さわりたいのにさわれない

北海道出張時、北海道の空気を生まれて初めて吸った。とんぼ返りの短時間だったが、北海道への憧れのようなものが沸き始めた。知人は夏休みごとに北海道へでかけ鉄道旅行を楽しみにしていた。いつか行きたいと思っていた北海道、この出張をきっかけとし私の北海道好きにもどうやら火が点いた。

空き時間に寄った広大な植物園で、すっきりした日差しと乾燥した涼気を楽しみ、北海道の基礎事項はたったそれだけであるのに、北海道というものが全てわかったつもりになった。この辺りから、私の北海道への偏愛は独りよがりで現実離れした歪んだ性質のものとなり、急進化して行く。

全く地に足を着けないおとぎばなしの世界のだし汁に浸かりながら北海道のイメージは培養され膨らんでいった。夢想は他人からみればただの妄想だ。日々の生活を粛々と営む北海道の人々の目に、夢うつつで入り込んで来るふわふわ浮かれたたんぽぽの綿毛のような来訪者は、さぞかし疎ましいものに映るであろう。私は浮かれた連中の一人であるという病識がありながら、一線を画してそうならないよう夢想を包み隠し、地道な道民に偽装し、そのあと2度北海道を旅した、それはあたかも密偵のように無表情に。偽装できていたと思っているのは本人だけだったのだが。

北海道は不思議なところで、同類の密偵が多数うごめいていた。その特徴は、単独行動、場にそぐわない折り目の入った服装、ふんわりとクラゲのように落ち着かない雰囲気で岬などを徘徊していることなどで、その様子から密偵であることは一目瞭然であった。まるで鏡を見ているようであった。遠くを見つめる眼差し、落ち着かない視点、過剰な覚醒度、多動、それほど悪くなさそうな知性、などちょっと一言で説明しにくいが、蛇の道は蛇という言い回しもあるように、自ずと「こやつ密偵だな」と察しが付いた。忍者小説でよくある場面、峠の茶屋で居合わせた2人の忍者、旅人として町人や坊主に扮してはいるのだが、ふとした身の軽いこなしで互いに忍びの者と察知しあって斬り合いが始まる・・・。お馴染みの新鮮味を欠く例のシーンに似る。

密偵同士は初見であるのに、まるで地下水脈が通じているかのように会話も自然通ずる。探るように会話が始まりこそすれ、北海道同好の士、打ち解けるまでにさほど時間を要しない。私が北海道で出会った密偵は、重工業の大企業の幹部の方であったり、医師であったり、研究者などを仮の姿として生きている人々であったが、あくまで彼らの生業は世を忍ぶ仮の姿であって、本業は密偵であるという自負は共通認識だった。なぜ密偵の裏稼業にそのような知的職業への偏りがあるのかはさっぱりわからない。

「行ってよかった場所」など、一通り情報交換を終え、会話が佳境に入ると「いかに北海道信仰原理主義の理念理想を宿し、理想を実現しからしむるべく長年各地を巡礼し、いかに民衆に啓蒙したりきや」などと、北海道への信仰心の篤さを滔々と聞かされることは稀ではない。それは自嘲混じりでありつつどこかしら誇らしげで、地下布教活動を行う者のいやらしい自惚れと精神的異臭をプンプン放っていたのだった。だが、それは密偵同士、許し合うのだ。互いの胸に秘めた”純粋でイビツ”な北海道への熱情をチラチラ見せ合う、その様子たるや・・もう、ヘンタイ扱いしていただいてなんら差し支えないレベルである。

しかし、夢想というものは一つ間違えば猛毒たり得る。夢想は、油断し、検証することなく肥大を許せば、現実との整合を弱からしめ、本人を現実から容易にふらふらと乖離させ酩酊者の様に平衡を失わせる。よせばいいのに、平衡を取り戻すために夢想自体をむしろ先鋭化させ、結果、主体は孤立へと向かう。なぜなら、孤立することによってしか夢想は保ち得ないからだ。出家の構造と似ている。大きくなりすぎた夢想自身の重みに今度は本人自身が耐えられなくなり、整合しない現実の側を逆にひどく呪い始め、捨象する。現実との整合性を検証しようとしない内面の無制限の自由というものには、その挙句の果てに不自由に終わるという必然の帰結を内在する。本人の夢想が検証を失って自由に振る舞い始めたまさにその時から。夢想が無謬の原理と化すれば、本人は信ずるところに信ずるまま赴くだけとなり、原理にとって都合の悪いものを粛清排除し、外界との関わりを絶ち、孤立を深めていく歪んだ道をとらざるを得ない。

