大森海岸

お散歩の真髄は足が赴く方向に進むことにあります。決まらないときは棒を立てて倒れる方向に進めば良いと聞いたことがあります。

さて、大森海岸駅で目的もなく京急電車を降り、腹拵えに雰囲気の良い店構えのお寿司屋さんへ入りました。入った後で気づいたのですがハレの日に来るような高級店、意を決して食べることにしました。美味しいお寿司を食べ終わった頃に、大将が「この辺は、はじめてかい?」と、鋭い心眼で見抜かれておりました。話す切っ掛けが出来たこれ幸いと、散歩に適当な場所を伺いました。大将は昭和初期より大森のこの地で代々お寿司屋をされており、時代の移ろいを映画の予告短編のように教えてくださいました。活き活きとした昔の様子を伺うにつれ、大森の街が色づいて見え始めました。

「・・・旧東海道の街並みがいいよ、磐井神社を更に下ったらYの字に分かれるところがあって、交番が目印、左の細い道に折れていくと旧東海道、海苔や海産物の問屋がたくさんあります。その先の公園にある”大森海苔のふるさと館”に行けばこの地は海苔の産地だったことを色々教えてくれるはずです。大森は有数の海苔の産地だったから。・・・それから、この大森の海側には昔「大井三業地」というのがあったんです、芸者さんの置屋、待合、料亭の三業が揃うから三業地って呼ばれました。」

落語なんかによく出てくる北品川は知っていましたが、大森にもあったんですねと、私が問うと、

「北品川とは違うね(ここ大事です!)。大井三業地には遊郭みたいな遊びはなかった。女の人とそういうことをするところ(遊郭)があったのが「北品川」で大井三業地は芸者さんとお座敷でお酒を飲んだりするだけ(上品限定!)。後に大井三業地とは別の大森の沖の埋立地にできた「大森新地」には遊郭はあったようだけれど。大井三業地には遊郭はなかったんです(きっぱり!)。」

大井三業地は遊郭ではない、ということがよくわかりました。大森は京都祇園のような業態でした。「色を売る遊女」のいる遊郭(北品川)と「芸を売る芸者」が宴を盛り上げるお座敷(大井三業地)とは全く別のものです。芸妓になるには半玉(研修生)として三味線や舞踊の厳しいお稽古を若いときからつけてもらいます。仕上がるとようやく名前を師匠からつけてもらってお披露目となります。関東では芸者、芸妓とよび、修行中の芸者を半玉(はんぎょく)と呼びますが、京都では修行中の芸妓のことを「舞妓さん」と呼びます。芸妓と遊女とは明らかに区別されます。

大森海岸の大井三業地を思い浮かべます。大森の海に浮かぶ舟と遠方に見える袖浦、調度の整ったお座敷に運ばれる料理とお酒、頃合いで芸妓さんがやってきて三味線と舞踊で宴会を盛り上げます。大井三業地には最盛期の昭和16年には芸妓さんが380名近くいたそうです。お座敷(待合)に料理を(料亭)から運び(置屋)さんから芸妓さんを手配、この3つの分業が揃うから三業地です。吉原や北品川などとは全く業態が違うことを理解しました。

「・・・・東京空襲のときはこのあたりは焼けなくて、おそらく、近くに今の平和島があるところ、あそこはね昔米兵などの捕虜収容所だったんです。戦後に巣鴨プリズンができるまで占領軍が来てから日本の軍人の収容所になり、東條英機さんも一時入ってらっしゃったんだけれど、そう、一旦ここに入ってからその後に巣鴨(現サンシャイン池袋、巣鴨収容所)にいかれた。大森は捕虜収容所が近いから(大井三業地も含め)空爆を免れたんじゃないでしょうかね。」

古地図(米軍の航空写真)で確認すると、現在の平和島ボートがある場所(下の地図でドン・キホーテの西側のバラック)に大森捕虜収容所がありました。当時は細長い出島でした。その本土側の「大森海岸」に三業地がありました。

昭和22年米軍撮影 上図右の縦長の島が今の平和島で細長い島の中央部に並ぶ建物が捕虜収容所。料亭の立ち並ぶ鈴森八幡の浜の対岸にあった。

「戦後にやってきた米軍が、焼けなかった大井三業地の料亭を接収して「慰安所」に使ったんです。中はきれいで広いし。それ用のコールガールなんかを集めてね。今その場所は高層のマンションが建っています。」

