庄内旅行記

羽田を6時台に出発。

左下にうさぎ。出羽三山の月山がツクヨミでそのうさぎだろうか。庄内おいしい空港に到着しました。

予約していた酒田出身のガイドさんと合流します。ガイドさんの話が面白かったので書き留めそれに基づいて復習した記事になります。

酒田観光の最初は山居倉庫、倉庫の西側のけやき並木は合理的に植えられています。夏は葉が繁り倉を西日から遮光、冬は葉が落ちて陽が当たり加温、機能的です。壁は二重構造で魔法瓶のように空気断熱、風通しも考慮され通期で室内の温度湿度が一定するように配慮されて作られています。上の石畳はドラマおしんにも出てきます。おしんは庄内が舞台で、おしんが筏で川を下るシーンがありますがあれは最上川の上流。

つい最近まで農協の米倉庫として使用されていたのが驚きです。

山居倉庫は砂州の上に建築されました。洪水で流されないよう約3.6メートル土盛り、石垣で護岸されています。建物の基礎の下には長さ約3.6メートルの杭を打ち込むことで軟弱地盤対策をしたそうです。

俵に巻く黒帯の本数で等級区分しています。

どっこいしょ!!女性の役割も大きかったのですが、給料も高く奴隷労働ではなかったのにGHQが女性労働を禁じお母さんたちは働く機会を奪われました。

米券(べいけん)はお米券(おこめけん)ではありませんが米に交換可能な機能は同じ。米券(べいけん)はそもそもは1624年、家臣への給料の払いに米券を渡し、必要なときにお米に変える仕組みからです。米兌換券(米券)は庄内藩が発行し、大阪の堂島でも米券が取引されました。

最上川で活躍した小鵜飼舟。上り船では、塩、砂糖、海産物、木綿、茶など、下り船では米、紅花、青苧(あおそ、カラムシ)、大豆などが運ばれました。

酒田は庄内米を北前船で江戸に送るための湊として栄えました。米と湊から得た大きな経済力を背景に、三十六人衆という有力な豪商集団が治める町人の力が強い自治的な気風の自由都市で、少し堺に似たところがあります。西の堺、東の酒田、とまで謳われました。

酒田三十六人衆の由来ですが、伝承に基づけば頼朝に滅ぼされた藤原秀衡の遺臣が秀衡の妹とされる徳尼公とともに逃れ、秋田、羽黒山麓を転々とし、最終的に酒田湊で地侍となり廻船業を営むようになったとのことです。そもそも奥州平泉の藤原清衡が平安末期に酒田湊を開き、仏教美術品などを酒田湊から船に載せ最上川を遡り、牛馬に載せ替えて平泉に運ぶルートがあり、平泉と酒田は古くから繋がりがありました。

北前船つながりで酒田は上方を中心に寄港地との人的つながりもあり、姫路の豪商奈良屋に商売を習いに本間光丘が留学に行ったりしています。本間家は相場に強く、情報を重視し、各地の作柄など相場に寄与する情報入手のためには費用を惜しまず、例えば早飛脚を用いるなどしました。

台町を歩いた後、日枝神社、光丘神社、日和山をまわりました。まずは台町で料亭やエンターテインメントの充実した街であると知ります。北前船の船乗りが湊に着くたびに大歓待を受けたのもこのような料亭でしょう。

竹久夢二も訪れた料亭”山王くらぶ”。酒田の富豪から資金をもらい、お礼に絵を残したとか。建物の二階、釣り鐘みたいな形の”火燈窓”が特徴、仏教建築の意匠ですがスペインのアルハンブラ宮殿にも見られる窓の形。中国の寺院建築経由で西方から伝わった説もあるようです。北前船と酒田商人がもたらした富とそれによって花開いた料亭文化の象徴で、文化財指定されています。