北海道へのあこがれが昂じ、移住、農作業従事という形で全ての現実を投げうち北海道へ”出家”する人をたまに見かけるが、浮ついた雰囲気への不安感を禁じえない。夢想が原理主義化し、現実と不整合の状態のまま、今居る現実を捨象、逃避し、結局は別の現実の隙間に不自然な自らをめり込ませようとしているだけに見えるからである。歪んだ理想を捨てていないのだ。・・・というのも、実は北海道の物件を見始めている私自身を強く戒めて自分に対し、かように酷く戒めているのである。

さて、北海道に極度の憧れを抱く私と、もし北海道の人々とが、実はそれほど違わぬ価値観で生活し、同じものを食べ、同じように屁をひってウンコして生きているのだとすれば、かえって私はそのような俗物は例外だと信じ、頭を振るだろう。突飛で現実離れした北海道人を見つけては小躍りしてよろこび「さすが北海道だ、私の夢想は間違っていなかったのだ」と綻びかけた夢想を弥縫する。願わくば本土とは違う仙人のような人々であってほしい、セブンのおむすびなんか食べてほしくない、北海道原理教の休憩施設であるセイコマートのホットシェフのおむすび以外は絶対に食べてほしくない、そう身勝手に北海道の人にありもしないことを熱望し、絶望する。夢想家は他人への要求の厳しさ故に絶望する。その夢想家の漂着するところは、クセの強い人や特殊な事象を闇雲に祭り上げることぐらいしかない。子供がきれいな小石を拾って神の石であると信じるように、たとえそれが真理とは程遠いものであっても物神化する。原理主義というのは絶望感と常に隣り合わせであるから、他罰的で破壊的性質を有し、他人の目には自滅的傾向と映りうる。例えば私財と家族を全て捨てて仏道に出家することを、他人は自滅的と解釈する。わかり易い言葉で言えば、「お気の毒な人」と映るのだ。

北海道に憧れを抱く者にとっての”正しい”北海道とは一体なにか?それは公理的正しさではなく、私的な夢想北海道という舞台おいて正しく振る舞ってくれる北海道の美しい踊り子たちのことを、ただ単に”正しい”と言っているにすぎない。例えば、アイドルのお尻には肛門があってはならないという”アイドル原理主義”と同様の急進的危険思想で、手前の身勝手な夢想に親和しうる完全な北海道のエレメントだけを、”正しい”北海道と言うことになる。自分の夢想する北海道というカンバスの背景の色との相性がわるければ、すでにある構成物すら暴君のように棄却し排除する。その目指すところは人工的な理想郷であり、見張り塔の銃撃手によって管理された理想郷と言える(時に私が強制連行されるディズニーランドというネズミ原理教徒のいかがわしい人工的理想郷に行くたび、居心地の悪さを抱く、あれは思想の強制だ・・・)。夢想に基づくその恣意的な正誤の判断は、北海道の人の現実的生活や実直で勤勉な生業や、それぞれの個性などを一切考えに入れず、純化された絵空事をもとに為される。夢想的な異端北海道ファンというものは、先鋭化した異端思想に基づく独裁者や活動家とさして変わらない。

趣味や考えが合わなければ夢想に基づいて排除してよいのだ、とする行動様式は、左翼やグローバリストの行動様式であり、世界中の共産主義者や一神教が得意としてきた邪悪な常套手段である。彼らは理想郷を作ろうとし、形式においては民族的な体をとりつつ内容においては社会主義的なものである。公式芸術を人造し、プロパガンダと並行して推奨した。あの共産主義のイカれたポスターを見ればわかるだろう。彼らの作る摩天楼は大変いびつで不気味なものである。思想が合わない人に”精神疾患”の烙印を押し、幾千万の人々を粛清してきた歴史とグロテスクな共産主義建築。世界を不安定にするのは原理主義を貫く人々の手前勝手な理想のおしつけであることは間違いないだろう。自己懐疑をする機会を失ったイデオロギーというものは、民主主義にせよ人権思想にせよこの世でもっともマズいものだ。

