古代の通貨戦争

「世界史は99%経済で動く」 宇山卓栄著、面白い。読みながらわからないことや画像を調べたりして勉強メモ。

他の文明は川ベリに発生、インダス川とか。なぜヨーロッパの文明は土地の痩せたギリシアから文明が始まったか?ギリシアが産み出す”銀”が鍵となる話です。

紀元前8世紀、当時の繁栄の中心はイラク・エジプト。ギリシアでは痩せた土地でオリーブやブドウを作り、オリーブオイルやワインと引き換えに、穀倉地帯のオリエント地域アッシリア王国から穀物を物々交換していました。そこに歴史上初めて鋳造貨幣が登場します。オリエントとギリシアの中間に位置するトルコ、つまりアナトリア半島にあるリディア王国のエレクトロン貨です、コレが世界最初の硬貨。世界最古の硬貨は金と銀との合金でした。

wikipedia 世界最初の硬貨 エレクトロン貨

エレクトロンとはギリシア語で琥珀、金銀合金の淡黄色が琥珀のようであったためこの名がつきました。リディア発の硬貨はギリシアエーゲ海一帯、更にオリエント地域に普及し、大きな貨幣経済圏を形成しました。電気はelectricityと言いますが、これも琥珀が語源、琥珀を擦ると電荷が生じ、ものを引きつける現象から、現在は定義するものは変わってきていますが元は静電気です。

オリエントではアッシリア(アラブ系)の支配を嫌った白人(コーカソイド)がギリシア地方へ南下し、ギリシア人口が増加したこともギリシアの成長に一役買いますが、物資の交易を円滑にするこの硬貨が出現したことも大きな要因です。

紀元前6世紀、ギリシアではポリスが各地に成立、同時期、オリエントではアケメネス朝ペルシアが統一。アケメネス朝のダレイオス1世は金貨の金純度を高め、金と銀の交換比率であるGSR(gold silver rate )を1:13としました。隣国インドのGSRは1:8であったため、インドで金を買って、アケメネス朝で売って銀と交換する商人が、インドの金をアケメネス朝に集めました。為替差益ですね。レートが良くて高く買ってくれるところに金は集まります。

金の準備量が増えることは、国家の信用を高めるために必要不可欠なことでした。特に、中央集権国家であるアケメネス朝ペルシアにとっては金の保有が大事。

ギリシアのGSRはアケメネス朝と同等の1:14でしたが、金山を持たなかったので銀本位制が取られていました。ギリシアのアテネでラウレイオン銀山の銀から独自通貨”ドラクマ”が作られ始めます。アテネは貨幣供給都市となり、スパルタやテーベより優位に立ちます。貨幣にはアテナの使い、フクロウがデザインされています。

赤いマークがラウレイオン 銀山があったあたり

アテネで大量に銀貨が鋳造され、ギリシアでは銀の価値が下がり、ペルシア商人はペルシアの金を、ギリシアで銀に変えて、銀をペルシアに持ち帰って金を買うという為替差益を得ます。その結果、今度はペルシアの金がギリシアに流出する事態となり、アケメネス朝の中央集権体制の基盤を揺るがします。ペルシア政権内部でペルシアからの金流出を食い止めるためにギリシアを討つべしという声が高まり、紀元前480年、ギリシアへの大艦隊の派遣が決定されペルシア戦争が本格化します。

ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアが、蓄積した金、すなわち国家の信用を失ったら中央集権の基盤が揺るがされる!という危機感から起こしたという見方は面白いです。

アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図
世界の歴史マップより引用 こんなでかいペルシアが、ギリシアに負けてしまうのがペルシア戦争
ペルシア戦争 ペルシア戦争当時のギリシア地図
ペルシア戦争当時のギリシア地図 ©世界の歴史まっぷ ペルシア戦争の詳記はこちら
ギリシアって一枚岩ではないんだね。対ペルシア強硬派はアテネスパルタの大きめのポリスを中心とした南部。 https://www.youtube.com/watch?v=3_mSC8I_tUw より引用

