – Chamaecrista nomame pods1, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=40364432による
https://chakatsu.com/items/asahi_16cha/

空海(弘法大師)が室戸で修行したときに飲んだ、とのこと。

p137 禁厭 まじない 

きん‐よう〔‐エフ〕【禁厭】まじないで、病気や災害を防ぐこと。きんえん。

厭世的のエンは「ヨウ」と読むのか!

禁厭(まじない、きんえん)とは、日本在来の呪術のことである。神道では、大国主神と少彦名神を禁厭の祖神としている。『日本書紀』では、鳥獣や昆虫の害を払うためにそれ除去する呪いを(両神が)定めた旨の記述があり、農耕に関わる禁厭であった事が分かる。

江戸時代の国学者である伴信友が著した『方術考説』には「マジナヒ、こは物実を構えて、それにまじこり肖しめむと、のろひてする術、但しノロヒは凶からしむ方にのみするを此は吉凶ともにするなり」
とあり、その物実を「マジモノ」というとある。

p138 木綿も天竺ならずず黝く(ぐろく)勁く(つよく)、

黝い(ぐろい)

形声。「黑」+「幼」。「幼」は、かすかな光のこと。
意義
青黒い。
黒い。薄黒い。
黒ずむ。黒みを帯びる。
黒く塗る。
黒い柱。

ずず黒い【ずずくろい】とは 薄汚れた感じに黒い。すすけた色。朝に顔も洗わなかったようなずず黒い顔

p141 虫よけになるコールタン コールタールのことだろう

p141 瞽女虫 ごきぶり

標準語⇒方言
四国東南部の方言 逆引き辞典( 標準語⇒方言 ) [略称]土=土佐弁 新=新土佐弁 甲=甲浦弁 野=野根弁 宍=宍喰弁 山=山分言葉         海=海部弁 阿=阿波弁 佐=佐喜浜 大=大阪弁 ゾイカイ弁 和=和歌山弁         岬陽=室戸岬~甲浦地域 幡多郡...

によると、フナムシもゴゼ ゴゼ虫と呼ぶ。瞽女(ゴゼ)とはなんだろう。

瞽女  瞽女は江戸時代から昭和の高度成長期まで活動していた、各地を旅して三味線を弾きながら語り物や歌い物をうたった盲目の女性です。明治時代には新潟県内に多くの瞽女がいて、東北各地、福島県浜通り地方も訪れて、門付芸をしていました。ラジオやテレビがまだ普及する以前、農村部では農閑期にやってくる娯楽として歓迎されました。瞽女は室町時代の絵巻物には琵琶法師とともにその姿が描かれていて、江戸時代までにはほぼ全国的に活躍していました。特に越後瞽女の活動は広範囲で、関東・東北地方から一部北海道まで渡っています。最盛期の明治中頃には、新潟県中央部[長岡市ほか(長岡瞽女)]から北東部[新潟市ほか]、南西部[上越市ほか(高田瞽女)]でそれぞれ大小の里集団で活動していました。長岡瞽女は相馬地方へも多く訪れ、相馬地方の民謡にも影響を与えたといわれています。瞽女は単に歌芸人としてだけでなく、瞽女が来訪すると縁起が良いとされて歓迎されました。生業(養蚕など)・産育・治病などで信仰的に期待されていたことから、瞽女には宗教性が色濃く残されていて盲目巫女の流れをくむと考えられています。南相馬市HPより引用

小林ハル - Wikipedia
瞽女 - Wikipedia

生まれつき目が見えない女性が三味線と唄とを習得して旅芸人をした。琵琶法師に似てる。

葛飾北斎 – Michener, James A. (1958) Hokusai Sketchbooks: Selections from the Manga, Rutland, Vermont & Tokyo: Charles E. Tuttle Company, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2311369による。『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭瞽女(ごぜ)。葛飾北斎は、視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた。

座頭と瞽女の図。座頭市はたしかに目が見えない。埼玉にいた頃、埼玉出身の盲人の博学者塙保己一の生家に行ったことがある。彼の地位は「検校」だった。ちょっと整理。瞽女、座頭、検校。。。

座頭(ざとう)は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた(映画座頭市の中で勝新太郎はあんまをやっていた!)。今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした。