庄内の仏壇は神仏習合で仏壇の上に神棚が乗っかってワンセット、ワンストップで神仏にお参り出来ます。鈴緒は太い布製、注連縄は真ん中が太い荘内じめ(中心部分が太く米俵を表している)など、形態上の特徴があります。神仏習合の典型であるこの仏壇+神棚ですが、廃仏毀釈のときに廃されなかったとのことです。羽黒山五重塔が守られたように。

珍しい木材を使用。なんの木だったかは失念。

人力による曳舟で上流に海産物などを運び、農産物を積荷して下った昔の最上川の風景がモチーフの”組子入建具”。最上川を上るのは14日、下るのは5日かかったそうです。

障子の桟で投網を表現した”組子入れ建具”、凝って作ってあるものを見ると自ずと笑みがこぼれます。曲線を木材で作る技術がすごいナ。

この料亭”山王くらぶ”を建築した佐藤泰太郎さん、大工の棟梁。数学者の家系、彼の作った建築物は地震で倒れなかったそうです。障子の組子のデザインもそう言われたら数学的に見えてきました。

山王くらぶ内にぶら下がっている吊るし飾り”傘福”の飾りのひとつ「さるぼぼ」、飛騨高山など岐阜県飛騨地方で昔から作られる人形。飛騨弁で赤ちゃんのことを「ぼぼ」と言い、「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」の意。病魔よけや安産祈願。赤い猿というと猩々や天狗(さるたひこ)を連想するけれど関係があるのだろうか・・・。

山王くらぶ展示の船箪笥。浮く金庫、北前船に積まれたもの。木製ですが気密性が高く、舟が沈んでも浮くように設計されていて、引き出し側に金具装飾でおもりがつけてあり、万一船から海に落ちてもコップを伏せたような形で浮き、浸水しないよう計算されています。金具は単なる装飾のみならず錘の役目。北前船に積まれ帳面や往来手形、印鑑などを入れたそうです。金属製なら海底に沈んでしまいますが、木製の金庫なら浮かびますネ。

福井の三国湊には船箪笥を復元している工房があります。たまたま酒田から帰った翌週に千葉そごう催事場で工芸品の展示があり、船箪笥を売っている職人さんに詳しく聞けました。その時のパンフレットを画像引用。三国、佐渡、酒田で船箪笥は作られ、その職人さんは三国(福井、越前の北前船寄港地)にある船箪笥職人さんでした。船を降りるときに持って降りて運べるようにサイドに取手がついています。引き出しは容易に開かないように仕掛けがあったり隠し箱があったり。受注してから一年程度かけて作るそうです。当時からの伝統技術を頑なに守ってすべて手作り。高価な船箪笥を持つことは格式や見栄の用途もあったようで装飾が大変美しいです。北前船一杯で一億円のお金が動きましたが「板子一枚下は地獄の世界」に生きる船乗りは、判断の遅れが命につながるハイリスクハイリターンの命がけ、華美に走る気持ちはよくわかります。

相馬楼の脇「姿見小路」、芸者さんとお客さんがかつて別れを惜しんだ小路。見上げると立派な赤松です。GHQの指令で酒田台町に800人居た芸妓さんも廃止されました。

台町の遊興街。千昌夫や中尾ミエや山本リンダなどの昭和のスターたちが連日出演してにぎわっていたグランドキャバレー”白ばら”。

日清戦争と酒田地震の被害者の鎮魂のために建立された酒田大仏、大東亜戦争のときに供出され平成4年に新たに建立、金属製の立像としては日本一の高さ13m、寺の営む幼稚園の中にあり、ガイドさんの顔パスで入りました。台座も入れると、お台場のガンダム19mと同じぐらいでかいです。

成田三樹夫さんは酒田のご出身。港座中劇場のあった場所に成田さんの出た映画の看板がありました。また、酒田は映画「おくりびと」の撮影地であり、映画には酒田の風景、ハクチョウも出てきます。

日枝神社の山王鳥居、上部三角形の破風、左の屋根が胎臓界・右の屋根が金剛界、真ん中を山王の神が突き進む、とガイドさんのわかりやすい説明が気に入りました。屋根に仏(胎蔵界・金剛界)、神(山王)の合一の意味があったのですね。