ギリシアは豊富に産出する銀と流入する金を使って軍備を整え、貧民層を海軍に雇用し、最終的にサラミスの海戦でペルシアに勝利します。ギリシアの勝利は銀によってもたらされた経済力による勝利でした。

ギリシアの軍備に脱線しますが、陸では重装歩兵(ホプリテス)の密集陣形(ファランクス)、海では三段櫂船(トライリーム)が活躍し、物量に勝るペルシアに勝利しました。

wikipedia 重装歩兵より引用 丸い盾をホプロンといい、それを持った重装歩兵をホプリテスという

機動隊みたいに横に並んで戦います。

wikiwandより引用

三段櫂船は、櫂の漕ぎ手60名~170名を上下3段に配置して高い速力を得ました。攻撃時の最高速力およそ10ノット。現代船でバルバス・バウに当たる部分に金属製の衝角(ram)を備え、敵船に衝突して船腹に穴を穿って浸水させる攻撃でした。ツンツン攻撃!艦隊戦法としては、敵艦隊を包囲し衝角攻撃を加えるperiplous、敵艦隊列間を突っ切り転舵し船の弱点である後方から攻撃するdiekplousがあり、船速と転舵の機動性が敵に勝ることが重要で、敵防御線を壊すことが本質でした。diek=through(ancient Greek)

三段櫂船の衝角左下。wikipedia 写真の作者への言及

ちょっと脱線しますが村上水軍の軍船にはこのタイプは見かけません。瀬戸内は浅瀬も多いから喫水の深さを必要とするこのタイプは使われなかったのだろうか。衝角を読むと、和船の構造上、体当たり戦法には向かなかったようです。コレ作ってたら九鬼水軍の鉄甲船を破ってたかな・・。

ギリシア海軍の三段櫂船がペルシア軍を撤退させたサラミス海戦について、ヘロドトスが記載しています。

紀元前480年ペルシア艦隊はギリシア艦艇の出撃を知ると、キュノスラ半島を越え、サラミス水道に侵入します。ギリシア艦隊はススっと後退し誘い込みます。

サラミスの海戦 - Wikipedia
wikipedia サラミスの海戦より引用

ヘロドトスの記載などを見ると、ペルシアの舟艇は軽量で高波に弱かったようです。①衝角攻撃用(物理攻撃用)のギリシア三段櫂船は喫水が深く、高波でも安定していました。②サラミスの風の日内変動を把握していた(地の利)。③狭隘なサラミス水道に敵船を集中させ、密集した敵船間を突き抜けて防御線を突破しペルシア船の櫓を壊し、混乱したところで背後から衝角攻撃を行いました。

下記、wikipediaより転記。敵を狭隘に誘い込み密集させ、風を待って海が荒れるタイミングを待って、敵の密集に突撃して混乱させたのち、体当たりで背後から船を沈める攻撃を行った、素晴らしい。