大森の大井三業地は米軍がくるまでそのような場所ではなかったのです。お寿司は大変美味、お腹いっぱいです。お昼休みを削ってまでお腹いっぱいになるほど教えてくださり、大将にはとても感謝しています。大将のような地元の方に教えてもらうと散歩の楽しさが増します。

まず、大森海岸駅から鈴ヶ森刑場跡(大経寺)まで北上し、来た道を戻って南下、旧東海道を経て、海苔のふるさと館、大森捕虜収容所跡(平和島ボートあたり)を徘徊することにしました。

がつへんに央で「殃」、「わざわい」or「おう」と読みます。殃死者(おうししゃ)は災害で亡くなった人。弔っているのは刑死者だけではなく、街道で行き倒れた駄獣を弔う馬頭観音も並んでいていかにも街道の路傍らしい雰囲気ダナ、、、とは思うものの、人と駄馬の墓とを並べるのはとちょっと、と考えました。やはり周辺の開発に伴って所狭しと石碑を集約せざるを得なかったようです。

第一京浜は直線的に作られた”新しい東海道”でありながら旧東海道をなぞる重複セクションもあれば、痕跡的に旧東海道が並行する場所もまたあります。鈴ヶ森刑場跡近辺は第一京浜(現在の東海道)が旧東海道に重なっているか近いようで、車が轟々行き交う第一京浜の道路脇から鈴ヶ森刑場跡は意外にも直視できます。

丸橋忠弥さんが磔刑にされ、さらし者にされた慶安5年当時は砂浜で人家もまばら、名前の通り大森「海岸」でした。こんなに車の行き交う場所に変わって後世まで晒されるとは思ってもいなかったことでしょう。

丸橋忠弥 - Wikipedia

時代は江戸初期の混乱期、徳川3代は武断政治を敷き、武士は多数浪人となり、今風にいうと社会不安状態になった頃でした。混乱期は武断政治、状況が落ち着けば文治政治のほうが良いです。江戸初期の武断政治のさなか、由比正雪と丸橋忠弥らは浪人を糾合し反乱を企てますが密告され頓挫します。いわゆる由比正雪の乱です。丸橋忠弥は江戸で捕縛されこの鈴ヶ森刑場で磔刑に処されました。武士として切腹すら許されないというのは相当の屈辱です。念が入っていることに槍の使い手が槍で処刑され、処刑された上に、死んだあともここにはりつけにされて晒されました。一方由比正雪は駿府の宿で追っ手に囲まれ自決しました。一連の乱に続くかのように徳川幕府は武断政治から文治政治に舵を切ります。

お次は火炙り台、八百屋お七さん。

https://ja.ukiyo-e.org/image/waseda/401-0408 浮世絵検索より引用 松竹梅湯嶋掛額しょうちくばいゆしまのかけがく(八百屋お七)

八百屋お七さんはこの地で焚刑にされました。諸説ありますが、お寺にいる恋人に逢いたいため放火したという基本構造から様々に文芸的に派生し、お芝居や絵画に拡がりをみせ、史実がわからなくなるほど大変豊かに表現されています。上の浮世絵は月岡芳年の作、火の見櫓に登って早鐘を鳴らそうとする八百屋お七の場面、落ち着き払った表情は向こう見ずさ故か、あるいは今生に未練がないものが見せる腹を決めた表情なのか、いい顔だこと。

衣装の紫について少し。歌舞伎の”身体が健康な”はずの助六がなぜか紫色の鉢巻をわざわざしていますが、無法で非常識で義侠心にあつい傾奇者の、人並みではないという意味での”精神が不健康”な感じを紫色の鉢巻で表現していると思います。八百屋お七さんの紫色を見て、高貴な色であるはずの紫というより、傾奇者のハチマキの紫に共通する「病質の表現色」という印象を受けました、勝手に。月岡芳年に聞いてみたい。

首洗いの井 

江戸の刑場は当初浅草と芝とがあり、都市拡大とともに刑場近くまで人家が並ぶようになったため、それぞれ江戸から追っぱらわれて、つまり、浅草の刑場は千住の小塚原(こづかっぱら)へと北へやられ、芝の刑場はここ鈴ヶ森へと南にうつりました。当初海岸線に刑場があり一本松があったので刑場は”一本松”と呼ばれ、付近に鈴ヶ森八幡のお宮があったため次第に”鈴ヶ森”と呼ばれるようになったとのことです。

八景坂 https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/upimage/big/1300398625.jpg 東京都立図書館より引用。

