鞆幕府 鞆の浦に幕府があった

鞆の浦が潮待ちの湊として栄えた頃から在る澤村船具店に入ったところ、店におられたオジサンがガイドをしてくださった。その時に教わった内容を書き留めた。鞆鍛冶を知りたくて訪ねたのだけど、鞆幕府、足利義昭のことを中心に教わった。

なぜ鞆の浦が「潮待ち」の港として栄えたか

満ちる時に豊後水道と紀伊水道からの東西の海流が鞆の沖でぶつかる。鞆はちょうど満潮がぶつかる場所。

引き潮で鞆の沖合から東西に満潮時と逆向きに戻っていく。

西に行きたい時は満潮にのって鞆を目指し、鞆で潮待ち、引き潮を待って鞆を出れば海流に乗って行ける。省エネ!

国土地理院白地図を使用

鞆の浦の秋祭り

そのガイドさん、ちょっとテンションが高いように見えた。というのも、私が2024年9月15日訪れたその日、たまたま鞆の浦の秋祭り(渡守神社例祭)でハレの日、しかも祭りのクライマックスであるチョウサイが始まるタイミングであった。散らばった鞆の浦の人が故郷にもどり数日間かけて例祭を盛り上げる。

「太鼓の音がきこえるじゃろ、あそこに当番町のチョウサイ(山車)がおる。町が7つあって、当番は7年おきに回ってくる。今年は当番町の関町がチョウサイ(山車)を奉納する。町ごとに山車に特徴があって、中心部の西町のチョウサイが良いとか、私はあっちのチョウサイがええこっちのがええと比べたりする。当番町の子供は特別な服を着せてもらう。あっこおるじゃろ。その年配のオジサンは3歳のときに最初の当番町にあたり「あの服を着たんよ」と懐かしそうに指さした。カラフルな衣装で変わった帽子を被っている。呉の盆灯籠のような色の取り合わせ。そのオジサンはいまは福山市街に移り住んで教師をしており、ハレには鞆の浦に戻る。たまにガイドをしていると。鞆の浦の街を一旦出るとよそ者扱い、と真意はよく分からなかったがそうおっしゃった。その方は鞆の浦の金属加工が家業であったが廃業した、と。

チョウサイとは?

チョウサイは長歳、兆祭などと書き、いわゆる太鼓台と言われる山車のこと。太鼓台は瀬戸内海沿岸を中心に西日本一体で見られる。山車の中に布団を三枚重ねてその上に太鼓をおいて、太鼓の刻むリズムに合わせて掛け声しながら町を練りあるく。別名ふとん太鼓(河内・泉州、播磨・淡路)、頂戴(チョウサイ 広島海田新町、鞆の浦など)、千歳楽(センザイラク 岡山県沿岸 玉島 連島 笠岡)、ちょうさ(香川県三豊市)、神輿大鼓(木津川)。陸のまつりだが、海がつなぐ文化のよう。呼び方は様々でも様式は似る。

祭りの流れ、一日目、当番町へ神輿渡御。二日目は御旅所祭。三日目に神社へ神輿の還御が終わったあと、同日午後から翌日にかけて当番町の山車が鞆の浦の街を「チョウサイ、チョウサイ」と掛け声をしながら練る。

鞆の浦の町は7つ、江の浦・元町→西町→道越町→関町→石井町→鍛冶・祇園町→原町。7つの町を順に当番が巡る。

街歩きしながらそのガイドさんに連れられて聞いた話

写真は鞆城から見下ろす鞆の浦

1️⃣北部の鉄鋼団地にたたら製鉄の職人さんが移る前、たたら製鉄は主に鞆のどこにあったのですか?2️⃣幕末の福山藩船「順風丸」が鞆の津で建造され鞆の船釘や錨が使われたと福山市史に書いてあったのですが、どのあたりに造船所があったのですか?