山王鳥居から階段を上り右にゆくと光丘神社、左に光丘文庫があります。酒田の人々が本間光丘(みつおか)さんの偉業をたたえ創建した光丘神社。

左にゆくとある光丘文庫、光丘神社を建ててくれた御礼に本間光丘さんが図書館を建てて蔵書を寄付し学びの場を人々に与えたそうです。

日枝神社です。「現社殿は、天明4年(1784年)に本間光丘によって建立」されたもの。看板によると御祭神は大己貴命、大山咋命、胸肩仲津姫命。おサルさんはオオヤマクイの神の使いのもの。棟のおさるさんに特徴があり、ガイドさんによると見ざる言わざる聞かざるの3種がこの神社だけ2種であると、詳細は失念しました。

出雲型の獅子、浅間神社に狛犬的に配置されていますが獲物を狙う獅子(ネコ科動物)の動作を模したもので、狛犬ではなく唐獅子のようです。

随身門は、本間光丘の寄進したものが明治27年(1894年)の震災で倒壊したため、明治40年(1907年)に本間光輝が再建しました。門の下でかしわ手を打つと日光の鳴龍にも劣らない反響音が生じますが、ただしガイドさんによると、よこしまな心を持つものは上手く響かないのだと。恐る恐る柏手を打つと、よこしまな心があるはずの私の柏手がなぜか反響しOKがでました。東郷平八郎元帥の真筆で「至誠通神」の額。「至誠」いつわりのない誠実さは必ず神に通じ、必ず良い結果をもたらすの意味(『中庸』(第24章)の「至誠如神」)。吉田松陰は至誠通「天」と書きました。至誠通神とガイドさんから聞いたとき、市政通信?と空耳しました。

本間家の寄進した建築物が本当に多いです。湊から得た莫大な利益を、寺院建築など公共事業を通じて民に還元したのは後に述べる本間家家訓に基づいています。

本間家の面白いところをもう一つ。庄内の米を他所へ運んだ後の船は積み荷が軽くなります。船は積み荷が軽いと喫水が浅くなり容易に転覆してしまうのでオモリ(バラスト)が必要になります。帰ってくる北前船には石が積まれましたが、その石も本間家は買いとり、それを活用して庭園の飾り石に使われたり神社仏閣の石段に使われたりしています。北海道の神居古潭石、佐渡の赤玉石、伊予の青石、岡山の万成石など全国の石が酒田に集まりました。上の笏谷石は越前で産する加工の容易な美しく青い石です。富山井波の斎賀家の蔵の框に笏谷石が使われていたのを思い出しました。

随身門の手前の山王鳥居ですが「御神号額は陸軍大将西郷隆盛公御筆明治十七年新調のものを再掲した。」とのことです。奥の随身門の扁額に先程の東郷さんの「至誠通神」、手前の扁額は西郷さん、どちらも薩摩人です。

酒田と薩摩とは大変関わりが深いようです。維新に最後まで抵抗した酒田藩をどうして西郷さんが救ったか、ガイドさんによる熱い話がありました。

薩摩長州など倒幕派が台頭し江戸の治安が悪化したころの文久2年、京都守護職を会津藩の松平容保が命ぜられ新選組を組織したように、江戸のほうは庄内藩が新徴組(しんちょうぐみ)を従えて江戸市中の治安維持にあたっていました。倒幕派浪士が三田の薩摩藩邸に逃げ込むのが度々目撃され、慶応3年(1867年)12月、庄内藩が中心となり三田の薩摩藩邸を焼き討ちします。この事件を機に翌年1月3日「鳥羽・伏見の戦い」がおこり戊辰戦争の引き金となります。

