古地図の通りに町ではなく、丁と書いてある。

小樽市立小樽図書館アーカイブス、古地図、北海道後志国小樽港湾図より引用。

昔、平安京やら平城京やら、都市計画のとき、碁盤目状に区画された条坊制をとった。似た言葉で条里制があるが、これは班田収授のための田地の区割りで、条坊制は都を作る時に城を中心にまず南北に朱雀大路を引き、碁盤目状に道を引く。南北の道を坊、東西の道を条といったから条坊制。条が道なのは知っていたが、坊も道だったのか!大陸では条坊制に城郭があるが、日本では城壁が構築されなかった。ただし太宰府には城郭があったという。水城も含めて。

そもそも「町」の字義は「田を区切る畦」「田の一区画」、日本語に導入され土地の一部の意味の「マチ」が訓として当てられた。これが宮殿ないし邸宅内の一区画を指すようになる。条坊制の区画として「町(まち)」が用いられ「坊」とも字が充てられた。要するに町または丁は、最初は行政区画の意味だけ。

市街地の意味がマチに込められるようになるのは奈良時代以降。

『類聚名義抄』では「店家俗に町と云う」、『和名抄』にも「店、坐売舎(ざうりのや)也」と記されその注に「今俗に町と云う、この類なり」とあり、この頃から「町」の意味が40丈(約120m)四方の区画から商店街の意味を有するようになった。官衙町から発した通り「町通」は、町口・町口小路と呼ばれていたのが略されて12世紀半ばには「町」と呼ばれた。

京都では最初東西二面にしか家屋の門を作ることが認められなかった(二面町)。

後に南北にも認められるようになった(四面町)。

この町の4つの辺がそれぞれ一つの町(まち)から分立する「丁(ちょう)」として認識される様になる(四丁町)。よんちょーまち。応仁の乱の後は向かい合う丁と改めて併せて「町(ちょう)」という自治組織の形態を取る様になった(両側町)。

今日では町を細かく分けた単位を丁目(ちょうめ)と呼称するが、本来は城下町などの通り沿いに付けられた町が一丁(約109m)ごとに区切られたもの

松江や和歌山や仙台の様に町(まち)を町人の居住地、丁(ちょう)を武士の居住地として使い分ける例も見られる。和歌山市旧市街では2018年現在もなお町名と同数規模の丁名が使用されており、町名ではなく町丁名と呼ぶことがある。

福岡市では、大半の市街化区域は丁目で示されるが、旧博多部は町(まち)のみで構成されている。

知ったこと

町は2D(面)に呼応し区画を当初意味し、のちに繁華街の意味をもった。

丁は1D(直線 道 距離)に関連する。丁目と言ったとき、道に由来する。

坊が区画を表し、南北の道を表した。

大宰府と多賀城にも条坊制があった。

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