人間テンピュール

三人掛けの通路側に私は座っていた。離陸してまもなく室内灯が落とされてしばらくしたころ、三人掛けの真ん中の隣の女性が、いぎたなく私に寄りかかってきた。機内のエンタメで「ちいかわ」に集中していた私は、突然のことに呆気に取られたが、すやすや眠っている人を覚ますのは可愛そうであったのでそのまま肩で受けとめて「ちいかわ」の続きを見ていた。余程お疲れなのだ、いずれ起きるだろう。猫にすり寄って来られて体重をドンと預けられることを心待ちにしている猫好きだが、そのとき猫から受ける感覚に近かった。私はクッション性が良いのか更なる深い眠りを誘ったようで、その女は徐々に全体重を預けてきた。人間は猫より重い。その頭部は存外に重い、加減ないほどに本当に寝てしまっていた、この女。私は人間テンピュールで売り出せるかもしれない。一先ず「ちいかわ」に集中しつつ、体は心地よいクッションたることに徹した。いやらしいことは全然考えていない。ただ、そこはかとなく、得も言われぬ良い香りが髪からしてきて「ちいかわ」を巻き戻し再生したことは白状しておく。

さて、水平飛行に入って灯りが点くとその女は起きて、リンゴジュースを頼んだ。束の間起きていたが、飲み終わると、まもなく再び舟を漕ぎ始めた。こちらに縋るか縋らぬかとゆめうつつの彼我を揺れ動いていた。前後に揺れ、左右に揺れ。前のシートに頭をぶつけそうになり、こちらは気が気ではない。それならいっそ、こっちに来ればいいのにとさえ思った。

着陸態勢に入り、再び灯が落とされたと同時ぐらいに、再び女は寝穢く私の肩にしなだれかかってきた、どっしりと。安定感抜群。「へい、らっしゃいやせ。人間テンピュールにようこそ。」私はまんじりともせず、心地よい無機物たるべく、目を覚まさせぬように注意を払った。

着陸し、灯りがついた。「お疲れのご様子ですね」などと声をかけたら、耳目のある中でその人に恥じ入らせることになるので何も言わなかった。最後まで無機物たるテンピュールはものを言わぬのだ。何もなかったかのように通路側の私は急ぎ降機した。長い通路を歩き、手荷物受取場を過ぎて、さらに出口に差し掛かったとき、ふと後ろに誰か居るような気がした。猫が付いてきてはいまいか。淡い期待を抱き、振り返った、が、だれもそこには居なかった。・・・あの猫はほんとに寝ていただけだ。誰でも良かったのだ。居るわけ無いじゃん、ははは。。。左肩に預けられたひどく重い頭を思い出しながら少し胸がチクチクした。というわけで、用事もないのにまた飛行機に乗りたくなっている人間テンピュールであった。

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