北海道マニアの性質が悪いのは自分にしか通用しない”正しさ”を、普遍的なものだと言い始めることだ。世間共通認識の”正しさ”からは程遠い異質のものであるのに、自他の見境がなくなって、自らの正当性を声高に強調し始める。「自分はいち早くこの原理に覚醒したから、世間の方をはやく覚醒させなければならない」と。それが上手く行かないと世間の方を逆に憎み始める。人間とはけったいな生き物だ。(実はワタクシ先程友人に北海道の良さをクドクドと啓蒙活動したところだった。いつのまにか伝道師になっている・・。自分自身を強く戒めてかように酷く言っているのである。)

原理主義とはそもそも、カトリック教会という世俗的権威による支配を嫌い、聖書という無謬の原理に真摯に個人として向き合い、教会神父の指示よりも、聖書の一字一句に個人として向き合った結果内発した個々の信仰を重視する宗教改革運動を、さらに突き詰めたプロテスタントの中の”原理主義”に由来する。原理とはファンダメンタルズ、基礎事項、つまり聖書とその解釈のことで、聖書原理が世俗権威に優先する、または世俗権威や神父も不要とまで言う。原理主義はキリスト教の用語が元である。

あらゆる分野に原理主義的構造は敷衍しうる。つまり、思想でも趣味でも、自ら進んで個人として対象に対峙し、対象の”正しさ”を個人で判断し、純度を高め、理想化し、世間の共通認識に照らすよりも自分の正しいと思うところに優先的に従い、自分の考える正しさとあわないものを抽象化の過程で捨象し、自分の正しさを守るために孤立の道を選び、すでにある現実から乖離し、世俗的考えを忌避しようとする精神と行動につながる性質をもつならば、それは原理主義と本質的な傾向や構造は同じなのである。マニアや趣味は、勝手にやって良い性質上原理主義化しやすい。

原理に基づいた異端的行動を、今までと変わらぬ「現実の中で」行えば齟齬が生じる。異端的行動と整合しない外部に同調を強要し、自分の世界の拡大を願い戦いを挑み、または敗れて自分の夢想が保てる新天地へ立ち去り、外界に従命せず自閉する。現実と乖離した夢想家は居場所を失い、次第に一般物や世間を俗物として忌避し自ら進んで孤立化するという共通の病態を持つ。原理主義の心理基盤と帰結はどれも似通っていて、世間の共通認識に照らした正しさより、自分の内面における正しさに照らして”正しい”かどうかを先に考え、変わるべきは自分ではなく周り、となる。

正しさも美しさも、ありのままにしておけばよいのに、手を加えすぎれば不自然になる。過剰に手を入れたものはどうして生じるか。例えば写真に写り込んだゴミも含めて”正しい”写真かどうかは自分の側の問題である。ありのままでは”正しくない”と思う人は「真理はありのままに見える表象の奥に純化された形で存在し、ありのまま見える姿として真理が眼前に立ち現れることはない」という信念を持ち、それが一歩進んで「ありのままに見えるものは真理からすれば常に間違っていて、認識するものとしてありのままを放置することは道を究むることにおいて怠けている」として加工を無制限に正当化する。「客体に対峙する主体が認識するのであるから、主体がむしろ能動的に関わることは、一層客体の真理を真に把握することにつながるのだ」と言わんばかりである。厚化粧の病理や芸術家の過剰の病理は、真理に対する誠実さの裏返しなのだ。己の歪んだ理想を足していくことが美しい結果につながるとは限らない。ごぼうの皮を剥きすぎるとスカスカで味がしなくなるのである。内面の無制限の自由が行き着くところは言うまでもなく、”不自然”である。信じるということと、不自然とは隣り合わせなのだ。

女性の化粧や整形の不自然さも、彼女らに立脚すれば”正しい”美しさを主観的に誠実に追究した結果である。しかし何事も突き詰めすぎると不自然に終わる。頭にかぶるカツラは被ることで”正しい”自分が取り戻せるものと定義されるが、世間のカツラ判定士の厳しい審美眼を無視した、本人の美学さえただ満たせば良いかのような威圧的なカツラが存在する。おかしな視線を浴びるたびに、よせばいいのにそれまで考えていた彼らの”正しさを大盛り”した結果だ。それまでの行動が正しいものであったかどうかを検証することなく、投薬量を増やすことで確かめようとした結果のオーバードーズ、思い込みによる過ちである。味が整わないからといって塩を入れるだけで整うわけがない。致命的になる重要な点は、その向かっている方向の検証を彼らがやめていることだ。「この方向おかしくない?」をやめる。”正しさ”を追求するために周囲の声は邪魔者なのである。お父さんはこう考えていたのだ「カツラに変な視線を送る世間のほうこそが間違っているのだ」と。検証作業をやめることで、彼らは内面の無制限な自由というお花畑を獲得する。

