ひとは退屈に耐えられない

人は退屈に耐えられない。お化け屋敷になぜ行くかといえば緊張が欲しいからで、なぜ緊張が欲しいのかといえば、それは夏休みが退屈だから。食べていけるのにリスクのある投資をなぜするのか、裕福な主婦がなぜ万引きをするのか、緊張が欲しいから、人生が退屈だから。熱狂できること、集中できることによって、生きている感じが欲しいのだ、と仮定する。昨日と今日とを区別する大きな事件が起きてほしいのであり、渦中に身を置きたいのだ。場合によってはそれが必ずしも好ましいもので無くとも良い。

退屈に耐えられず会場に着いたらパーティは既に終わリに近づいていた。

2024年に入って半導体関連株主導で日経平均株価は上がり続けて初夏に4万円を超えた。熱狂の渦のなかに自分も入りたかった。「日本の未来は明るい」「半導体で日本復活」「円安で工業国復活」などと射幸心を煽る文字が踊りパーティは狂騒に近いものになっていた。私は熱狂の渦に入らず、自分のルールに従った。バブル崩壊を経験し暴落を何度も経験した。二度と喰らわないために一時的な流行、話題株には手をださないことにしていた。知る人ぞ知る割安の中小型成長株を選び長期投資することを厳格に守ってきた。だから半導体株などは対象外であった。私の保有株は熱狂の蚊帳の外、退屈な値動きをしていた。その私が血迷い、これ以上ないという最悪のタイミングで、バブルの一番最後で買ったのであった、半導体株の熱狂が最高潮となった頃に、なぜか?周囲の熱狂に焦り、自分の退屈が否が応でも浮き彫りにされ、耐えられなくなっていたからだ。私はとうとうパーティーが終わる間際に会場に入った。今考えれば間抜けだった。だがその時に自分が間抜けだとはわからなかった。むしろ間に合った、とさえ思った。熱狂が熱狂であると一歩引いてわかっている人たちは既にパーティ会場から去り始めていた。そのタイミングで、最後の最後で私はジャンピングキャッチをし、あの暴落が続いて起こった。一部逃げ遂せたが、一部は見事に捕まった。高い、高い、ドスーン。高い授業料となった。望ましからぬ事件ではあったが、”退屈凌ぎ”にはなった。昨日と今日とを区別する大きな出来事は深い興奮を与えてくれた(ちょっと負け惜しみにしか聞こえないんだけどぉ)。

私は退屈に耐えられなかった。退屈であることを耐える、このルールを守れなかった。いっそ「人は退屈に耐えられないものだ」ということに一般化してみたい。「退屈に耐えられないという人の性質」に耐えねばならぬ、と教訓めいたことを導出してみたいのだ。ちょっと、他人事みたいに何を言っているかわからなくなってきたが、要するに自分のせいにしたくないので、人間のサガがそうさせた、おれ悪くないもん、というすり替えを企んでいる、まあそういった誹りを免れないけど。ルールを守れなかった自分をぐじぐじ責めているが、それでも退屈凌ぎにはなった(また負け惜しみ・・)。

緊張の中でしか生きていることを感じられず、負荷のかかった状態で苦しさを耐えることに喜びを感じる体質の人間に、退屈は耐え難いものだ。大義のために忠義のために死ねる侍を羨ましいとさえ思う。こう負け惜しみを言ったら、じゃあ本業の仕事をもっとしなさいよ、と言われた。ぐうの音も出ない。

コメント

  1. agehamodoki より:

    コンニチハ、またレベルの低いコメントでごめんなさい。
    「人は退屈に耐えられない」は分かるような気がします。
    しかし底辺にいる人達は退屈を感じる時間があまりありません。
    カネと退屈が少ない私には株の投資は別世界です。
    最近の乱高下にも反応しません。
    が、その波及効果で世の中の景気があ悪くなるのは困ります。
    とは言え、貧乏人も寸暇を惜しむように
    競馬やパチンコと言うギャンブルに走る人は多いです。
    もちろん私もそういった人種です(笑)
    刺激の無い生活に耐えられる「枯れた人」は少ないです。

  2. yopioid より:

    こんにちは。コメントありがとうございます。
    退屈を紛らすために仕事をしてみたら仕事自体が単調で退屈だったり、釣りに行ったら外道ばかりで狙った魚が全然かからなくて忙しい割に退屈だったり。暇つぶしに気晴らしに始めたのに退屈でしょうがないものもあるように思います。「暇で退屈」が常識だと思いますが、「忙しいのに退屈」もあると思います。
    一つ一つ調べ、その尾ひれまで調べるときに時間があっという間に過ぎていたりしますので、調べることは私の良い暇つぶしになります。ただ、熱中が続かず、飽きやすいので、私には良い暇つぶし能力があるとはいえません。
    競馬やパチンコをやりませんが、おそらく投資と同じように思います。どちらも、決断の瞬間、つまり一つの狂気、それをロマンというかもしれませんが、それによって”生きている感じ”を安易に手に入れ、退屈凌ぎが出来るものという点で同じと考えます。
    暇つぶしの能力を教養と言うそうですが、博打は教養にはなりえませんネ。