元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する。

古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。

江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲(平家物語の琵琶法師による弾き語り)は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた。当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという。

wikipedia「座頭」より引用

当道座のトップが検校なんじゃね!。

朝廷に収めた金額により上下二段に分かれ、上段の正位が「〇〇検校」従位に「別当〇〇」下位に「〇〇勾当」従位に「座頭〇〇」が与えられました。〇〇は朝廷から与えられた個々の名前です(ヤフー知恵袋より引用)。

塙保己一パンフレット

検校塙保己一について。7歳の時に失明。芸事を覚えさせられるが嫌で自殺をはかるなど・・・大好きな学問をさせてもらうと水を得た魚のように元気になりばりばり勉強しだす!

(塙保己一は)大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版していきました。48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てました。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのです。そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校につき、同年9月に天命を全うしました。

埼玉県HPより引用

塙保己一が集めた資料は領土問題(小笠原諸島帰属問題)にも役立った!!

保己一の後継者である息子の塙次郎のときには、小笠原諸島の帰属問題がアメリカ、イギリス、ロシアなどとの間に持ち上がります。このとき、幕府の求めに応じて日本の領土であることを証明する歴史資料を提供したことにより、小笠原諸島が日本の領土であることが国際的に認められたのです。「塙保己一と小笠原諸島」和学講談所の資料は、東京大学史料編纂所に引き継がれています。埼玉県HPより引用

宮城道雄も検校だった。彼もまた塙保己一と同じ7歳の時に視力を失った。

古くは稗田阿礼も盲人。

足利室町江戸時代(武家政権)は障害者に特権(音楽、金融など)を与え、保護政策を行ったが、明治政府はこの制度を廃止した(批判も多い)。

p143 僅か三寸に足らぬ虫螻ながら

むしけら

螻 けら。おけら。ケラ科の昆虫。「螻蟻(ロウギ)」

ろう‐ぎ【螻蟻】〘名〙 螻蛄(けら)と蟻(あり)。また、虫けら。転じて、小さくてつまらないもののたとえ。※日蓮遺文‐顕謗法鈔(1262)「螻蟻蚊蝱(ろうぎもんもう よっつめはアブ)等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必地獄に堕べし」 〔戦国策‐斉策・閔王上〕コトバンクより引用

ケラ(螻蛄)は、バッタ目(直翅目)・キリギリス亜目・コオロギ上科・ケラ科(Gryllotalpidae)に分類される昆虫の総称。コオロギ類の中には地下にトンネルを掘って住居とするものがいくつか知られているが、ケラは採餌行動も地中で行うなど、その中でも特に地中での生活に特化したグループである。日本にはその中の一種ケラ Gryllotalpa orientalis Burmeister, 1839(G. fossor Scudder, 1869 とも)が分布し、単にケラと言った時にはこの種を指すことが多いが、世界中の熱帯・温帯に多くの種類が分布している。日本ではおけらという俗称で呼ばれることも多い。「虫けら」とは虫全般を指すのであって、ここでいうケラとは関係ない。wikipedexia

ケラはコオロギのナカマ(しらんかった)で地中生活するもの。

p145 「自棄のやん八、日焼けの茄子」

ヤケ(自棄)と焼け。文脈では「爆発寸前」。寅さんの売り口上に出てくる。

寅さん「自棄のやん八、日焼けの茄子、色が黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯で歯が立たない。」

実際の農業では日焼け茄子は売り物としては褐色に変色して良くないようだ。

なす 日焼け果 : こうち農業ネット
こうち農業ネットのなす 日焼け果情報ページです。

p146 不愍 =不憫

p146 支那禰様 =志那禰様

志那禰祭 現在は神輿はお旅所へ神幸になるが、古は御船遊びといつて高岡郡奥浦の鳴無神杜(おとなしじんじゃ)へ遷幸になつてゐたもので、お船遊び当時は京よりわざわざ楽人も参集したことは古書にも見えてゐる。土佐伝説全集(ブログ記事)より引用

鳴無神社 - 須崎市観光協会ホームページ
鳴無(おとなし)神社は、浦ノ内湾の奥、鳴無地区にあります。   海から入るように作られた参道や海に向かって建つ社殿は「土佐の宮島」と呼ばれることも。   創建は鎌倉時代(建長3年)、現在の社殿は166

