「承知しまいた」について

池波正太郎真田太平記で「~しまいた。」「わかりまいた。」という表現が出てくる。これを女優の遥くららさんが言うので大変魅力的なのだ。設定では武田と真田に所属した草の者(忍び)が使う。最初方言かどうか調べ始めたが分布図が見つからず、音便で検索したらサ行イ音便のようだとわかった。

まず、音便について、「書いて」本来は「書きて」。「き」が「い」に音便化する。五段活用連用形に助詞がつくと音便化する。しかし、サ行動詞に限って音便形を取らない。出す(だす)は出いて(だいて)とはならない。しかし特定の時代の文献や、西日本を中心とした方言では「出いて(だいて)」というイ音便形をとる。この現象をサ行イ音便という。関西の音便のクセみたいなもの。逆に、東国風だと「歩きて」が「歩って(あるって)」になる。「書きて」を東国風にいうと「書って」。「動いて」も「動って」になる。

「動詞の音便の方言学的研究 サ行イ音便を中心として 東北大学 坂喜美佳」と、「国立国語研究所 方言研究の部屋 方言文法全国地図」を参考にした。

出した、が、出いたに近い発音になるのが下図の赤いところ。愛知静岡、南信、岐阜、越前越中、山陰、九州。近畿中央ではサ行イ音便は衰退した。

・糸魚川浜名湖線を境に東西に方言が分かれることとを東西対立分布と呼ぶ。

真田太平記の作中設定で草の者は武田についた忍びだったが武田家滅亡の折に真田家に移籍した設定。上信は「出した」、中信・南信は「出いた」。草の者が居たのは方言から後者か。

関東にサ行イ音便が広がらなかったのは子音優位の発音体系だからとされる。

貸した、の場合。カイタになるのは九州が多い。

・サ行イ音便は中央語では10世紀頃発生し、17世紀半ばには衰退したと言われている。

・文献上一番古いのが守護国界主陀羅尼経(900年頃)「下(くたいて)」「臥(ふいて)」

・(そもそも中央語でも使われていたのだが先に中央語で衰退し、)国語史の上からみて中央語(上方語・江戸語)にこれが使われず、尾張においても非音便形と併存することから、かなりくだけた物言いないしやや卑俗感の伴なうものであったことが考えられる。

劇中、真田の武将と草の者の会話で、草の者が身分が上の真田の武士に対して「わかりまいた」というから丁寧表現のように見えたが、文献によると時代によってニュアンスが変わるようだ。

・音便パターンと地理的分布が相関する。

・母音優位の西日本諸方言ではイ音便化が広く確認され、子音優位の東日本では非音便形が展開している。

お茶碗・バケツ・お好み焼きをかやす(ひっくり返す 広島弁にもある)、の分布はサ行イ音便分布圏中に点在する、というのも面白かった。返すの連用形の音便が不都合のため、かえいた→かやいた。

<参考文献>

・「動詞の音便の方言学的研究 サ行イ音便を中心として 東北大学 坂喜美佳」

・ 国立国語研究所 方言研究の部屋 方言文法全国地図 「出した」「貸した」

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