「奥羽越列藩同盟」を結んだ庄内藩は戊辰戦争では最後まで戦い抜きました。本間家や風間家の資金援助により最新の武装をオランダから買って、領内に攻められることはなかったものの、同盟列藩の各戦況は悪化し、慶応4年(1868年)9月に新政府軍へ「勝ったまま」降伏します。戦後処理として驚いたことに西郷隆盛さんは庄内藩に寛大な処分をしました、なぜでしょうか。勝ったまま降伏したから説、裏金工作説、それと別に西郷隆盛が本間郡兵衛、岩元源衛門という人物を念頭に置いていた説について述べます。

戊辰戦争で処分をうけた会津藩、庄内藩、盛岡南部藩ですが、会津藩は23万石から陸奥斗南藩3万石に転封されその後会津の人々も苦しい境遇となります。庄内藩は17万石から12万石に減封されただけで済み、庄内の戦後再開発、松ヶ丘開墾には庄内藩士が当たっています。また、盛岡南部藩は23万石から白石13万石で済んでいます。庄内藩への処分が軽かった理由には諸説あり、領内に攻められていない状態での降伏で戦闘においては敗者ではなかったからという説、また、庄内藩重臣菅実秀による工作に庄内藩一年分の歳費が献金(裏金?)として動いたという説(背景に本間家の支援)があり、さらにもう一つ有力な説が薩摩の発展に尽くした酒田の人物への恩義を西郷さんが忘れていなかったからという説があります。3つ目について。

幕末に各藩が西洋の技術導入を進めていた頃、薩摩藩も人物を求めていました。長崎海軍伝習所の通訳を務めていた本間郡兵衛は薩摩藩にスカウトされ洋学校鹿児島開成所に英語教師として赴任します。この開成所は東大の前身の開成所と同名の機関ですが薩摩のもので開成と名付く学校は他にもあったようです。薩摩藩士がヨーロッパの科学技術を学ぶために設立されました。石河確太郎や松木弘安(のち寺島宗則)などの西洋学の第一人者が教授となり、英語やオランダ語のほか、砲術、数学、物理、医学、測量術、航海術などの授業が行われました。1865年に派遣された薩摩藩英国留学生は、鹿児島開成所の優秀な学生を中心に選出され本間郡兵衛も派遣に関わっています。本間郡兵衛は「薩州商社起案」を小松帯刀に立案し日本最初の株式会社「薩州商社」を組織します。本間郡兵衛は本間家の分家で廻船問屋に生まれ、英、仏、露、中、米に遊学し見聞も広かったようです。本間郡兵衛という庄内藩本間家の人物に薩摩藩の近代化においてお世話になったということを西郷隆盛さんは踏まえてそのような裁きになったという説となります。ガイドさんによると、本間郡兵衛は勝海舟とも関わりがあり勝海舟の下で勝塾の蘭学教師も務めていたそうです。

本間郡兵衛 写真
本間郡兵衛氏の写真
本間郡兵衛

酒田本間家に株式会社薩州商社の資金依頼に戻ってきた本間郡兵衛は、庄内藩から仇敵薩摩のスパイとみなされ、残念ながら幽閉された末に死亡しました。数奇なことに亡くなった二ヶ月後に明治に変わりました。

もうひとり、薩摩と庄内を繋いだ人物を西郷さんは意識していたようです。薩摩藩が経済的に潤う一因となった密貿易は有名ですが、明治維新に先立つ100年前頃に「山形屋」を立ち上げた庄内生まれの商人岩元源衛門が薩摩藩にスカウトされ彼等が密貿易で活躍し莫大な利益を薩摩藩にもたらしました。山形屋は鹿児島の商店(スーパーのチェーン店)として現在も続いており、社長さんは岩元さんです。

西郷さんの庄内藩に対する寛大な処遇に、庄内藩からは菅実秀をはじめ藩士70名余りを引き連れ鹿児島に赴きお礼を述べ、西郷隆盛ら薩摩藩士に教練を乞い彼らと寝食を共にする付き合いをしたそうです。国内留学です。この時に学んだことを、西南戦争で西郷さんが亡くなった後の名誉回復後南洲翁遺訓(南洲翁=西郷さん)としてまとめられています。