歌川広重の江戸百景、大森海岸を見下ろす八景坂、鈴ヶ森刑場とは少し離れた現在のJR大森駅のあたりから俯瞰する構図になります。八景とは「笠島夜雨(笠嶋八幡)、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月(房総の袖ケ浦)、池上晩鐘」の美しい風景のことで、これらが楽しめる坂で八景坂ですが、物事には裏表があって、海辺の鈴ヶ森刑場脇を通る東海道を忌避して山側を迂回しこの八景坂を通っていたのが実情のようです。大森貝塚のあるJR大森駅のあたりは海側からは崖上がりになります。ここは貝塚出土から分かるように縄文海進の波打ち際でした。

国土交通省 国土地理院 デジタル標高地形図より引用

刑場から第一京浜を磐井神社方面に南下する道すがら、終戦まで「料亭小町園」があった場所を通過、東京空襲で焼け残った小町園は駐留米軍用に軍事転用され”特殊慰安施設第一号”ができ、悲劇の場所になりました。しながわ水族館の陸側のあたりです。

RAA(Recreation and Amusement Associationの略)は、連合国軍の兵士による日本人女性への暴行被害を防ぐため連合軍の依頼によって日本により設置されました。その施設で働いていた女性の生々しい手記が公開されていて、読んでショックを受けました。ちょっと貼っておきます。戦争で負けるとこうなります。

小町園の悲劇(18歳未満および女性の方閲覧禁止)
◆◆ニュース◆◆新刊『日本建国史』発売中。ベストセラー1位(古代日本史)今日のこの記事もまた、この時期に毎年掲載しているものです。今回が11度目の掲載になります。これからも毎年掲載します。どうしてもお伝えしなければならない、歴史から消し去ってはならないことだと思うからです。尚、このお話は「18歳未満および女性の方閲覧禁...

南下して大井三業地の置屋や料理屋のあった不入斗とかつてよばれたあたり。連れ込み宿が下卑た趣で建ち並び、覆いかぶさるように陽光を遮り薄暗いです。特殊浴場も一時あったようです。大森海岸駅前のラブホテル「海岸物語」は大森海岸に引っ掛けているのでしょうがちょっと癪に障ります。

もともとは華やかな「大井三業地」でした。風光明媚な鈴森八幡の海が見えるお座敷が建ち並び、芸妓さんが呼ばれてお座敷に向かうような街でした。芸のない酌婦や娼妓が春を鬻ぐ町とは全く異なるのです。端的に言えば、占領期をきっかけに大森はそれまでの趣から米軍のお誂え向きに無理やり変えさせられその傷をひきづりつつ今の姿になっているように思いました。

小さな池に浮かぶ弁天島か蓬莱島かに設えられた比較的新しくみえる社「笠嶋弁財天」と赤い橋。構造はちっちゃい生島足島神社って感じです。社は新しそうに見えるけれど神社自体は古墳時代の573年に創建、敏達天皇の頃。式内社に列せられた神社です。江戸に鈴森八幡と呼ばれた磐井神社の敷地にあります。鈴ヶ森刑場から離れていますが刑場の名の由来となったお宮であることは先に述べました。

御札を買いながら神社の方に聞くと旧地名の区別を教えて下さいました。「笠嶋弁財天がある場所だけを笠嶋とよんでいた」そうで、「神社周辺を不入斗(いりやまず)と呼んでいました」。不入斗は千葉市原や横須賀の遊郭があった地域にも見え、そもそもは”貢免地域”の意味で、中世の”不入の権”、=守護が入れない寺社領、つまり網野さん風にいうとアジールです。不入の地では座を中心とした独特の商業産業の発展がおこり、多少イリーガルな取引も引き受けていたような要素があります。島全体が信仰対象である厳島の神域になぜ遊郭があったか、私はそういう風に理解しています。建前の武家社会にはできないことを引き受ける役割というか。

八幡様の前は誰が祀られていたのだろうネ。。。。

磐井神社の狛犬は子供が足元に6匹(狛犬の数詞は匹であってるのか)いて子宝円満の象徴とのこと、子ども狛犬が母の足元で戯れる珍しい意匠なのだそうです。

樹齢800年の御神木大銀杏。大井町の大銀杏(おおいちょうのおおいちょう ダジャレ・・・)。

正しい読みは”おおいまち”です。

ふと見上げると隊伍正しく渡る鳥たち、また秋に会いましょう!

