誓真さんと杓子

日頃ご飯を茶碗によそうときにしゃもじを使いますが、そのカタチを最初にデザインをしたのは宮島のせいしんさん、誓真大徳さんというお坊さんです。厳島の光明院のお坊さんで伊豫(愛媛)の生まれです。

1700年代の後半のこと。誓真さんの若い時、今の広島市堺町で米屋をやっていました。ある日、お金がない母親がまだ温かい子供の衣服をお金代わりにせいしんさんの米屋に持参しましたが、衣服は返し、ただで米をあげたそうな。不憫な人が多いのう、と決心して宮島にわたって光明院の了単上人のもとで得度、神泉寺(現在は廃寺)の僧となって修行しました。光明院の中に頌徳碑があります。

下の黄色い矢印が光明院、厳島神社の山手にあります。

誓真さんは、弁財天の琵琶の形をヒントに杓子のデザインを考案、参詣客によく売れました。当時から宮島は集客力がありました。宮島の人々は引き続いて木製の酒器や皿や盆を轆轤で作ったり、お箸を作ったり、生活の役に立つ木工品を商品として売りました。木彫り技術を導入してお盆にデザインしたり発展を遂げます。商いにより島民の生活が潤います。私の親戚は今も宮島で木工に携わっています。私の父の代まで木工品の小売店をしていました。私自身も子供のときに店番をしておりました、売り物のペプシを褒美にもらったりしながら。宮島の木工品はもみじ饅頭と並んで現在も代表的なお土産品です。

宮島観光協会より引用

水で困ることの多かった島で誓真さんは井戸を十箇所掘りました。「誓真釣井」と名付けられ、これも島民の役に立ちました。数箇所残る井戸では今も水をたたえています。

また、誓真さんは、花崗岩質で起伏の激しい宮島の地形を整地し、島民が住みやすくし、参詣客が通いやすくしました。誓真さんは、井戸掘り・商品開発・土木インフラ整備に貢献した宮島の偉人です。

この誓真大徳さん、姓を村上と言い、伊予来島海峡に浮かぶ武志島(むしじま、もとは務司と書いた)の務司城の城主、村上頼冬の家系であると、村上水軍!

村上水軍、といえば船造り、木工技術はお手の物。宮島の御神木でなにか作れないか・・・杓子やおぼんを作る事を考案、すんなりつながる気がします。

「プレミアムな宮島の木で作る、プレミアムな機能商品。」コマーシャルみたいですが、付加価値をうまく付けて商売開発されたのだと思います。

杓子(しゃくし)の語尾にモジをつけたのが「しゃもじ」で女房言葉のひとつです。宮島の爺ちゃんや父は「しゃくし」と呼んでしゃもじとは言わなかった、たしかに。しゃもじは杓文字とも書きます。宮島では、縁起の良い言葉「商売繁盛」などを大きめの杓子に書いて売っています。

厳島神社に初詣に行くと、先着何名かわかりませんがこんな干支の焼印つき杓子がもらえます。子供のときに十二支をコンプリートしました。↓牛の下にある厳島神社の二重亀甲剣花菱が3つの紋ですが、二重亀甲剣花菱が一つだけだと出雲のおやしろの御神紋なのだそうです。

大島と今治の間にある武志島

黄色矢印が武志島(務司城)誓真さんの故郷。

古代から「神の島」として、島そのものが信仰の対象とされていた安芸の宮島では、島民が死ぬと神聖な宮島では葬儀も埋葬も禁じられており、対岸の大野赤崎に埋葬するのが習わしで、専用の葬式の船(渡海船)の棺船で本土に渡ります。厳島神社の神職の代々のお墓も、光明院の誓真大徳さんのお墓も同じ赤崎の墓地にあります。私の実家の墓も同じ赤崎墓地にあり、墓掃除のついでに参ってきました。曹洞宗延命寺の敷地に厳島神職の家や浄土宗の誓眞さんのお墓があるのは、宗教が混在していて宗教フリーで面白いです。シャモジデザイナーセイシンさんと宮島の神主さんとウチの墓が同じ墓地だったなんてちょっと嬉しい発見でした。

杓子を考案したせいしんさんありがとう!!

宮島から棺を乗せた船が、地(本土)に着く赤崎の岩の上にお地蔵さんがかつて”海中に”立って迎えていました。波で倒れたことや、宮島口の桟橋のあたりを開発するに当たり、この赤崎の墓地の入り口におひっこしして今も墓参の人々を赤い前掛けしてお迎えしておられます。むかえ地蔵といいます。

一年ぶりに帰省したついでに父母から聞いた昔話が面白く、酒に酔いながらメモした話をネタにしております。

読んでいただきありがとうございます。

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