加賀藩の資料を読んで福山藩でもペリー来航後に洋式藩船(木造船)を一隻建造されていたことを知る。船や武装といえば鉄、福山のどこで製鉄をしたのだろうか、まさか日本鋼管福山じゃあるまい、と調べ始めたら広島県東部の景勝地鞆の浦で製鉄が行われていた。なんでこんなとこにたくさんというぐらい鉄工所が多い。かつて船釘や錨など船用の鉄製品製造地として鞆は栄えた名残、有力層は御用鍛冶をつとめた。もとはと言えば鞆の製鉄は刀鍛冶から始まった。その刀鍛冶は天平の三原の刀匠に遡り、その鍛冶は大和(奈良)から移住したことを知った。大和も出雲とつながりはあるから、鞆の鉄技術も遠回りで出雲系ではある。鍛冶技術だけに限ると、備中備前や三次の近接地からもたらされたのではなく、遠く大和から。
福山の製鉄は、鞆にあった。日本鋼管福山よりずうっと前から
福山藩藩主水野勝成公以来、福山湾は干拓されその上に日本鋼管福山(JFE)は建っているがもちろん江戸時代にはない。福山藩の西洋藩船のこと、それが鞆津で建造され鞆の船釘が使われたことを知った。瀬戸内は木造船主体の頃からもともと造船が盛んで、鞆の浦で製造された船釘や錨が広い地域で使われた。鞆は船のべんが良いので鉄製品製造拠点とそれを使った修復、鉄製品の輸出港などロジスティクスも利点があったろう。現在、潮待ちで栄えた鞆の浦の西の沼隈には常石造船がありJFEの鋼板を使って大型船を作っている。
老中阿部正弘の命で福山藩で西洋藩船「順風丸」が作られた。
ペリー来航時の老中首座阿部正弘は福山藩阿部家7代藩主。開国問題を指揮し39歳で病没。海防強化のため西洋砲術を奨励し、大船建造の禁を解き、韮山代官江川英龍に命じてお台場を築かせた。幕府は浦賀奉行に命じて鳳凰丸を、水戸藩は旭日丸を、薩摩藩は昇平丸を建造し幕府に献上。海軍士官養成所たる海軍伝習所、洋学教育のための蕃書調所、砲術を学ぶ講武所を設置した。
知らなかったのが、福山藩でも藩船「順風丸」を作ったこと。老中阿部正弘が福山藩主として福山藩に洋式帆船建造を計画する。14歳の中浜万次郎は高知で出漁中鳥島まで黒潮にながされ、ようやくアメリカ船に救助されアメリカ本土で造船技術など教育を受け立派になって鎖国の日本に帰って来た。阿部正弘は中浜万次郎に命じて模型を作らせ、正弘の死後1862年「順風丸」が完成する。福山藩も開明的で、長崎海軍伝習所に伝習生を送り、江川英龍の韮山塾に砲術を学ばせ、西洋技術導入を目指した。福山藩には弘道館が既にあったものの正弘の肝いりで「誠之館」があらたに作られた(江戸や薩摩の開成所みたいに)。福山に今も広島県立福山誠之館高校がある。話がそれたがその順風丸の建造は鞆の津で行われ、鞆の浦の船釘が使われた。
鞆の鉄のルーツ、結構面白い。
順風丸に鞆の船釘や錨が使われた。鞆の製鉄のルーツは三原・尾道の刀匠。更にそのルーツは大和鍛冶にある。
鞆の製鉄のルーツは荘園と関係する。
たたら製鉄については出雲や備中備前、三次、福岡で盛んであるから、岡山からもたらされたか?と調べ始めたら岡山ではなく奈良、大和からだった。
尾道の旧家其阿弥家(ごあみけ)の伝承によると、尾道三原の刀匠は備中備前の流れではなく、尾道北部の甲山に高野山の荘園があった所以で大和鍛冶が天平の時代から備後に移住し刀鍛冶が始まった。その三原正家の分流が鞆三原となり、鞆の製鉄の基礎をつくる。三原正家の刀の特徴は「大和もの」の形態的特徴を持ち「鎬幅広めで鎬高い」。下図を参考に、鎬地に当たる部分を鎬幅といいそこが広いのが大和物の特徴。下図は刀剣ワールドより引用。刀身の断面が平たくなくてひし形っぽい。
甲山に、高野山が作った“今高野山”がある。
福山の人が紅葉を見に行くときは大体ココ。“今高野山”は1200年前に弘法大師が開いた真言密教の霊場。今とつくけど、作ったときは新しかったから、今宮が新宮と同じように。今=new。新幹線みたいなもの。福山デルタを形成する芦田川の上流に甲山があり、甲山の世羅に、平安から中世の時代「備後国大田荘」と言われる荘園があった。大化改新後「人も土地も国のもの」という考えの国司の重税から逃れるため、地方豪族は中央権力に寄進する形をとって私領を拡大していく。備後大田荘は世羅の豪族橘氏が開発し、平氏配下となり平氏荘園となったが、平氏も後白河院に寄進した。平氏が敗れると鎌倉幕府が三善氏という下級の公家を地頭として送ってくる。荘園領主は高野山となり、高野山別院の“今高野山”ができていた。年貢の利権で、高野山と三善氏がいがみ合うが最終的には高野山のものとなる。武士の世となると守護が山名氏となるが応仁の乱後は吉舎(三次)の和智氏が支配し毛利氏と結び、国人領主となりこの頃には荘園制度は廃れている。