私は原理主義的な人々を貶しているのではない。カツラを被る人も奇矯な化粧をするひとも、嘘偽りのない”正しい”姿を主体的に誠実に追究している点では、不誠実に生きている我々(少なくとも私)よりはずっとマシなのだ。だが、現実と理想が噛み合わず、現実の方を棄却し夢に遊ぶほうが楽でいられるのだ。現実に照らす作業をやめ、内面的理想や夢に誠実に没入して生き始めることのいかに楽なことか。「誠実で真面目な人ほど厄介な存在はいない、なぜならいったん自分の信念を持ち始めると自分の信念にのみ誠実になるだけだから」と指弾される存在となる。本人が真面目な分、それだけ一層おかしなことになっているにも関わらず本人がそこには目を向けることが出来ない。夢想が自分に害を成す猛毒たりうると冒頭にいったのはこの状態だ。

翻って、では、客観というものや、原理に生きない側の世間が一体どれほど正しいのかとなると、大いに疑問を持つ。客観や世間と言われるものの実態が非常に低俗で流動的で人工的であるからだ。デマによって作られ、時の権力者によって振り回される(地動説が否定されたり)。その時の空気であったり、真理とはおよそかけ離れた一時的な過熱感であったり(パニックや買い占めなど)、集落限定の陋習であったりする。新しい発見、科学的真理、次世代の正しいことは、”客観”を排した、主流ではない少数異端から生まれた。客観や世間を排することは芸術家や科学者など真理の探究者が採るべき行動様式だ。彼らは異端視から自己防衛をするため孤立の道を選んだ。今まで正しいとされたものを否定しつつ、新しいものを育てえた。新しい真理の産みの過程は現実と折り合わず、追放されたり命を奪われるものもあった。正しさに対する誠実さを守るために、不要な外部の雑音をシャットアウトし、身を守るために、彼らは隠遁したのである。

原理主義者とその他は共存できるのか。原理主義者が自分の病理を理解し、”原理に照らして行動する”という”角”を隠して生きることが出来るのだろうか。原理主義者は誠実であるがゆえに原理主義者なのだから、いい加減なはずがない。いい加減な人達と共に生活することは出来ない。一方、原理主義者の精神構造を、非原理主義者は不誠実であるゆえに理解が難しく、不用心である。原理主義者の立場から見れば、非原理主義者は不誠実にしかみられていない、そのこと自体に無自覚である限り、反対の立場からも共存は難しい。

自らが何らかの分野で原理主義化し、誠実に突き詰めて生きてきたという経験があるならば、自分自身の先鋭化によって計り知れないほどの孤独に苦しんだ経験を一つくらい持っているはずだ。卑近に例えればプロ野球で私は赤色しか認めないC原理主義者でありG原理主義者を蛇蝎のごとく嫌っていた時期があったが転勤で東京にいた時はC原理主義者であることを隠し、孤独であった。経験にもとづき、深い同情によって、”距離を置いて”一緒に住んでやると言うなら理解できる。広島にきたGファンに、野球には触れず適切に遇する。最も忌むべきは「原理主義者を異端視せず暖かく見守ってあげる私ってなんて平和的で優しいんだろう、これが優しい豊かな多様性共生社会である」等と、平等だ、平和だ、差別のない明るい社会だ、などと薄ら寒いキーワードに酔い痴れている人々である。異なるカラーを全て認めるということ自体、原理主義者からすれば自らの不誠実さを表明しているに過ぎないのである。(当たり障りなく野球の例を出しただけで、本質的には宗教の話のたとえ。)