2022年、紅梅の季節に行きました。渡り鳥も北へと移動する時期でした。

磐井の井戸、磐井がすでに「岩の井戸」という意味です。「磐井の井戸」だと同義反復で「岩の井戸の井戸」にならないか(頭が頭痛で痛いみたいに)。北九州の豪族とは関係ないし、横浜銀蝿の妹分の岩井小百合さんとも関係ないです、たぶん。

この井戸の水を含むと、その味は「邪な考えを持った人には塩っぱく感じる」らしい。きっと少ししょっぱいんだと思います。感覚がいいことを”邪”と断ずる。ポカリスエットは平時塩っぱく感じるけれど、運動したあとは甘く感じる、きっとあれです言ってるのは。

第一京浜(現在の東海道)をさらに下ると左に分かれる細道を発見、ここから旧東海道の痕跡が始まり、今通ってきた道は旧東海道と現代の東海道との重複セクションであったと気付かされます。

昔の様子の浮世絵タイル、廻船問屋は廻船などの商船を対象として様々な業務を行った問屋のこと。舟をもっていたり、持っていなかったりどちらでも廻船問屋。問屋の店先の風景。当時の廻船は一往復で今のお金に換算すると1億円程度のビッグマネーを動かしていたそうです。

往時の道幅の旧東海道の痕跡が900m続く。ミハラ通りという愛称、生活道路として賑わっています。

明治39年測図「大森」

旧東海道は明治39年まだ海に面しています。不入斗(いりやまず)の文字が見えます。

昭和7年「川崎」 黄色く塗ったところが大森新地

上の地図と比べて、新たに昭和7年の地図では埋立地が増え(黄色く塗ったところ)ここが「大森新地」です。ここが大将がおっしゃっていた「大井三業地」にはなかった遊郭があったところです。

地図で特殊鋼会社とあるのは日本特殊鋼(NGKスパークプラグで有名)、その南、画像は切れていますが瓦斯とある場所は明治41年に設置された「ガス製造所」で、東京ガスの施設。今は天然ガス(LNG)輸入に頼っています。銀座にガス燈がついた頃のガス製造方法は当初「石炭の蒸し焼き」による揮発ガスでした。昭和30年以降は「石油の熱分解」、昭和40年代以降は「液化天然ガスの輸入」にガスの供給源は変わりました。上地図のガス製造所は初期の「石炭の蒸し焼きの時代」の施設です。今は団地になっています。

近代化/工業化のために大森は埋め立てられ、海苔作りは消えてゆきましたが、海産物問屋だけは今もたくさん残っています。

<参考>https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/08takahashi.pdf

ネロ&ニコ

突然ですが、この方は俳優チャック・ノリス。ブルース・リーと対戦したノリスさんです、

大森海苔のふるさと館に到着。入り口に干してある海苔簀(ノリス)がお出迎え。海苔作り体験学習ができるようです。

面白かったのは海苔づくりをしていた地域間の諍いがたえなかったこと。品川南部の地域は江戸時代「大森村」「糀谷村」「羽田村」の3行政区分がありました。地面は簡単だけど海の境界線区分が大変なのです。上図にお示ししますように、大森村と糀谷村は海苔採取、羽田村は漁と決められていました。羽田猟師町という地名があって、何故かけものへん。羽田村では魚介を採取し、海苔は作っていませんでした。それぞれ現代の駅の名前や空港の名前にその痕跡を留めています。これらの村々どうしで嫌がらせをしたり喧嘩したり。そりゃおまんまかかってますからしかたねえ。その海洋利権、海の境界線確定は江戸幕府が最終的に決めていました。

海苔屋さんの衣装やら海苔を切る道具など、当時使用されたものが展示されています。

羽田村に空港を作ったから「羽田空港」なのであって、飛ぶに引っ掛けて羽(ハネ)を付けてみました的な下衆いネーミングではないです。たまたま、羽田村だったのでした。飛行機の存在しない江戸時代から空港名にふさわしい羽田村でした。写真は現在の羽田村、かつての漁師町の雰囲気が漂っています。一番手前の船体名「フィッシャーマン」だし。遠く、多摩川の左側に見えるのが羽田空港。

<参考>

大森 海苔のふるさと館
海苔のまち東京・大森の歴史と文化を伝える博物館です。毎月、体験イベントを行なっています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca/48/4/48_4_4_7/_pdf/-char/ja

さて、運河の埋立地の一つである平和の森公園を北上し、大森捕虜収容所のあった現在の平和島ボート、ドン・キホーテ平和島あたりへ北上します。大森海岸に面した海は、運河を残して沖が埋め立てられ、やがてその運河自体も埋立られます。北側の元運河にしながわ水族館ができ、平和島ボートは運河を利用、南側の元運河は平和の森公園となりました。海岸らしき風景はしながわ水族館あたりに痕跡的にありました。