宮島の管弦祭を連想したが、関係ないかな。

松江のホーライエンヤ

p150 の殻 もぬけ

ぬけがら・もぬけ・もぬける  脱ぐの旁と同じダナw

p150  まなじり 眼尻 =眥 異体字

p152 宥める なだめる

p154 盲目の胡弓弾き柳川。 (やはり胡弓はそういうイメージがあるものなのだな)

“盲目”のいろいろな読み方と例文
読み方 割合
めくら 78.9%
めしひ 6.8%
もうもく 5.2%

p159 一越縮緬 ひとごしちりめん

ちりめん生地の種類は一越、二越、ポリエステルまで!違いと特徴を解説 | 山冨ラボ
着物や浴衣、和風の小物などに使われるちりめん生地。 しかし、「ちりめん」とは言ってもいくつか種類があるのをご存

縦糸に撚りをかけず、横糸に撚りをかけて交互に織ったもの。キメが細かい、高級。着物はこっち。丹後ちりめんなど。

縦糸に撚りをかけず、横糸は右回りと左回りの撚りをかけた二本を織ったもので伸縮性がよく廉価。

水戸黄門がの「越後のちりめんどんや」。

子供の頃、チリメンジャコを売ってるのだと思っていたのは秘密。。

p160 「健太郎くんのような穎哲の才」

穎は穂先のこと。つまり先端、優れていること。

穎 - Wikipedia

【English】Rice plant 灘酒 灘の酒研究会HPより引用

稲は、イネ科イネ属の植物である。属名Oryza は古代ギリシア語由来のラテン語で「米」または「イネ」を意味する。種小名 のsativa は「栽培されている」といった意味である。収穫物すなわち種子は米と呼ばれ、トウモロコシやコムギとともに世界三大穀物の1つとされる。日本酒原料となる米は、温帯日本型のジャポニカ種(Oryza sativa subsp. japonica)である。

籾は稲の穂の枝梗につく小穂であり、基部から副護頴、護頴、外頴、内頴、小穂軸、(ふくごえい、ごえい、がいえい、ないえい、しょうすいじく)玄米からなる。玄米は外頴と内頴に包まれ、これが籾殻または稃と呼ばれるものである。玄米は基部で小穂軸に接続しているが、籾すりによって頴を除く際にその接点より折れて籾殻から離れる。玄米が外頴に包まれている側の基部に胚がある。玄米の胚のある側を腹面、その反対側を背面と呼ぶ。http://www.nada-ken.com/main/jp/index_i/91.html

p160 劬わる いたわる 「劬」 は苦労の意味。

「こちらが劬わるばかりの間柄ゆえ、」この文では「自動詞つかれる 気を遣う」という意味でのいたわる。

古文での労るには自動詞がある

いたは・る 【労る】
[一]自動詞ラ行四段活用
活用{ら/り/る/る/れ/れ}
気をつかう。苦労する。骨を折る。
出典源氏物語 少女
「『…』と申させたれば、『さもやいたはらまし』と大殿も思(おぼ)いたるを」
[訳] (惟光(これみつ)は源氏に)「…」と申し上げたので、「そのように骨を折ってやろうか」と大殿(=源氏)もお思いになったのを。
②病気になる。
出典平家物語 一〇・三日平氏
「をりふしいたはる事候(さうら)ひて、下り候はず」
[訳] ちょうどその時病気することがございまして、下って来ません。
[二]他動詞ラ行四段活用
活用{ら/り/る/る/れ/れ}
①ねぎらう。手厚くもてなす。
出典奥の細道 大垣
「蘇生(そせい)の者に会ふがごとく、且(か)つ悦(よろこ)び且ついたはる」
[訳] 生き返った人に会うかのように、一方では(私の無事を)喜び、一方ではねぎらってくれる。
②治療する。休養する。
出典平家物語 四・競
「此(こ)のほどあまりに乗り損じて候(さうら)ひつるあひだ、しばらくいたはらせ候はんとて」
[訳] このところあまりに乗りすぎて疲れさせてしまいましたので、しばらく休養させようと思いまして。