西南戦争時に恩人である西郷さんに援軍を送れと庄内では運動も起きたそうですが、庄内からの援軍は派遣されず、薩摩に留学中の庄内藩士には帰還命令がだされ、それに抵抗した庄内藩士は薩摩に残り薩摩軍として西南戦争で戦死を遂げています。庄内藩内で薩摩軍に援軍を出すべきという意見が起きたとき、生き残って日本の発展に尽くしてほしいという西郷隆盛の思いを菅実秀さんが理解していたこと、また、藩主がそのときたまたま長期不在であったため菅実秀さんだけでの判断が困難であったことも派兵をとどめた理由のようです。菅実秀さんも相当苦しいお立場であったろうと思います。

今日は鳥海山がよくみえるヨ!と、ガイドさん。日和山公園から冠雪の鳥海山が見えました。

斎藤鮮魚店。「鮭おくり風干」村上市の鮭より長く一年かけて干すそうで、味が濃くておいしいのだそうです。酒のあてに最高そう。

お昼はこい勢さんでお寿司を食べました。美味しかったです。午後もガイドさんにお願いしました。

清遠閣 せいえんかくです。手漉きガラス越しで景色が少し歪んでいるのがおわかりでしょうか。この珍しいガラスは今はもう作れないのだそうです。清遠閣と鶴舞園は、本間家4代当主光道が藩主酒井侯の領内巡検宿泊施設として別荘を造ったのがはじまり。本間家のためではなく幕府関係者の接待用です。

本間家の家訓に「富豪のものと縁組すべからず。すべからく清素なる家庭の子女と婚を結ぶべし。」というのがあるとココでガイドさんに教わりました。富豪の人は図々しい人もいて保証人にさせられたりするとか、ありますもんね・・。

本間家の家訓

1.忠君愛国は国民な本分なり。義勇以て公に報じ、一旦緩急あれば、家を顧みずして国家のために尽くせ。

2.神を敬い仏を崇ぶは誠心誠意を喚起するゆえんなり。一日も信仰の念をゆるがせにするべからず。

3.公共事業に全力を尽くし、公益のためには財をおしむなかれ。

4.貧をあわれみ弱をたすけ、盛んに陰徳を施すべし。

5.勤倹の二字は先祖由来の厳訓たり。よろしく服膺してその功徳を発揮せよ。

6.深く子弟の教育に注意し、忠孝の心を涵養すべし。

7.富豪の者と縁組みすべからず。すべからく清素なる家庭の子女と婚を結ぶべし。

8.世態人情を究め、心身を修養するは、一家を治むるにおいて必要なることに属す。宗家の嗣子なる者は必ず全国を漫遊すべし。

9.祖先を尊ぶは我が国風の美なるゆえんなり。一家におけるもまたしかり。故に一家の大事は必ず祖先に報告し、しこうして後決行せよ。

10.家庭の静粛は長幼の序を厳にするにあり。決してみだるることあるべからず。

11.勧懲の制を設け、農事を推奨し、小作人を優遇すべし。

12.額に汗して得たるものにあらざれば真の財産にならず。すべからく投機事業と会社事業を排斥せよ。

家訓を読むと、このお庭は公共事業であるとわかります。事業に投資してそのお金が酒田の人々に回るようにしたものであろうと。

GHQが本間家に捜査に入ったときGHQが驚いたことがあります。小作人からの話と使用側の話とが一致するため、GHQは「労使で100%同じ意見であることはめずらしいことだ」と首を傾げたそうです。黒人奴隷を扱き使うようなお国柄ですからネ。上記本間家家訓11にあります「小作人を優遇せよ」と。

本間家というと本間宗久の相場師や酒田五法のイメージが有り、投機に頼るようなイメージを持っていましたが、逆に投機を戒めているのが意外な発見でした(家訓12)。どちらかというとファンダメンタルズ分析寄りでもっと言えば物言う株主です。つまりお金を貸すだけでなく借り手に対し経営アドバイザーもやっていました。たとえば本間光丘は、上杉鷹山にお金を貸すだけでなく財政再建のコンサルをしています。お金を貸すだけでなくお金の教育や事業の方法も教授しました。建設的な物言う株主。本間さんは武士の商法を信じていなかったんでしょうねとガイドさんに聞いたら、そうかも!と。

二日目。鶴岡のハクチョウさんこんにちは!