原理主義者たちは違う原則で生きており、それを理解することはそれ以外の人にはそもそも不可能であり、彼らと一緒に住めるのだ、などということを安易に言わないほうが良いと考える。逆に、原理主義者の側こそが正直に言うだろう「”低俗なおまえたち(我々)”が考えを改めない限り存在を認めることはできない、我々原理主義者は少しの違いも許すことが出来ないのだ、原理原則に生きることを選ばず間違った生き方をしているお前(信じない者)が奴隷になるなら一緒に住んでやってもいいが、そうでなければ視野から消したい」と。原理主義者は自分の思想を死守するために、自分以外の多様な考えを反射的に否定することを生活の基盤としている。例えば家の中にゴキブリが出てはいけないという原理主義に従って命あるゴキブリを反射的に惨たらしく殺しているあなただって原理主義者である。

原理主義者の行動は、原理に誠実であり、検証は存在しないししてはいけない、なぜなら原理は無謬だからだ。その行動様式は本能的な反射行動に近い。原理は揺るがないという確信によってそこから考えることをしないから決断が早い(ゴキブリを見たらすぐに殺虫剤を手に取るように)。検証を失っているからあとは反射で動くだけ。無思想の非原理主義者は、原理主義者からすれば、不誠実な嫌悪すべきゴキブリである。原理主義者が住むお家にゴキブリとして同居したいというのなら「ゴキブリは絶対悪である」と言う原理主義者に反射的に殺されないように、適切な距離と鉄条網と地雷を設置した上で同居するしかない、というのが私の原理主義者に対する理解だ。

北海道の話からずれてしまった。無理やり北海道の話に戻る。

外界の文化と隔絶し異なる自然の中で異なる規律や原理に基づいて生きている仙人や神人が暮らす隠れ里が、どこかに存在すると信じている。普通の街の風景の中に異世界の、胡散臭い言い方をすれば真理の世界の構成要素がフラグメントとして落ちていないかを探す。セイコマートの中でさえ。逆に、土産物屋や博物館にあるような土俗をデフォルメした奇っ怪な作り物や、ステレオタイプの人工的な集約的”民俗”など全く望んでいない。どこで見ても大差ない石器時代の家族団らんの蝋人形を見て、お役所仕事感にがっかりしないのだろうか。私はむしろ、市場の野菜売のおばさんが二つ山の向こうの隠れ里から来たのではないか、などと、現実をなぞりつつ、実際はそういう妄想をして非現実を夢見ている。

私は、いつもこうだ。激しくのめり込む一方で、抑制してしまう。移住はせず、年に一度旅をするくらいにして、おとなしく写真を撮って帰ってくるという程度にしておこう。逆に言えば遠くに居るほうが夢を保つためには良い方策である。要は現実を知ることに対して臆病なのである。北海道をチラチラ覗くのが好きな覗き魔なのだ。北海道の現実の方から「北海道というものは公式にはこういうものです」と近づいて来られれば私は逃げるだろう。「これをなぞってください、そうすれば正しい北海道を知ることが出来ます」と。公式を名乗って教育しようとするものほどいかがわしく鬱陶しいものはない。教育の本質は平凡への強制である。

現実は私の夢などおいそれとは許さないことはわかっている。厳しい現実を予めわかって居るなら、医者からあとどれくらい生きられるかなど聞きたくなどない。夢の延命のために、説明したがり屋に敢えて接触しないほうがいい。最初から壊れるに決まっている夢を「積極的に確かめない」ことが朧げな夢を保つ唯一の良識だ。そうだ!そもそも聖典に記された一字一句が無謬であり絶対的に正しい原理なのであるから、正しさを確かめるという行為自体が間違った行動であり、そもそも矛盾した行動は最初からこの世に存在すらしてはならないのだ。妻が浮気してるなんて思ってはいけないのと同じことだ(要検証)。北海道は絶対的に美しい絶対不可侵の原理なのであって、疑いをさし挟む余地すらないのである。絶対を疑うことは北海道という崇高な存在から天罰を与えられる冒涜的行為である。夢を幾つも壊しつつ生きてきて、根性がねじまがった私のような擦れっ枯らしには、古傷から安易に夢は持ち得ないから原理主義に生きる素質はそもそもない。こうして、たまたま北海道という夢想を俄に持ちえて実は狼狽しているのである。まるでさえないハゲた中年男が若い女性に告白されたかのように。落鳥した美しい小鳥は翌日には冷たく死ぬ、そのようなつかの間の夢を保つために、好きな北海道の本質から私はますます距離をとり、北海道のありのままの姿をみることから遠ざかっていくのだ。

長々、ごめんなさい。

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