マカセトキンサイという感じで、ワシも興味もっとるとこよ、こっちキンサイ、と。鞆鍛冶の最初の地に連れて行ってくれる。鞆の浦の車道は宮島の裏道みたいに狭く、車の離合が難しい。軽自動車が来るたびに道端に寄って一列縦隊でやり過ごしながら進む。オジサンガイドさんと鞆の本町あたりの風景↓、宮島の裏棚ぽい。

「鞆の浦で唯一の四ツ角がここ」。

「他所からおいでたひとは城下町のクランクに迷う。鞆の人は四ツ角言うたらここしかないから四ツ角で通じます」とおっしゃった。バス停「四ツ角」もあった。四ツ角を曲がったあたり、一番初期の刀匠、鞆鍛冶がいたとされる地区と教わる。

足利義昭がいた鞆城に登る秘密の道を教えてもらった。秘密と言われるととてもありがたい気がする↓

道端に「川本の手押しポンプ」や井戸もあり、郷愁を感ずる彩りを町並みに添える。宮島にもそこかしこに井戸や湧水があった。

山中鹿介の首塚も見えてきた。

山中鹿之介は尼子家臣、毛利家に滅ぼされた尼子家再興のため三度尼子再興運動(対毛利戦)を行った。二度目の再興運動後に京に落ち延び信長と面会し駿馬を授かる。以後信長のもとで活躍、明智光秀に帯同して丹波攻め、信貴山城攻めにも活躍、その後秀吉に従い中国地方で戦い、信長を味方につけて第三次尼子再興運動をおこした。

信長を味方につけた尼子軍、三度目も敗れる。鹿之介は上月城で籠城戦、しかし援軍なく毛利軍に降伏。搬送中に斬られ、首は足利義昭と毛利輝元のいる鞆の浦に、つまり“鞆幕府”(室町幕府の亡命政権)に、首実検のため運ばれた。山中鹿之助の胴塚は岡山県高梁町にある。

ゲーム「信長の野望」でキャラの名前とパラメーターや属性などは覚えたが、歴史には詳しくない。足利義昭も山中鹿之介もどうしてココ鞆の浦へ?っていうぐらい何も知らない、ちょっとおさらい。

腐っても鯛。

都を信長に追い払われた足利義昭にしたがって、同様に故地を奪われた大名や家臣が鞆の浦に随伴しその数は百を超えた。室町幕府の亡命政権と言われる。それを“鞆幕府”と呼ぶ説にしたがって進める。

1573年に槇島城の戦いで足利義昭が信長によって京から追放されたときをもって室町幕府は滅びたとされる。が、退いた鞆の浦で室町幕府の再興を目指し義昭は毛利家を頼り、将軍として外交力を発揮した、具体的には御内書という外交文書をじゃんじゃん発行し、反信長の司令を出す。京都にいなくても何処にいても征夷大将軍の仕事をした、今流行りのDXワークみたい。遠く上杉に武田北条との和睦をすすめ足利家の再興を促した。甲斐武田勝頼は義昭の講和要求を受諾し毛利と同盟を結んだ。上杉謙信は毛利と連携し、一向一揆衆と和睦し手取川の戦いで柴田勝家を討った。信長に抵抗する石山御坊に毛利家から救援物資を海路送ったのも足利義昭が鞆の浦にいたとき。また、遠く島津に御内書を出し、毛利と同盟を結ばせ、言うことを聞かない大友家を挟撃した。義昭はまた島津に龍造寺への侵攻も要請している。毛利の版図拡大は、義昭の外交力なしには成らなかった。毛利のための義昭、義昭の(お家再興の)ための毛利。

戦国シミュレーションゲームしか知らない私は毛利家家臣の能力や素性が良いから版図を広げたと勘違いしていたが、幸運にも転がり込んできた足利義昭の外交力の果たした役割は大きい。将軍家と一体化した毛利家という立ち位置が効いた。毛利氏は国人で位が低かったから足利義昭が味方につく効果は大きい。将軍義昭を奉じ毛利輝元はその副将軍となった。足利義昭は鞆に落ち退いても地位は征夷大将軍であり、征夷大将軍は天皇に返上しない限り有効。毛利は義昭を“利用”するにしても信長よりも面目を立てているように見える。信長が「私が将軍代行だ、義昭は行動を控えよ」とご意見した(十七箇条の異見書など)のと、ちょっと違う気がする。

信長に滅ぼされ、義昭に従って鞆の浦に来た大名たちを列挙する。伊勢の国司家北畠具親、若狭守護家の武田信景、丹波守護代家の内藤如安、近江守護家の六角義堯、室町幕府御供衆細川奥州家当主細川輝経、室町幕府奉公衆上野秀政。ほかにも身の回りのお世話をする人々など。錚々たる豪華メンバーが義昭とともに鞆の浦にやってきた。ゲームでは信長にやられるキャラたちが私の中でキラキラし始めた。鄙びた潮待ちの湊に現れた都落ちの将軍様と敗残大名たち、さながら幕府のようであったから“鞆幕府”という呼称を藤田達生氏が唱えた。