いよいよ平和島に付きました。こちらは京急開発の手でできたビッグファン平和島です。温泉やボーリング場、ゲーセン、カラオケなどが充実しています。中学の時に大人の一歩を踏み出す時に入ったような初めてなのに懐かしい雰囲気です。ですが、やはり主力は競艇、平和島ボートでしょう。訪問時はレースはなかった、残念。

ボートと言えば戸締まり用心火の用心のおじいさん。日本船舶振興会の笹川良一さん。

親孝行している笹川良一さんブロンズ像がありました。いい人アピールがすごいです。いや偉いです笹川良一さん!

平和島競艇場のマスコットキャラクターはクジラの「P☆STAR(ピースター)」ちょっと谷岡ヤスジテイスト。ピース(平和島)のスター?ウシシシシてクソやらしい感じ、万舟券あてて、相好を崩した顔なんだろうか。

まるでディズニーランドの入り口のように電飾もあって華やかです。「(一攫千金の)夢は叶う!」

入り口から覗くメインスタンド下。ん~ここ捕虜収容所があったんですね。東條英機さんも居られたのですね。合掌。

ボートレース平和島オフィシャルサイト
レースライブ、リプレイ映像の配信や、出走...
英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人―知られざる日本軍捕虜収容所の真実
著者クラークは、画家としての目を通して、戦時中の捕虜収容所や作業現場、そこにいた捕虜や日本人たちを、極めて的確、かつユーモラスに記述している。またクラークは、自分たちが体験した数々の苦難、そして楽しかった出来事をイラストの形でも表現しており、それが本書を非常に魅力的なものにしている。元捕虜が赤裸々に綴った“東京俘虜収容...
   

「英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人―知られざる日本軍捕虜収容所の真実 デリククラーク著」を買って読みました。大森捕虜収容所(現在は平和島ボートがある場所)での捕虜生活の様子です。中に入っていた英軍兵士が捕まって解放されるまでを記憶に頼って子細にユーモラスに記録したものです(翻訳 和中光次)。若い英軍人捕虜視点での記録ですから”ジャップ野郎”という表現がクソ多量に出てきます。

お寿司屋の大将がおっしゃっていた「大森捕虜収容所への爆撃を避けたために大森(大井三業地)は爆撃を受けなかった」その様子も書かれていました。収容所の屋根にはアルファベットで「収容所」と書いてあって爆撃機にわかるようにしてあったのでした。終戦前の私達日本人の様子が詳述されていて興味深いです。

大森捕虜収容所跡は現在どうなっているのか
「アンブロークン」の主人公ザンペリーニや、「おかわいそうに」の著者、ルイス・ブッシュ、海兵隊撃墜王グレゴリー・ボイントン、「The 13th Mission」の著者で、ビスマルク海で零戦に撃墜されたB24の副操縦士ロバート・R・マーティンデイルなど、多くの捕虜が収容所された大森捕虜収容所。POW研究会のサイトによると、...

翻訳者の和中光次さんのツイッターに大森捕虜収容所にて撮られた東條英機さんのカラー復元写真がありました。

教えられたような悪人にはどうしても見えません。大東亜会議を開いて、共存共栄による世界平和の実現を目指した東條英機さん。有名な杉原千畝さんの命のビザの2年前、ナチスドイツから逃れて来た大勢のユダヤ人がソ連、満州国境のオトポール駅で立ち往生し、その時、ユダヤ人を樋口季一郎さんや東條英機さんらが満州に受け入れ救ったのがオトポール事件です。ナチスドイツが「ユダヤ人を助けるとはなにごとじゃ」と文句を言ってきた際にも、樋口季一郎さんを不問に付したのが東條英機関東軍参謀長です。彼らが救ったユダヤ人は2万人とも言われていますが、この話が語られる事は、少なくとも今の日本の初等教育ではありません。日本人が良いことをしたことは隠蔽するしかありません、日本人を戦後洗脳教育する上で都合の悪い真実ですから。国のために命をささげた人たちに対する敬意の表し方は本来政治的なものであってはならないと思います。

北部軍司令官時代の樋口季一郎さん(昭和18年頃) wikipedia

最後になりますが、楽しい大森散歩のきっかけを作ってくださいました松乃鮨の大将にこの場を借りて重ねてお礼申し上げます。

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