これでいいのだ。

これでいいのだ、が実は意外に深い。バカボンのパパはこう言う、

「わしはリタイヤしたのだ。全ての心配からリタイヤしたのだ。だからわしは疲れないのだ。」

実はこの画像は創作で天才バカボンの中にこの文章はない。

私事で恐縮だが、仕事量を減らし自由な時間が増えた。人間関係や会議、PHSという首輪をつけられ昼も夜も呼ばれるオンコールのフラストレーションから自由になった。他人様の運命を左右する判断をしたり、役を与えられて仕込まれた技芸をやってみせたり、忠実に振る舞ったりすることをやめた。仕事を選び不本意なことをしなくなった。仕事の不出来を自責して寝込むことも無くなった。全ての心配から私もリタイアしたのだ。

ただ時々、これでいいのか?と自分の尻を叩いて生きてきた習い性が苦しめる。誠実に生きるべきと言う自己洗脳のようなものがいまだ解けない。天才ではない凡人ゆえに努力する必要があったから誠実でもない人間が誠実に生きてきた。

このjpg.のバカボンのパパは、これでいいのかをいまだ迷っている。だからこそフラフラしていることを「これでいいのだ」と各回ごと自分に繰り返し言い聞かせている。「これでいいのだ」といわなければいけない事自体、それでいいかをまだ逡巡していると自己表明しているようなものだ。真にこれでいいのであればわざわざ言う必要はあるまい。

と、ツレに言ったら、読みがネガティブすぎる、とボソリ。バカボンのパパは悟達して迷いがない感じにしか見えない、と。いろんな試行錯誤の末に揺るがぬ境地に達している、即ち今までの努力や苦労の結果手に入れた境遇と心境、心の乱れの原因となる”判断を停止すること”で得られる心の平静の状態における自己肯定感なのである。それに満たされていてこその「これでいいのだ」であると。そして自らの満足に留まらず世の悩める人々をも「これでいいのだ」と無制限に肯定するパースペクティブを有しているのであって、私みたいな小人とは生きているスケールがそもそも違うのだ、と。

美人なママとはじめちゃんとバカボンと、レレレのおじさんや本官さんに囲まれ、年がら年中遊んでばかりのバカボンのパパの恵まれた境遇はかつて理想と考えていたものだが、それなりに悩みはあるのだ。これでいいのだ。しらんけど。

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