信長は義昭に対し頻りに「京にお戻りください」と促すが、義昭は信長のいないお家再興を望み毛利を頼る。毛利も「京におかえりなさいませ」義昭「いやだぬ!」

信長に京を追放された義昭は毛利領に受け入れられる前に一旦四国にいた。毛利からやんわり入国を拒否されて。むしろ信長と毛利は協議して「義昭さん京に戻ってはどうかいの」と促している。毛利家は信長と対決回避の方針でいたため足利義昭を受け入れれば信長との全面対決になる(征夷大将軍の横取りにもなるか)。

信長家臣の秀吉と義昭との会談も、足利義昭が信長への不信から人質を要求しものわかれ。その後もなお信長は義昭に帰洛を促している。義昭は信長のいないお家再興「天下静謐」を目指していたから決してウンとは言わない。そうこうしているうちに信長と毛利領の境で争いが始まる。

毛利領周辺の丹波播磨が信長に与するようになり、毛利は信長との対決を決意、そこで初めて足利義昭将軍を鞆の浦に四国から招致し、義昭の征夷大将軍としての権威を奉じて立ち上がった。征夷大将軍を味方につけると毛利家は将軍家と一体になる。錦の御旗は我にありって感じ。義昭もお家再興「天下静謐」を援助してくれる人を探していたので毛利を頼りたかった。

だが、重ね重ね毛利が最初から狙ってそうしたというわけではない。先ず義昭が向こうから転がり込んで来た。しかも、最初は断って、「どうぞ信長のところへおかえりなさいませ」と促し、招かれざる客を拒否していた。「言うちゃあわりんじゃが、毛利領におってもろうたら信長に誤解されるけえこまるんよねええ。」

義昭は都を落ちる前後から各地の大名に反信長の狼煙を上げるように御内書を発行しまくっている。足利義昭が味方についたおかげで四国北部、北九州、丹波、摂津の一部まで毛利の影響力が拡大する。

天下静謐

義昭の考える「天下静謐」と信長の考える「天下静謐」とは違っていた。信長は義昭を利用し、将軍を代行しようとした。だが義昭から見た信長は単なる幕府に仕える家臣の一人であって、義昭は足利将軍家再興のコマとして働いてほしいだけ。ギクシャクが頂点に達し、信長は義昭に対し「十七箇条の異見書」(義昭に対する厳しい要求)を義昭のみならず周りにも配って義昭のメンツをつぶし槇島城の戦いの伏線となっている。そりゃ義昭、戻りたくない、信長やっつけたれと思ったの、わからんことはない。

信長に良いようにされた義昭は暗愚で信長が全てにおいて能力が優れるようなストーリーを信じてきた。だが義昭は権謀術数に優れ権威がある。そもそも足利将軍家と比べると織田家、毛利家は対等ではない。腐っても鯛、征夷大将軍としての権威は存在し、信長も最初こそ義昭を奉じた、が決裂している。

義昭を奉じて上洛を信長にすすめたのが明智光秀。光秀は元々足利義昭の公方衆だった。足利義昭と信長を仲介し、足利義昭の上洛を助けるように信長に説いた。その後、光秀は信長と義昭の二人の主君を持つ形になる。足利義昭と信長が対立した時に義昭を見限って信長についたとされる。明智光秀が信長を本能寺で滅ぼした理由が謎でよく分かっていないらしいが、足利義昭が黒幕という説があるが最後に述べる。

信長亡き後、足利義昭は急速に豊臣秀吉と和解している。信長がいなければ良かったのかどうか急展開な感じ。秀吉の九州平定の際に足利義昭は秀吉と面会し、和解。義昭が島津に和平を斡旋し、この時点でも島津氏は義昭を主君として仰いでおり、秀吉が島津氏の面目が立つように「義昭の上意」という形で講和の勧告を行った。秀吉は義昭の上意や天皇のお墨付きが外交に有効なことをよく分かっていた。毛利も秀吉も信長のような妙な芽生えがなかった。出自が低いせいか、天才ではなかったからか。

