お先棒を担ぐ類

何をもって利口とするかは人それぞれ、SDGsといえは真っ先に飛びつき、オカマ保護運動といえばその先駆者たろうとしたり、率先してマスクをするばかりか他人にマスクを強制をしたり、そういう感度の高い人を”お利口”というのかもしれません。「私は最先端の思想をいち早く理解している先駆者である、ひどく遅れているあなた方は何も考えずに従いなさい」と。

世の中には嫌な言葉があります。バカと利口は紙一重。いつも考えてしまうこと、新しく発生した運動の御先棒を担いでいる”お利口”な人達は何が動機なのだろう、一体なにが彼らをそうさせるのだろうか、と。突然降って湧いた運動を胡散臭いとも思わないで簡単に鵜呑にする事、もしかしたら気狂いが作った思想運動かもしれないのに新しいというだけで取り入れること、懐疑もせず演じている自分を客観できない事、それはもしかしてバカでも利口でもなくタダの阿呆なのだろうか、と。そういう人間が間違った戦争が始まれば、そのお先棒を担ぐのは目に見えております。正義ヅラをした巧妙な政治運動とかキャンペーンのたぐいというのは基本疑ってかかるべきと考えます。

写真整理します。

札幌、狸小路。立派な商店街だが、当初は公娼の薄野(すすきの)に対する私娼の歓楽街として賑わった。次第に商店街の色合いが強くなっていった。俗称・白首屋(ごけや)は強制的に薄野の南はずれに隔離された。終戦時には闇市もできた。

おしろいを首すじに濃くぬりたてて客に媚を売る女をゴケ(白首)という。私娼・淫売婦・茶屋女などの称。しらくび。しろくびおんな。以下狸小路の由来などwikipediaより引用。

1891年(明治24年)の『札幌繁昌記』によると「狸小路とは綽名なり。 創成川の西側、南二条と三条との間の小路をいう。このところ飲食店とて、西二丁目三丁目にて両側に軒をならべ、四十余の角行燈影暗きあたり、一種異体の怪物、無尻を着る下卑体のもの、唐桟の娘、黒チリ一ツ紋の令嬢的のもの、無りょ百三四十匹、各衣裳なりに身体をこしらい、夜な夜な真面目に白い手をすっくと伸ばして、北海道へ金庫でも建てようと思い込みかつ呑み込み、故郷を威張ってはるばる来た大の男子等を巧みにいけどり、財布の底を叩かせる。ハテ怪有な動物かな、その化かし方狸よりも上手なれば、人々かくは『狸小路』となんよべるなり」とある。

1934年(昭和9年)の『北海タイムス』(1934年)に掲載された写真家・三島常磐による回顧談によると、1873年(明治6年)か1874年(明治7年)頃に現在の南3条西4丁目に侠客の松本代吉が「東座」(あずまざ)を建てると「それが切掛になって一杯酒の店が出る、白首(ごけ)が出だすという按排(あんばい)で、それ迄一帯の大ヤブであった地が次第に賑わって来た(略)。徒(あだ)に付けた白首小路、則ち狸小路の名がその儘本名になってしまったんだから面白い。大ヤブに出る狸で、狸は白首の異名であった」とあり、言葉巧みに男を誘う女たちをタヌキに見立てたという。

1898年(明治31年)に『北海道毎日新聞』に掲載された深谷鉄三郎による回顧談では、3丁目に「曖昧女」(白首)をかかえた「仙北屋」が開いたことが狸小路の始まりであり、次いで「雨風」とあだ名のついた女が2丁目で料理屋兼曖昧屋とした「安津満屋」(あづまや)を開いたことが第2の狸小路の始まりであるという説、実際にタヌキが生息していたから狸小路と呼ばれたという説、明治から大正初期にかけて人を化かして仕入れ価格の2倍で商品を売って暴利をむさぼる商店があったため、当時の商売人をタヌキに例えたという説を挙げている。

曖昧女というのは素人女をよそおってひそかに売春する女。また、曖昧屋に出入りする女。写真のタヌキ、無邪気に見えるが、そんな歴史があるのだね。

往年のトレンディ俳優、石田純一さんがこんなところに。朝鮮式の玉を入れるゲーム屋の広告かあ。

女性向け同人誌「フロマージュ」名前がいかしてますね。腐女子、発酵、チーズ、フロマージュ。クサそう。

山本浩二「ガオー」。子供の頃に、衣笠はサルで山本浩二はライオンで紐づけていた。コージに顔が似てませんかね、ダイオンさん。

広島育ちのワタシには懐かしい路面電車の風景、札幌にあり。

朝の大通公園、おじさんおばさんがのんびり座っておられました。

日本三大がっかり名所で有名な札幌時計台ではなく、札幌農学校演武場です、キリッ、と思ったら、ここがいわゆる札幌時計台だったことを今知りました、ドジっ子です。ガッカリしたかと言われればそもそも期待をしてませんでしたからね、通りすがりに偶然遭遇しただけだかんね、つよがり。

三連休が始まりました。皆様どうぞ良い週末をお過ごしください。私は締切のある仕事ヤッツケます。フンッ!盆休みもねーし。フンッ!。

コメント