大輪をいくつも咲かせた去年、収穫した朝顔の種は小さくてシワシワで、こんなの発芽しないだろうとタカをくくってタネを盛大に撒いたところ、予想した所と違いほぼ全て発芽し、まるでもやし農家のようになりました。こういう場合「元気な苗を選んで、間引きをしましょう」とサイコパス園芸家どもが殺人を勧めてくる。間引きの指先が顫えて躊躇っていたとき、朝顔の苗の方から小さな囁きが、「・・ぜひともボクタチ全員を育ててみないかい・・・そうだよそうだよ・・・おじさん!いいひとだから!できるよ!ボクタチも頑張るよ」幻聴が聞こえたとか聞こえなかったとか、その手の話は誤解を招くからなるべくしたくはないし、好きでもないのだが。「朝顔の種なんて野生だと株元に散らばすだけダヨ、これが僕らの本来の姿だからネ、大丈夫なんだよ、抜かなくていいよ」という追いうちの幻聴も聞こえてきた。そういうわけで間引きをせぬまま、大いなる大自然(頭が頭痛が痛い)に任せることとした。育苗ポットから詰められるだけプランターに移植し、まるで土産モノのまんじゅうの箱のようにぎゅうぎゅう詰めにした。
そして2ヶ月後、いや、なめてたわ。今や熱帯雨林のジャングル、トロピカルフォーレスト。心が騒ぐ、心の雄叫びをあげたい「あ~あぁあぁあぁ~!」とターザンのように。ちょっと嬉しい方の悲鳴ですけどネ。ターザンが心の雄叫びかどうかはワシャしらんけど。おっとお隣に聞こえちゃう。蕾もつき始めてる、カワイイ。
種が良い環境で育つことを望みながら朝顔は静かに一生を終わる、無数のタネを残して。生育と淘汰は自然に任される。朝顔の親は子供がどう育っているかを目の当たりにすることもないし、タネも親の愛情をそもそも前提としていない、それでも育つ。少ない個体数を育てる哺乳類は子に愛情を注ぐ。哺乳類の私が「おう、のびたねえ、カワイイね」と哺乳類の流儀で植物に話しかけることそれ自体余分なことであり、哺乳類からの愛情を一方的に、しかも愛を必要としない植物に注いでいるとも言える。植物には七面倒臭いやっちゃ、だろう。あぶら虫をとってやり、追肥をやったり、おひさまに少しでも当たるように鉢をずらしたりする、こういった哺乳類が注ぐ偏執狂的愛情を朝顔は戸惑った顔で受けているのか、いや巷間オカルト的に伝わるように植物は愛情を受け取る能力を有しているのだろうか。
どちらにせよ愛情を必要としない植物に、哺乳動物がその愛情を過多に注ぐ姿は傍観すればやはり薄ら寒いものに映るだろう。ヒトでも言えることだが、愛情を受け取らないものに愛情を注ぐことほど傍目に痛々しいものはないのである。
Take home message。
・朝顔に水やりをするときには威儀を正し、淡々と粛々と行うべし。決して「のどかわいてたねえ、ごっくんごっくんのんでるねえ~、あーおいちいね!」などと口にしてはならない。ニヤニヤしてもいけない、紳士たるべし。
・周囲に特別な気持ちをさとられぬよう如雨露を持つときには、大気圏と同化し、大気より落つる露になりきらねばならない。私情を挟むことは控え、自然になりきらねばならない。つまり愛情が横溢しそうな時ほど包み隠す羞恥心を持たねばならない。
・ゴーヤを受粉するときも「あー、あたしかい?あたしゃぁね、ちょいと通りかかった虫でやんす、ちょいとおじゃましますよ、ここをこうね、チョチョンとすると、ほらどうでしょう、いい気持でしょう?!」とあん摩師に化けた勝新太郎(座頭市)のごとく軽妙に装い、こちらの思いを悟られずに完遂せねばならない。
・仮に水遣りを終えた後に「・・・美味しいよ!ゴクゴク、水やりのタイミングばっちりだよ、おじさん!水やり上手いね。ボクタチはおじさんに育てられて本当にしあわせだよ!」と心の隙間を突く幻聴がありありと聞こえてきて心がかき乱されたとしても、決して動揺してはならない。胸の昂りは心にしまっておくべきである。
というわけでオフザケが過ぎました。さてその”うちの子”たちです・・ああ、もとい、ただのウチの朝顔です。ボーボーです。どうなるんかいね、今後。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
コメント