下剋上は秩序を前提としている。諸外国の乱暴な革命のように王室を無にする秩序破壊ではない。天皇があり、天皇の命令で征夷大将軍があり関白がある。天皇を奉じ、征夷大将軍を奉じ、それに成り代わろうという人はいなかった。身分の低いものが上に立って指導する時、旧体制の上意やお墨付き、権威に頼ることで穏便に講和が進んだ。九州平定が終わったあと、足利義昭は征夷大将軍を返上、この時こそが室町幕府のおわり。

秀吉と小早川の密約があったかどうか

秀吉が本能寺の変によって中国攻めを中断、近畿に引き返すのを中国大返しというが、その際毛利軍が背後を襲わなかったのは謎とされている。密約が存在したからではないか。吉川元春は背後を攻めよう!しかし小早川は攻めない・・・、小早川と秀吉の間でなにか約束があったのかもしれない、とオジサン。更にいうと足利義昭と秀吉が通じていたということはないだろうか。秀吉の撤退が非常に上手く行っているのも不思議である。

信長がいなくなったら義昭は急に秀吉と和解している、これも不思議だ。

本能寺の変、義昭黒幕説

明智光秀は四国勢力と縁が深く、四国を担当していた。担当を外されると同時に信長が四国を攻めると決める。そのタイミングで本能寺の変が起きた。本能寺の変四国説という。直前に光秀は交渉し長宗我部元親は妥協案を示すが間に合わず信長の決定に至っている。

本能寺の変、義昭黒幕説というのがある。光秀が私怨でとかトチ狂って天下人になろうとしたのではなく、室町幕府再興のためのクーデターだったという説。

下記資料から光秀が鞆の浦の義昭と通じていたことが明らかになっている。明智光秀が本能寺の変の10日あとに書いた、反信長派の雑賀衆「土橋重治宛の返信」、義昭黒幕説の材料となっている。土橋重治が足利義昭の指示で光秀に協力を申し出たことへの返信。将軍級の人物をさす「上意」が「御入洛」と貴人にしか使わない言葉で書いてある。つまり足利義昭が都に入る、と。光秀は室町幕府再興を企て足利義昭の入洛への協力を約束していた。義昭と光秀とが土橋重治を仲介して連絡を取り合っていたというのがびっくり。

順風丸を建造した場所

これでガイド終わりです!チョウサイの時間になりましたので、ほいじゃ!、ありがとうございます!とオジサンと別れたあと、不思議なことにまた路地でガイドオジに出会い、「まあそこにすわりんさい。さっき言い忘れた、順風丸建造した場所きかれたじゃろ、時間がなくてようゆわだった。仙酔島の入江なんよ。」と再び話の続きをうかがった。そのあと、沢村船具店の娘さんがされている民芸茶処深津屋のところで三度目に出会い手を振って挨拶。狭い街だ。また鞆の浦に行くことがあったら、あのオジサンにまた逢いそうな気がする。

福禅寺対潮楼からのながめ
まとめ

・自然現象である満ち潮が東西からぶつかる場所に鞆の浦があり、帆船時代まで鞆は潮待ちの津として栄えました。沖でたくさんの船が錨をおろしていたのかも。動力船時代になると鞆の浦の潮待ちが不要となり明治期から鞆の浦は表舞台からおります。

・征夷大将軍の権威に代わろうとした合理主義者信長と、鞆の浦に招致して上手に義昭を立てた毛利。私の勝手なイメージですが。

・明智光秀は足利義昭の公方衆、義昭を身限り信長の家臣となったとされますが、その後も義昭と通じていたようです。本能寺の変は四国のつながりを一因とした、室町幕府再興の為のクーデターだったかも。

・中国大返しで秀吉の背後を追わなかった小早川、関ヶ原でも東軍に寝返った小早川・・・最初から内通してるんじゃないの?密約でもあったの?小早川隆景庇護のもとで毛利領鞆の浦にいた征夷大将軍義昭。小早川家に影響を与えた気がします。

お読みいただきありがとうございます。

<参考>

千歳楽とは? https://www.tamatele.ne.jp/~mizukawa-y/senzairakutoha.htm

神輿 wikipedia

太鼓台 Wikipedia

鞆という地名について https://ameblo.jp/tomonoura/entry-10765357524.html

鞆幕府 wikipedia

足利義昭と織田信長 久野雅司

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