聖書の一節を紙切れに書いて手渡してくるおばあさんがいる、毎度一方的に。今日のメッセージはボールペンの綺麗な字で次のように書いてあった。
「行いによって誠実に愛を表しましょう。ヨハネ 1 3:18」
いずれ教会に誘われるのではないか。これ以上善人ヅラで受けとってはいかんなと思いつつ受け取る。聖書はどうも苦手で「父」という構想にまずのめり込めない上に、弱い子羊はひれ伏すべきとたたみ掛けてくるあたりでポカーン、設定がムリ。聖書の成立背景や史実には距離を置いて興味を持てるが、信心ではなく、異文化への興味に過ぎない。経済や生活規範にまで宗教が入ってこられることを望まない。生き方は自分で吟味して決め他人に指図されることは良しとしない。風向きに合わせて信念は変化していくべきものだと考える。私の先祖が海の人間だからかもしれない。神と個人との間に仲介者は要らない。自然なりなんなりに対して全力を尽くし、あとは神頼み、これでいいのでは。
お仕着せ宗教が嫌な私でも、神社は好きだし、教育勅語程度の子供向けお題目には親しみを感じる。宗教を毛嫌いしている訳では無く、むしろ宗教的に生きる人々の勤勉で慎ましいおさまり方は傍目に好ましいと考えるし、風紀の乱れた世の中に筋目を通す事ができるなら彼らを見習うのも良いかもしれない。
アメリカのプロテスタントの種類や日本の新興宗教を、怪獣の分類を調べるみたいに知ることも好きだ。日本の仏教の儒教要素(儒教とは何か(中公新書) 加地 伸行)、台湾の媽祖信仰(海神に由来する道教)、瀬戸内の船大工の船玉様などに興味をもっている。
旅行先の地の神には節操なく参る。台湾に行けば台湾の廟で手を合わせ、内地なら地の神さんに参る。信心といえばそうだし、物見遊山気分で節操がないと言われればそういうことにもなる。神さんに手を合わせられりゃあなんでもいいの、対象物なんて。心のうちにあるんだから。
特定の宗教への信仰心はない。ただ神さんが好きなだけ。群れて徒党を組むのも好まない。子供の頃から神社や宮島の神事に親しんでいたこともあり神社で感謝を伝えることは慣れているし、生活の一部。しかしその一方で世俗道徳たる既存宗教の細目を「奴隷道徳」と呼んで揶揄したニーチェを、若い頃面白おかしく読んだ。宗教に頼らず道徳ぐらい自分で考えて決めるべきとはこの頃から考えている。かつての上司が結構ガチ目のキリスト教徒で、すごくいい人ではあったけれど顔を合わすたびに奴隷道徳という言葉が脳裏にチラつき、いつか腹の中がバレやしないかと気を揉んだものだ。
子供の頃、宇宙の構造や生命科学を学ぶと背景に大きな存在があるように思えた。太陽の運行、星の動きに吉凶を重ねる原始的な気持ちをよくわかると思った。天変地異が起きれば神様が怒ったと考える。その原始人みたいな気持ちと自然科学と子供の頃からの神社参りの習慣は私の中では整合している。故郷を離れた今は地の神社や祠を代わりとして手を合わさせてもらっている。難関試験の時は雨乞いみたいにお願いしたが、それ以外は基本日頃の感謝を伝えるだけ。今日も来たよ、ぐらいの感じ。私達日本人に神道が染み渡っているのは、こまごまうるさくないのがいいからかも知れない。神話を失った文明は衰退するらしい。ちょうどGHQが我が国の神話を意図的に破壊した時期を境に、老人の質が非常に落ちるのでそれは腑に落ちる。今の老人は明治大正の老人と比べて独善的であり、テレビばっかり見て文句ばかり言うからあまり日本人らしくない。あ、私の親の悪口です。悪しからず!
どうぞ皆様良い週末をお過ごしください。
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