羽黒山に登りました。車ですが。

長靴を借りて五重塔まで歩きます。連れの長靴が破けて浸水し、プチ修行状態に。

「出羽三山、羽黒山が現世(現在)、月山が前世、湯殿山が来世。」

「現世の羽黒山、死を表す月山、佛生池から入り、湯殿山から生まれ変わる、PCの再起動のように人間を蘇らせる思想。いったん仮死状態になって苦行して湯殿山で再生する。」

ガイドさんから聞き取った走り書きを今読み直しながら、「池から入る」を水に潜ることと勘違いをしていました(笑)。月山の仏生池で死に水をとり、そこから先の死の世界に”入る”のが正しい意味で修験道の人が白装束なのは死に水を取ってあの世に行くからです。白装束はいちど死んだ象徴。羽黒修験道でのあの世とは月山から湯殿山の険しいルートです。修験道の場合、一度死んで白装束を着て難所を通り目的地の湯殿山に到着したら産湯を使い生まれ変わることができます。その行程を知ると、湯灌をしたあと死人に着せる白装束も、生まれ変わることを目的とした仏道修行に行くためのものという気がしてきました。

https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/

おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子(はちこのおうじ)が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡さんかんさんどの行」と言う。)となって広がりました。日本遺産 出羽三山より引用

月山があの世で阿弥陀如来。羽黒山は現世利益、衆生救済の観音菩薩。湯殿山は生まれ変わりを祈る、生まれ変わりを司る仏様居たっけ?リンク先の説明文によると大日如来だそうです、寂光浄土というらしい。明確な場所というより真理に基づく宇宙全体のことのようです。

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

阿弥陀浄土(死後の世界)と寂光浄土(来世)同じように思えるのですが、どう違うのか?寂光浄土とはなんだろう。

寂光浄土とは仏の住む安寧あんねいで清らかな世界。また、すべての煩悩ぼんのう(成仏のさまたげとなる心の働き)から解放された究極の悟りの境地。注記「寂光」は、真理の静けさと真智の光。「浄土」は、汚れのない、清らかで美しい国。

寂光浄土は阿弥陀浄土よりもっと純度を高めた真理の世界・宇宙でしょう。その真理の世界が生まれ変わりの世界ということみたいです。寂光浄土のイメージにDNAらせん構造や数式や惑星軌道が私なりに思い浮かびます。浄土には来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種類があり、浄土の考え同士では対立があるようですが出羽三山の考えだと包括的ですね。私の好きな車に例えたら来世浄土が大衆車、現実世界の浄土化を意味する浄仏国土がレストア、究極を目指す寂光浄土はコンプリートカーあたりかな。

良いガイドさんの話を聞くと、帰ってから調べよう!が増えて楽しいです。かなり長くなりました。お読みいただき誠にありがとうございます。

コメント

  1. nakagawa より:

    凄く面白かったです。
    酒田と薩摩の関係は知りませんでした。
    バラスト代わりの石にタモリ氏が感心されていたのを思い出しました。(ブラタモリ酒田編だったかな?)

  2. yopioid より:

    コメントいつもありがとうございます。酒田市観光物産協会にガイドさんを頼んだら、ブラタモリの缶バッジを付けた人が来て「私じゃないけどタモリさんの案内を仲間がしたんです」とおっしゃり、おおお!と。ブラタモリのガイドが出来るクオリティの人はバッジをつけているそうです。タモリさんの博識にガイドさん「とにかくすごかった」と。その番組を私は見ていませんが、機会があったら見てみたいです。

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