魔法がとけた魔法瓶

魔法瓶の魔法とは真空断熱のこと。人工的真空構造によって断熱する。真空構造に穴が空いて空気が入った途端、その魔法はとける。約10年使用したステンレス製のサーモス水筒が急に保温しなくなった。ステンレスの二重構造で形成された真空に空気が入り、まるで魔法が解けたかのように、ただの水筒になった。どころか、熱湯を注ぐと即座に持てないほど外筒が熱くなるのであった。

保温ジャーを「魔法瓶」という。昭和の家庭や宿には必ずあった。内腔を覗くとガラス質の構造が鏡のように反射し、全体が重いものだった。ガラスの二重構造で真空が形成され、転がしたり落としたりすると衝撃で内腔が容易に粉砕した。

ところで魔法という奇天烈な名前をつけたのは誰だろう。

「魔法瓶」の名付け親
1907年(明治40)10月22日付の東京朝日新聞で、東京帝国大学理学博士の飯島魁(いさお)が記者との対談で初めて「魔法瓶」と表現した、とされている。

全国魔法瓶工業組合 まほうびんの歴史 より引用

魔法、またはマジックの付く商品は他にあるか。「マジックテープ」「マジックインキ」「魔法少女まどかマギカ」「魔法のフライパン」「魔法のスパイス」「トリンプ 天使のブラ魔法のハリ感」。

真面目に魔法瓶の歴史など。

1892年イギリスの科学者ジェームス・デュワーが真空の二重ガラス容器を製作し、真空となっている空間の内壁に金属メッキを施すことで、輻射による熱の損失を防ぐ魔法びんの原型を作りました。現在でも、液体窒素などを保存するための理化学用の魔法びんは「デュワーびん」と呼ばれています。1903年デュワーの元でガラス容器を製造していたドイツのガラス職人ラインホルト・ブルガーが、二重ガラス容器を保護用の金属ケースで被うアイデアを考案。世界初の「ガラス製の魔法びん」として、パテント(特許)をドイツで取得しました。1904年ドイツのベルリンにて、ブルガーが「THERMOS G.m.b.H.(テルモス有限会社)」を設立し、サーモスブランドが誕生。商品としてのガラス製魔法びんの生産を開始します。ブランド名の「THERMOS(=テルモス)」はギリシャ語で「熱」の意味を持ち、英語では「サーモス」と読みます。

サーモス日本HPより引用

最初に魔法瓶を国産化したのは日本電球会社。電球を作る際の真空技術を応用した。第一次世界大戦でスエズ運河が閉鎖され、欧州から東南アジアの植民地への物流が途絶え、日本の魔法瓶が東南アジア向けに売れた。魔法瓶の会社がほとんど大阪。大阪でガラス工業が盛んになったのは明治から。そもそも江戸時代、大阪天満宮前に宝暦に創業した「玉屋」が始まり。玉屋の場所に次のような碑がある。大阪駅と大阪城との間にある天満は旭硝子や東洋ガラスの発祥地でもある。

天満の東岸に造幣局がある。造幣局は意外にも化学工場であった。鋳造は冶金であり貨幣を洗うときに硫酸を使うなど化学物質を駆使するし、紙幣づくりにはカセイソーダなどが必要、その化学物質を明治時代造幣局が自前で作っていた。そこから出るソーダ灰をご近所の天満で流用しガラスを作っていた。ちょっとした化学コンビナートが造幣局を中心にあったようだ。

造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。その頃我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、大型の機械設備は輸入するとしても、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足するよりほかなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました。また事務面でも自製インクを使い、我が国はじめての複式簿記を採用し、さらに風俗面では断髪、廃刀、洋服の着用などを率先して実行しました。

造幣局 沿革 より引用

日本化学会の”日本化学工業の生い立ち(去来川覚三)”という文を読んでみると、「日本の近代化学工業は、大阪造幣局での硫酸製造から始まったとされる」「貨幣の鋳造、金銀の分離精製、貨幣の酸洗い、外国貨幣の分析に多量の硫酸が必要であった」「鉛室法硫酸製造装置をイギリスから購入、明治5年に硫酸製造が実現、」「紙幣製造(抄造 紙を漉いて作る方法)に必要なカセイソーダ、ソーダ灰、重曹、塩酸、さらし粉が製造された」「大阪舎密と由良精工でのベンゼンからアニリンの合成」。大阪舎密は三高・京都大学の前身。

明治初期に貨幣システムは混乱、藩札を整理し貨幣を統一し新貨で代替する必要があった。官主導で急いで進められた。明治初期の化学工業の発展の背景に貨幣システムの変更があったからなのだなあ。そして第一次世界大戦でドイツに依存していた化学薬品原料などが入ってこなくなり、そこでもまた化学合成の日本での内製化が発展した。

魔法瓶に戻る。

象印マホービン創業者の一人市川金三郎は天満のガラス職人、電球加工の職人。わが国の魔法瓶工業の創始者八木亭二郎も日本電球という電球メーカーに勤務する技術者だった。電球製造の真空技術が応用された(参考 象印マホービンHP。HOME 企業情報 あゆみ 大阪に「市川兄弟商会」を創立 1918(大正7)年)

調べていたらまほうびん記念館が存在した。次の旅行先はココいこう!

まほうびん記念館
「まほうびん記念館」では、日本のまほうびん草創期から真空のテクノロジーを基本に、まほうびん業界の様々な発展と進化の歴史を紹介しています。

今まで10年酷使によく耐えた、立派なものだサーモス君、おそらくツクモガミが宿っている、今までありがとう。

お読みいただきありがとうございます。来週あたり梅雨入り地域も増えるようで。皆様どうぞ良い週末をお過ごしください。

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