刀剣の主な産地、大和鍛冶の技術の伝播が荘園と関連する
刀剣の主な産地として、古い時代に限ると、大和(奈良県)、山城(京都)、備前(岡山)、相州(神奈川県)、美濃(岐阜県)の五箇伝といわれる産地がよく知られている。
大和伝は備後だけでなく、周防の刀工にも影響を与え、周防は二王清綱などが有名な刀匠。周防国には東大寺領の荘園が多くあったためこちらも大和鍛冶との交流が深い。備後北部甲山の方は先に述べたように高野山の荘園。備後に大和鍛冶の技術が入った経過が荘園と関連する。
荘園開発に必要な鉄製農具、荘園を防御するために必要な鉄製武装など、荘園に鉄技術が移転されたことは合理的に思える。他と差別化を図ることができる鉄加工技術の安易な移転は、それが奪われた時にリスクを伴う。
<五箇伝>
山城伝。三条宗近、藤四郎吉光、来国俊が知られる。
相州伝は山城・備前の刀工が移住。新藤五国光、五郎入道正宗、郷義弘。
美濃伝は大和から移住した刀工による。美濃国中部の「関」を拠点。相州正宗の弟子とされる、志津三郎兼氏や、戦国期の関孫六兼元が知られる。
下図、兵庫歴史ステーションより引用。
順風丸の図
「文久元年(1861)六月藩主阿部正教は鞆津で大船建造を計画、いわゆる藩船順風丸を起工し、翌二年九月完成したが、西洋型二百七トン・三本檣・長さ二十二間・幅四間・大砲二門を搭載するという軍艦で、この建造にも鞆鍛冶は多く用いられたことと思われる。」
日本財団より引用。福山藩軍艦・順風丸「幕末維新幕府諸藩艦船図」江戸時代後期 原資料:東京大学教養学部
鞆の鍛冶のその後
船用金物で栄えた鞆鍛冶だが、明治以降は帆船から動力船に代わり、潮や風を待つ必要がなくなり、鞆に寄港する船が減った。山陽本線からも遠く衰退する。福山駅あたりから狭軌の鞆鉄道も一時敷かれたが廃止。鞆は繁栄から徐々に取り残される。鞆の鍛冶職人は鞆の北の外れの鉄鋼団地に集団移転した。鞆って造船と鉄加工で栄えた工業都市じゃったんじゃち。住んどったときは知らんかったけれどが。
製法の全く違う日本鋼管福山に備後の鍛冶たちが転職したかどうかは知らない。たたら製鉄の行われた岡山、福山、北九州には高炉がある。鉄加工従事者、かつてのたたら製鉄の流れを汲む人が近代化の波でどのような道を辿ったか興味がある。
参考
江戸幕府の衰退と広島 阿部正弘 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/92154.pdf
日本財団 福山藩の洋式帆船「順風丸」と「快鷹(かいよう)艦」
福山市史 中巻 644ページ 鞆鍛冶 国立国会図書館デジタルコレクション
漂巽紀略 著者 川田維鶴 撰 出版者 高知市民図書館 国立国会図書館デジタルコレクション
刀剣ワールド
兵庫歴史ステーション https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/bugu-kacchuu/tk_intro2.html
Wikipedia 二王清綱
尾道正家 http://masaie.jp/
誠之館高校同窓会会報 福山藩の洋式帆船「順風丸」と「快鷹艦」
―老中阿部正弘と中浜万次郎― https://seishikan-dousoukai.com/bulletin/kaiho8 、https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/contents/0043.htm
日本財団 図書館 「阿部正弘と日米和親条約」展 図録 https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/mokuji.htm
備陽史探訪の会 大田荘を巡る人々 https://bingo-history.net/archives/13083
今高野山 https://www.imakouya.nss55.net/index.html
お読みいただきありがとうございます。長々ごめんなさい。
コメント
すごく面白いお話!
先ほどのコメントで名前を書き忘れました。
アバターが出ませんがnakagawaです。
Nakagawaさん、コメントありがとうございます。
いいねボタンの設定が上手く行かず、結局Jetpackを外したのですが、そのせいでしょうか。
ご不便をおかけして申し訳ございません。
Nakagawaさんに面白いと言っていただけるととても嬉しいです。
ありがとうございます!