厳島神社に向かう参道の山側に、それと平行して町家通りがある。かつてはメインストリートであった。現在はひっそりし裏通り的、または島民の生活の道。車両が昼でも通れるから、商店街に向かう貨物軽トラはその裏通りを使い、枝道を参道の際まで来て荷駄を積み下ろし、商店街の中で申し訳無さそうにそそくさ転回して枝道を引き返す。
町家通りと呼んだのは最近のことで、そんな名前は子供の頃聞いたことがなく、違和感がまだある。観光客寄せの行灯などはなかったし、お洒落なカフェなども無かった。新しくする意図を感じるが、まだ不完全な印象。
上の写真の通り、そもそも海側と山側とから建物が覆いかぶさるように道に迫り、日当たりが滅法悪いうえ、建物を黒っぽく、暗い赤茶色に統一する条例もあり、余計に陰鬱である。夏の日差しが強い日は歩きやすいが。日が傾くと早いうちから陰って、西日を見た後など真っ暗に感じる。
子供の頃、通りによって町の明るさが極端に変化することに興味があった。現在の参道は饅頭屋が甘い匂いを漂わせ、土産物屋は醜悪なセロハンの紅葉をぶら下げ、不必要に電飾をギラギラさせる。電池じかけのブリキのおもちゃが単調な音を立てて動かしてあったり、無目的にぐるぐる飛び回るおもちゃとか笑い袋がノイローゼのように笑っていたり。そういう刺激を避けて裏道を行くのだが、行くとちょっと暗すぎるのだ。医院や文具屋、消防団があるこの裏通りを一人で歩くのは 少し勇気が要る感じがした 。
いまでも厳島神社に行くときは、観光客を避けてこの町家通りを通り、塔の岡を抜ける。光や音の刺激を受け続けることが苦手なのは片頭痛持ちだからだろう。
この通りには江戸時代に遊郭があった。港町だからそれより前にあったかもしれないが。広島の原爆資料館のあるところが中島材木町と呼ばれ、そこにあった遊郭など (遊郭、芝居小屋、見世物小屋など) が、広島藩による風俗統制によって、宮島に強制的に移動し、押し込められた。芝居小屋や芸能は、おかみを批判するコンテンツも多いので同時に移された。江戸では吉原に遊郭が封じ込められたのと同じ時期。
厳島は神地であるから、島民が死ぬと対岸に埋葬し宮島には墓がない。合戦で血が流れたときは砂を入れ替えたという。そんな神地に風俗芸能、東京で例えるなら吉原と浅草がまるごとやってきたのだから、よく許したものだ。
”宮島の神様(市杵島比売命)は女じゃから、カップルで行くと嫉妬されてわかれることになる”という広島の言い伝えがあるが、それは裏があって、奥さんと一緒に島に行って馴染の遊女に会ったら困る男が流した噂といわれている。
明治以降もう遊郭はない。「カップルが行ったら別れる」って今は女の方から言うから可笑しい。
町家通りから表参道にのびる枝道のひとつ。
コメント