p163 屢々 =しばしば

p167 心のなかの纔かな矜が こころのなかのわずかなほこりが

か =僅か、=微か、=些か

p171 「へい、一六銀行、八前銀行」 1+6で7 8の前で7 質屋のこと。

p175 「・・爺さんが、長い厚司を引摺りながら店番をしている」

厚司 あつし

厚子とも書く。アイヌ語のアツシ attush,つまりオヒョウの樹皮からとった繊維で織った織物。アイヌの着物がこれでできているところから,厚司をアイヌの着物と解することが多い。着物としての厚司は袖は平袖 (ひらそで) ,丈はすねぐらいで,女物は男物よりやや長めで衽 (おくみ) がない。厚司の特色は袖口,襟,背,裾回しなどに木綿や絹でアイヌ特有の模様を切付けにすることである。また,関西地方で考案された非常にじょうぶな厚手の木綿織物でつくられた紺無地か大名縞の労働着も厚司と呼ばれ,一般に用いられている。

コトバンク 厚司

アイヌ民族の民族服であるアットゥㇱは、靱皮衣の一種で、アイヌ語でオヒョウニレ(att)の木の皮(rusi)という意味。

18世紀後半には鰊粕、身欠きニシンや木材などとともに本州へ大量に運ばれ、耐久性に優れ織目も細かい布として、東北地方や北陸地方など日本各地で反物や衣装として消費されていた。女性たちが機を使って布を織る風景は、蝦夷地に渡った画家たちによるアイヌ絵に多く描かれている。また19世紀には、アイヌが和人との儀礼の場に出る際の衣装はアットゥㇱまたは中国・日本産の絹や木綿の服のみと規制され、獣皮衣よりも手間暇のかかるアットゥㇱが広がることとなった。

樹皮を加工して抽出した繊維を撚り合わせて作られる樹皮布に分類される都合上、綿布や絹布に比べて織り目はやや粗くなる反面、頑丈な割に水に浮くほど軽量で耐水性に優れる上に粗い織り目が通気性の向上に繋がり、日本の漁師や商用船(特に北前船)従事者の間で珍重された。その証拠として、実際に使われていた和服仕立ての袂付き広袖式アットゥㇱアミㇷ゚が数点現存している。

wikipediaアットゥシ

ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58775355による
北前船ものがたり | 青森県立郷土館ニュース
津軽の遺産 北のミュージアム 第21回 「北前」とは  北前船(きたまえぶね)の称は、瀬戸内地方において日本海側を「北前」と呼んだことに由来してい...

p178 顫える ふるえる。≒震える。振るえるとの違い。自動詞か他動詞か。

日本ではtremorの訳語として「振戦」が定着していますが,中国では「震顫」という難しい漢字が当てられています。パーキンソン病(Parkinson’s disease)の最初の名称はshaking palsyであり,これには1925年頃から「振顫麻痺」が当てられて1950年代まで使用されました。症状としての「振顫」も1960~70年代まで用いられました。

 「振戦」の「戦」は戦うの意ではなく,「おののく」という意味から来ており,戦々恐々という熟語もあります。「戦」か「顫」かには立ち入らないことにして,運動異常症としてのふるえには「震え」か「振るえ」のいずれが適切かを考えます。

 「震」と「振」に共通の「辰」は二枚貝が殻から足を出している形で,ふるえるくちびる(唇)の意味を持ちます。「震」は雨+辰からなり,「震」は雷雨が人を驚かせるさまから自動詞の「ふるえる」ことを表し,地震,震動,震撼などの熟語があります。「振」は手+辰からなり,「ふる」ことを表します。手部の漢字を,持つ,打つ,投げる,払う,抑える,招く,拡げる,抱く,握る,撮るのように並べますと,全て手の動作を表現する他動詞です。

意図しないふるえには自動詞の「震」を当てるほうが適切と思われ,「振戦」に代えて「震戦」を推奨したいです。「震戦」は1891年から用例があり,最近でも用いられています。ところで,「振る」はミタマノフユ(神的な霊力)のフユの同根語とされ,物を揺り動かして霊威を招き寄せ,霊力や生命力を呼び起こすことを表します(『万葉語誌』筑摩書房,2014年)。医学書院のコラム(福武敏夫)より抜粋

p179 青北 あおぎた

あお‐ぎた〔あを‐〕【青北】 の解説
西日本で8月から9月ごろにかけて、晴天の日に吹く北寄りの涼しい風。あおげたならい。《季 秋》「―や目のさまよへば巌ばかり/稚魚」