ギリシア軍はペルシア艦隊を認めると、逆櫓を漕いでペルシア艦隊とは逆の方向、つまりサラミス島の陸側に向かうような動きを見せた。これについてプルタルコスは、テミストクレスがこの水道に一定の時刻になると吹く風(シロッコ)を利用するため、ペルシア艦隊を前にすると逆櫓を漕いで後退し、時間を稼いだとしている。ヘロドトスによると、ギリシア側は、西翼にアテナイ艦隊、東翼にスパルタ艦隊を配置し、対するペルシア側の布陣は西翼にフェニキア艦隊、東翼にイオニア連合艦隊が展開するものであった。 戦闘の始まりについてヘロドトスは複数の説を伝えている。アテナイによれば、アテナイ船1隻が戦列を抜けてペルシア艦隊に突っ込み、他の艦船もこれを救援すべく突入したことで戦闘が開かれたとしている。また、アイギナによると、神霊をむかえてアイギナより来航したアイギナ三段櫂船がペルシア艦艇と最初の戦闘を行ったとしている。また、ギリシア軍の眼前に1人の女性が現れ、全軍を鼓舞激励したとも伝えている。 実際の戦闘がサラミス水道のどこで行われたのか、また、全勢力が激突したのか、あるいは包囲線をギリシア艦隊が突破したと見るのかは、古来より諸説あり、ヘロドトスも具体的な記述を残していないため不明である。しかし、ヘロドトスはペルシア艦隊の敗因として戦列の乱れを挙げている。 プルタルコスが、テミストクレスが風待ちを行ったという記述を残していることを考えると、艦船への直接打撃を行うため喫水が深く重い造りのギリシア艦船に比べ、兵を敵船に揚げるために重心の高い造りとなっているペルシア艦船は、シロッコによる高波で、また、日没前にはマイストロと呼ばれる西風による高波で思うように動きが取れなかったと推察される。 戦闘海域も大艦隊を誘導するには狭すぎ、戦列が乱れたところにギリシア艦隊の船間突破戦法を受けたと考えられる

wikipedia サラミス海戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6

カルタゴはオリエントに住んでいたフェニキア人が北アフリカ地中海沿岸に移住して交易を生業としていた人々がつくった都市でした。ペルシア海軍の主力となったのはフェニキア人でカルタゴの船でした。その多くは商船の転用でした。そりゃ負けるわーネ。。

戦勝したギリシア軍に採用された貧困層はペルシア戦争勝利後、発言力を持ち、参政権を勝ち取り、アテネなどで民主政治がおこります。民主政治といっても、軍で力をつけた人々による民主政治なので、軍人優先の偏った政策をとりました。ギリシアには軍事国家体質が定着します。対ペルシア戦勝後も本質はペルシアを撃退したというだけで、ペルシアは消えたわけではなくギリシアに影響を及ぼします。戦後もギリシアではポリス同士が抗争したり(ペロポネソス戦争)、ペロポネソス戦争に負けたアテネがなんとペルシアに援助を求めたり、南部ギリシアはまとまらず、疲弊していきます。

ギリシア北部にギリシア人によるマケドニアが起こります。ギリシア南部の造船需要などに応じ木材や、土地のやせたギリシア南部へ農産物がマケドニアから輸出されます。南部ギリシアはそもそも人口が増え、農業に適さない痩せた土地で、軍と無関係で土地を持たない無産市民が溢れ、彼らが北上し開拓形成したのがマケドニアでした。マケドニアとギリシアとはギリシア人同士です。マケドニアは南部ギリシア貧困層のフロンティアとして拡大・発展していきます。その領土はドナウ川にまで達します。

マケドニアは南部ギリシアに食料や木材を輸出し富を蓄積し、南部ギリシアから溢れ出たギリシア人貧困層を受け入れ常備軍を増強します。南部ギリシアはポリス間で抗争を続けて疲弊しており、そのスキをついて、マケドニアは南部ギリシアに軍事侵攻し紀元前338年ギリシアを統一します。

同じ頃アケメネス朝ペルシアでは領土内のシリアエジプトでの反乱が相次ぎ、負債も膨れ、ギリシア人傭兵を安価に使いはじめました。ペルシアの内部混乱は傭兵を通じてマケドニアに伝えられていました。父の遺志を継いだマケドニア王アレクサンドロスはペルシアを破り、ギリシアとオリエントを統合した一大帝国を作ります。征服の様子をドロイゼンは「コスモポリタニズム」などと美化して表現しましたがドロイゼンの”創作”であり、実際に行われたのはペルシア人男性の虐殺と、ペルシア人女性に対する蹂躙でした。アーリア人って昔から気が荒いナ。

どうぞ良い週末をお過ごしください~!

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