神人・供御人 

司馬遼太郎著作、菜の花の沖。南北朝の勢力に関する言及があって興味をひかれました。

二巻p12

北風家という町方の王というべき地侍についてのくだり、

「この兵庫の地生えの勢力が、南北朝の頃、南朝に属していたというあたり、おもしろい。当時、公家方の南朝というものが、思想として律令公家体制の復活というおよそ歴史の実情に適わないものであったにもかかわらず、その配下の多くが、当時、沸くような勢いで登場した新興の商業勢力や、交通業の徒(陸上は馬借、車借。海上は回漕業)であった。過去の権威の亡霊のような公家勢力と、社会にまだ正規の席をあたえられていない商業勢力とが合体するという現象は他の国の革命期にもしばしば見られる。」

大河ドラマ太平記の南朝の描かれ方が、いかにもわびしい後醍醐天皇っていう感じであっただけに、この記述から、おや、思ったより活気がある新興勢力が応援してたんだなと。下層民まで組み込んで西洋式軍隊を整えた幕末の長州をちょっと連想しました。次はwikipediaからの抜粋。

畿内は武士の侵出は他地域ほどではなかった。また商人職人が特権を得るために、有力寺社の神人(じにん じんにん 神社に隷属し、雑役などを行った下級神職・寄人)となったり、天皇に奉仕する供御人(くごにん 供御とは本来天皇の食事を指す。食品のみならず手工業製品など天皇の使用する種々の品物を貢納した人々のことを供御人と呼んだ。交易にも従事。広域に交易する商工民は「供御人の地位」を与えられ保証された)となる動きが顕著に見られた。こうした神人・供御人らは獲得した特権を背景として座とよばれる同盟を結成し、畿内のみならず他地域に渡る広範な交易活動を展開した。(wikipediaより)

南北朝時代の神人(じにん)は、神職といっても下層民によって構成され、武闘系な人々が武器を持って警護にあたって僧兵みたいな役目をしたり、芸能、手工業、商人、貿易に携わるものも、許認可権限をもつ寺社の配下となるため神人になったようです。材木売(ザイモクウリ)は中世の材木商人のことで、京都祇園社を荘園領主(=本所)として活躍した堀川神人は丹波の木を京都に運び商いました。日本各地の貯木場と材木座を取り仕切ったのが材木売でこれも神人のひとつです。

近江の日吉社に属した日吉神人(ひえじにん)は高利貸しを営みました。いわゆる近江商人に連なる。近江商人発祥といえば、西武鉄道が有名ですが、高島屋、伊藤忠、住友財閥、日商岩井とニチメンからなる双日、ヤンマー、日清紡、東洋紡、東レ、ふとんの西川などなど、武田薬品、ニチレイも近江商人に由来します。永田町から赤坂方向に歩くと日枝神社がありますが、ここも近江の日吉社の派生です。東京の日本橋は江戸期に作られましたが、日本橋では近江商人が活躍しました。

時代は中世に戻りますが、畿内(関西)を中心に流通が活発となり、農業も発達し、従来の荘園領主・武士層とは異なる神人の階層が経済力を強めます。彼らは旧層から「悪党」と呼ばれます。荘園制度や国衙の支配体制から出て独自に惣村を作って自立したからで、いうこときかない。大河ドラマ太平記に、武田鉄矢扮する楠木正成が、河内の惣村の村長的な感じで出てきます。楠木正成・赤松則村・名和長年などは中世の代表的な悪党です。また、花夜叉一座という名前の田楽一座と行動をともにし、ちょっと卑猥な田楽を器用に踊ったりします。武士が芸能に通じていたり、それを楽しんだりする光景が太平記っぽいです。

鎌倉末期の農民の自治の村、惣村。今風に言ってみれば納税義務に従わず自治体を作ってしまう反社会組織なわけですが、当時の背景を考えれば、荘園・国衙は徴税するだけで泥棒から守ってくれもしない、なんにもしないくせ税金だけとりにくる、任せられないということで出来た自治組織が惣村で、惣村が権力に対し起こすのが惣村一揆です。農業商業で経済的力が強まったことを背景に一揆が多発します。

戦国期に入ると惣村の自治権が徐々に奪われ、秀吉の時代に検地刀狩りが行われ、江戸時代に身分制度ができます。刀狩りというのは惣村などから武器を奪うこと兵農分離です。刀狩令にはこうあります。

「第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。

「第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

秀吉は同時に海賊禁止令を出し、海の武士、瀬戸内水軍からも武器を取り上げました。独自の収入源であった船舶の護衛の仕事、水先案内の仕事も奪いました。菜の花の沖の主人公高田屋嘉兵衛も、貿易、船舶警護、船舶の誘導、必要に応じ武器をとって海で生きた人の血筋なのかもしれません。淡路島の出身ですから。

菜の花の沖 二巻 p54の記載。

徳川家康が草創した江戸期の政治体制の原理が農本主義であり、かつ新規なものを好まないということで出来ているということは、すでに何度か触れてきた。農本主義であることは、この時代の御家騒動の幾例かが、新興の商品経済を是認する藩政家と、そうでない側との戦いであり、そうでない側(農本主義側)がつねにお家の忠臣のように語られていることでもわかる。

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