祖父が働いていた場所

自衛官の皆様、日夜ありがとうございます。お正月も交代勤務、心から感謝します。旗を降納する時間の写真です。艦橋に正月のお飾りが見えます。「謹賀新年」平和な感じ。

母方は姓を藤川といい、広島県呉市に親類が多く居ます。先祖は広島の県北の庄屋の家とのことです。呉の祖父は大東亜戦争時、海軍の軍人でしたが、呉海軍工廠で働いていたことを新たに知り、爺ちゃんの思い出に耽りながら呉工廠のあった跡やドック跡を久しぶりに徘徊してきました。祖父は当然ですが戦時中のことを多く語らず亡くなり、おばさんも母もあまり詳しくは知らされていません。ただコンパスやら製図道具があったと言います。

造船に関わる人が身近に多かったせいか、あるとき母が「私も設計をやりたい」といいだし、「結核になるぞ」と止められました。その真意はよくわからないといいます。物作りにいつもこだわりを見せる母なので本気だったのだろう。終戦直前祖父は輸送船帝美丸に乗っていたようです。カッター訓練とか、テニスをしていた話は聞いたことが在ったのですが、呉工廠に勤務していた話は初耳でした。私が小さい頃に爺ちゃんから聞いた「工廠」の意味がよくわからないままになっていたのかもしれないですね。

母の兄が呉の造船会社、母の姉の夫が三菱重工で造船、祖父の兄も佐世保重工で造船をしていたのは知っておりましたが、祖父も呉工廠で造船に関わっていたとは知りませんでした。どんな仕事をしていたんだろう。余談ですが、母方には神風特攻隊員だった親類も居ります。呉市の呉音頭をつくったのも藤川の親類の島川さんです。きいたことないけどネ。。

戦後のあるときに学校で工作の宿題が与えられ、祖父が母を手伝い始め、ミリ単位で寸法をきっちり測って紙の箱を作り、飾りに使う色がみの断面を見せないように縁を内側に折り返すなど細部にも配慮し、寸分の狂いもない見事な作品を作ってしまい、大人が手掛けたことがすぐばれるほどの出来栄えのため、学校に持っていけなくなったことがあったと。

祖父がカメラ好きだったのも知りました。祖父がとったモノクロ写真を少し見せてもらったのですが、黒つぶれも白飛びもなく、私より上手でした。写真屋さんのような蛇腹の箱の写真機を持っていて、現像用の暗室も持っていたと。爺ちゃんが三脚を持って人通りの多いところで家族を撮影するのが、目立つからとても嫌だったと母は述懐していました。

ふと爺ちゃんが愛用していた両切り缶ピースを吸いたくなりました。

いつもつまらない話ばかりですみません。読んでいただきありがとうございます。

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