p182 キュウリを切って勘当する。久離 きゅうり、胡瓜ではない。

絶縁の申請。江戸時代。久離の申請は久離願を所定の手続によって所管の奉行所・代官所に出して帳付けを受けて人別改帳からその名前を外して貰う、公的手続き。法的効果あり。なお、久離願の出されない久離は「内証久離」と呼ばれて法的効果は無かった。また、勘当も「追出久離」と呼ばれて久離の措置が取られる場合もあったが、法概念上は両者は異なるものとされていた。失踪に伴う久離に限定する場合には「欠落久離」とも称された。明治4年(1871年)の戸籍法制定によって久離の制度は廃止された。

キュウリを切る、つまり役所に届けて、徹底的に絶縁/勘当ってことじゃな。

p195 胸を刳られた えぐられた

p202 顳顬 こめかみ しょうじゅ その他の漢字「蟀谷」意味”コオロギの谷” なぜコオロギがコメカミなんだよ!

p208 景気に柝(き)を一つ打ち =拍子木

p211 花蕊 =おしべ+めしべ

p211 銀製青海波の肩衣 せいがいは

青海波は和の文様。

基本の和柄無料素材】青海波(せいがは) | JAPANESE MON + iuen

p211 菊花流水を暈した振り袖

伊藤若冲 菊花流水図

p214 「露の干ぬ間の朝顔を、照らす日陰の情なきに」(つれなきに)

「朝顔日記」主人公「深雪」が恋人からもらった扇に書いてあった琴歌「露のひぬ間の朝顔を照らす日影のつれなきに哀れひと村雨のはらはらとふれかし」。解説ブログ

p218 しじらのねまき

しじら織り 

しじら織.png

たて方向にストライプ状に縮んだ部分と張った部分が交互に配された織物で、シアサッカーと同じ。
日本でも普から「阿波しじら」として徳島県の特産となっており、夏の着尺地、浴衣地に使われてきた。しじらとは、布面に現われたしわや立体的な凹凸の効果のこと。

ファッション用語辞典

p220 (ヘイ、うきくさ、よもぎ、リンゴの実「苹果」に用いられる字。=苹

cf. 蘋 うきくさ

p223 鐘も撞木のあたりがら 撞木(しゅもく)《鐘の音のよしあしは撞木の当たりぐあいによるところから》接し方しだいで反応も変わってくるということ。また、連れ添う相手しだいでよくも悪くもなるということ。

p224 怨憎会苦 

おんぞうえ-く【怨憎会苦】
怨み憎む者にも会わなければならない苦しみのこと。仏教で説く、人間界の八つの苦しみの一つ。▽「怨憎会」は怨み憎む者に会うこと。
用例 愛別離苦あいべつりく怨憎会苦・求不得苦ぐふとくく五蘊盛苦ごおんじょうくの四苦を合わせた八苦から、のがれるすべのないことは、<柴田錬三郎・曲者時代>

参考 四苦八苦

しく‐はっく【四苦八苦】
〘名〙
① 仏語。人間のあらゆる苦しみの称。四苦は生苦、老苦、病苦、死苦。八苦は四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えたもの。
※平家(13C前)灌頂「人間の事は愛別離苦・怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。四苦八苦一つとして残る所さぶらはず」
② (━する) 非常に苦しむこと。また、苦労すること。
※浄瑠璃・曾根崎心中(1703)道行「断末魔の四く八く」
[補注]「四苦」「八苦」とも仏典に見られる語。

五蘊盛苦

人の体と心を構成している五つの要素から生まれる苦しみのこと。
「五蘊」は人の体と精神を構成する五つの要素のこと。
全ての物質をいう「色」、感覚をいう「受」、心の中に浮かぶ像をいう「想」、欲求をいう「行」、意識をいう「識」の五つ。仏教の言葉で、八苦のうちの一つ。

