道は交流の場ではなかったか。
インドネシア🇮🇩から帰国して、自宅の周りの道路にゴミ一つ落ちていないことに違和感すら覚えた。「ゴミの一つぐらい落ちてるだろう」と探したが、まったくない。信じられないぐらい道がキレイだ。
外国人が日本🇯🇵に来て驚くことのひとつは「清潔さ」だという。お国自慢でそう言っている訳では無く、むしろ逆で、汚い道を見慣れたあと日本の道を見ると、バイアスのせいか不自然で人工的にさえ見える。
清潔さの過剰、きれいすぎて気持ち悪い。まるで屋外なのに家の中のようにきれい。そう感じた。
まるで夢の中に居るような刺激の乏しさ、現実感の無さ。「刺激が無くてつまらない」、帰国直後の数日だけそう感じた。
インドネシアでは道端のどこにでもプラスチックごみが落ちており、まるで台風のあとの浜辺みたいだ。「雨季に洗い流される」とタカを括って掃除しないのか、道路脇には野良犬のクソが落ちているし、汚い溝の臭いもする。家庭のカラオケは道まで聴こえてくるし、お寺の鐘も遠慮がない。
狭い道をバイクや車が高速で歩行者を掠めていく。避けようとしてアスファルト舗装を逸れようものなら、犬の糞を踏む。大きめの道路であっても、歩行者専用道はマリオブラザーズの罠みたいに穴がいくつも空いており、人が落ちてくるのを口を開けて待っている。ジャンプするのも面倒くさいので、結局アスファルト舗装と歩道の境界線上を楽譜の音符みたいに歩く。
今でこそ日本は清潔だが、私が小さい頃、公共部は汚いものだった。清潔かどうかは努力すればなんとかなるものだ。
インドネシアの道の汚さはさておき、情報量と刺激が多くそれなりに面白いのだが、更に刺激的にさせている要素は「人」だ。
異人の私に、インドネシア人がかなりの割合で挨拶してくる。慇懃な挨拶ではなく、「よう!」みたいな感じで。まるで挨拶するのが当然かのように、クラスメイトのようにニコリとしてくる。女子も子供も。道路端に腰掛けて往来をぼんやり眺めて座っているおじさんも。
乳児をのせた三人乗りバイクのお父さんが突然大声で挨拶してきて、高速で過ぎ去っていったときは挨拶を返す暇もなかった(なんの目的だったんだありゃ)。集落によっては足止めされて会話に発展し、関係ない人が寄ってくる。
日本では道を譲り合う時「お先にどうぞ」ぐらいのやり取りはする。だがインドネシアだと、用が無くても他人に声がけして挨拶する。インドネシア人を見たら絶対こっちを見ている。
学校や職場で強制される挨拶と違い、インドネシア人の声がけは善悪やモラルを超えた日常の習慣で、自発的で楽しんでいるかのようだ。田舎のめんどくささにも似ている。
ふと、道で声をかけることは日本でも昔、習慣だったのではないかと思った。近所付き合いや声掛けがあった昔、道は情報交換の場、パティオ(中庭)でもあった気がしてきた。井戸端会議も最近とんと見ない。道は今よりもっとエンターテイメントや、交流を求める場所でもあったはずだ。
ひよこ売り、大道芸、わらび餅売りのラッパ、焼き芋屋、屋台などをどうして見なくなったのだろう。
台湾🇹🇼でもおじいちゃんと若い女の子が道端で大声で会話していたりする。日本だとおじちゃんが道で子供に声をかけようものなら不審者扱いだ。行儀が良くなった分、寂しい。A地点からB地点に行く目的だけのために存在する退屈な道、良くも悪くも無味無臭な道。スマホを見ながら歩いている人ばかり居る退屈な道。
まとめると、いずれにしましても、あの歩くのが面倒くさい、野良犬とゴミだらけの、挨拶だらけのインドネシアの路(みち)を不思議と思慕しているところです。
どうやら、インドネシア病に罹患したかもしれません。🇮🇩🇯🇵

コメント