求不得苦 ↓

p225  =あによめ

p226 女は三界に家なし

女はこの広い世界のどこにも安住できる所がないということ。
「三界」は仏教語で欲界・色界・無色界のこと。つまり全世界のこと。
女は結婚するまでは父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うのが定めとされ、三界のどこにも安住できる家がないとの意から。
「三界に家なし」ともいう。

p230 悴んで かじかんで

p230 京都の中書島 ちゅうしょじま 遊郭がかつてあった、伏見。

wikipedia中書島 

桃山時代まで伏見港一帯は湿地であった。豊臣秀吉が伏見城を政庁としたことによって、武家屋敷が立ち並ぶようになったが、江戸幕府は伏見城を廃城としたため江戸時代前期に荒廃した。一方で高瀬川が開削され京都と大坂が結ばれると、その河口としてふたたび水運における重要性が増した。その後、伏見城下にあった遊廓が移転され、繁栄するようになる。柳町遊郭とも呼ばれた。

酒の名所であるために遊びに来る人が多く、また、宇治川に近く、交通の便が良い中書島は遊廓であると同時に芸妓屋が集まる花街となり、祇園をしのぐほどの名妓を輩出してきた。

1910年(明治43年)、京阪電車の創業とともに中書島駅が開業。1914年(大正3年)には京都電気鉄道(のち京都市電伏見線)が中書島駅まで延長され、ますます栄えるようになった。この頃には貸座敷77軒、娼妓282人、芸妓45人であった。昭和初期には深草に司令部を置く第16師団の将校、兵士も遊郭、花街を利用していた。

1958年(昭和33年)3月15日、売春防止法によって遊廓としての役割を閉じ、当初、転業をめぐってお茶屋派と学生相手の下宿派に分かれ対立してきたが沈静化した。その後も芸妓屋は残ったが次第に衰退し、1970年(昭和45年)には花街としての長い歴史に終止符を打った。現在は普通の商店街、住宅地であり、わずかながら花街、遊廓時代の建物が残されている。

この地で生まれた西口克己の小説「廓」の舞台になったことでも知られる。

wkipedia 伏見港

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

p230 藤鼠の山繭

藤鼠

藤鼠とは - きもの用語大全
ふじねずみ RGB /166/ 165 / 196CMYK /15/ 16 / 00 / 23 Webカラー値 /#A6A5C4 【読み:ふじねずみ】 紫みの...

山繭織物とは
【読み:やままゆおりもの】

山繭糸を用いて織られた絹織物をいいます。享保から天明(1716~1788)にかけて広島や八丈島で織られた記録がありますが、江戸時代末期から明治時代にかけて、御召縮緬に応用して流行しました。昭和初期には、縞糸として山繭糸を用いた「山繭縮緬」がはやりましたが、その後途絶ました。第二次大戦後になって、長野県有明で本格的な山繭飼育が行われて、「山繭紬」が生産されています。

p232 沖にもつかず磯にも離る

よるべのないことのたとえ。どっちつかずの状態でいるさま。沖にも磯にも寄り着かず。
※太平記(14C後)二八「皆吉野の王命に順て、今更武家に付き順ふべしとも見えざりければ、澳(ヲキ)にも不レ著磯(イソ)にも離(ハナレ)たる心地して」

沖にも付かず磯にも離るとは - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - 沖にも付かず磯にも離るの用語解説 - よるべのないことのたとえ。どっちつかずの状態でいるさま。沖にも磯にも寄り着かず。※太平記(14C後)二八「皆吉野の王命に順て、今更武家に付き順ふべしとも見えざりければ、澳(ヲキ)にも不レ著磯(イソ)にも離(ハナレ)たる心地して」

p233  =柵 しがらみ たけかんむり! もとは文字を記すための細長い竹の札。=冊 。日本では、しがらみ。水中に設けた、水の流をせきとめるためのさく。つまりネガティブな意味はもともとない。水の流れを「邪魔する」が強調されたか。

p242 雪見障子 ・・・横にスライド猫間障子、縦にスライド雪見障子

p243 生牛の目をも抉る えぐる 「生き馬の目を抜く」に同じ。

p243 「女子の悋気は一番の恥やで」 悋気 ①ケチ、②ねたむこと。嫉妬すること。特に、情事に関して嫉妬すること。やきもち。

p252 凭り縋る よりすがる 

参考 より‐かかり【寄り掛り・倚り掛り・凭り掛り】

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読み 音読み ヒョウ ビョウ ヘイ
訓読み もた(れる) よ(る)
部首 几部

机に任せる感じ。

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