瑞泉寺と綽如上人

井波別院瑞泉寺は、浄土真宗本願寺派のお寺。富山県南砺市井波にある。”加賀一向一揆”と言う言葉は教科書で習ったが、瑞泉寺が越中の一揆の拠点であったことは行くまで知らなかった。浄土真宗の人々は一向宗と呼ばれることを喜ばない。厄介ものと捉えていた側(信長秀吉家康)からの呼称だから。石川と福井の県境にも”加賀一向一揆”拠点、吉崎御坊(よしざきごぼう)がある。一揆の拠点と言うのは一面で、そもそも布教のための寺として始まったのは言うまでもない。

本願寺5代綽如(シャクニョ)により瑞泉寺は開かれた。ゲーム「信長の野望」で顕如(けんにょ)(=本願寺光佐)という武将が出てくる。浄土真宗の最高位の名前にはニョがつくようだ。初代だけニョが付かなくて親鸞。第8代が蓮如。第11代が顕如(本願寺光佐)。

高校の教科書「よくわかる倫理」を引っ張り出して浄土真宗について復習。親鸞から顕如までたどってみる。

親鸞の若い頃

親鸞が広めた浄土真宗。親鸞は、4歳で父と8歳で母と死別、9歳のときに叡山に登り堂僧をつとめながら20年間天台宗の教えを学んだ。29歳 叡山の教義に不満を持ち、山を出て、京都の六角堂にこもって救済の道を考えていたところ、、、、

ぽわわわんと示現する太子。

聖徳太子「げんき~」
親鸞「え、まじw」
聖徳太子「法然にあってみれば道が開けんじゃね?」
親鸞「りょ、吉水の禅房いってみるわ うーぃ」

吉水の禅房は法然と弟子との住房、今の京都円山公園あたりにある。親鸞は法然に帰依したこの1207年(35歳)が一大転機となる。浄土真宗の寺や門前に聖徳太子の像や太子堂があるのは、親鸞の目覚めのきっかけが親鸞であることと関連する。太子信仰というのは大工さんや職人さんの間で流行し、必ずしも浄土真宗とは限らない。

親鸞ピンチ!

NEWS! 「法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまう。」後鳥羽上皇の逆鱗に触れる。承元の法難

後鳥羽天皇「ぬぬぬ、吉水の弟子がワシの女に手を出した、ゆるさん、念仏禁止。親鸞は越後、法然は土佐へ流しちゃる。」

親鸞、田舎に布教しつつ信念を深める

四年後親鸞は許されるが、東国へ布教(42歳)、武蔵、下野、日立へと旅を続けながら。そこで書いたのが「教行信証」。

https://www.houzenji.org/single-post/shinran-tour-part1 上野法善寺HPより引用 親鸞の足跡

親鸞の思想 「俺自身がどこをどう見ても悪人、自分、善をおこなうとかできない。罪業の深い悪人なんだから弥陀の本願にすがるよりないわ。」

いつも思うけれど、浄土宗も浄土真宗もどこかキリスト教ぽい。浄土真宗はキリスト教ほどストイックではないところが違うけれど。

「末法の世、がんばって人々を救おうとしたけれど救うことが出来ない。仏の道といいつつ戒律をごちゃごちゃ決めて守れなかったら地獄行きとかルール言っても、救いようがない人は救えないわ。戒律と無縁に生きる、救いようのないこの人達は毎日をどうにか食べて生き抜くことだけで精一杯なのだ。生きるためには盗むこともするし女犯もするし生き物を殺して食べるし、そうしないと生きていけない。そんな人々を救済することはできるのか。」

宿命を受け容れ、打算ではなくただ念仏を唱えて、ご縁があれば生きられるし無ければ往生。宿命を受容するという態度、弥陀におすがりしてあとは風の吹くまま気の向くまま、サイコロのでた目を受け入れること、と個人的には解釈している。修行をして戒律を守れば真理に達するという、悪く言えば”打算”とは対極にある。

第5代 綽如上人は足利義満の時代に最高位、北陸に布教した

第5代綽如上人の頃の京都は足利義満の北山文化の時代。浄土真宗は既に、仏光寺派(畿内から西国)、木辺派(近江)、三門徒派(越前)が各地域に布教しており、最高位を継承した第5代綽如上人は、ハテどこにしようかナと考えて、越中を”新規開拓”。越中・井波に瑞泉寺を建立。綽如上人が難解な外国の国書を理解できたので、天皇は大変喜ばれ瑞泉寺建立を認可されたというお墨付きもある。ここを足がかりに北陸の浄土真宗教化が始まる。井波の門前町のガイドさんもシャクニョさんのことを繰り返し説明されていた。北陸に浄土真宗を広めた人として綽如さんは地元では誰でも知っている偉い人。

第8代 蓮如の時代に浄土真宗は一大勢力となる

時は15世紀後半、本願寺に第8代蓮如が出た頃、青蓮院末寺に落ちていた本願寺を中心とする真宗教団は一大勢力となる。蓮如は第8代の最高位を継承し、勢力が大きくなることを恐れた青蓮院本寺の延暦寺によって京から追放される。庶民派の本願寺と、古い貴族中心の旧来の延暦寺との対立。

京を追われた蓮如は東国の親鸞パイセンの足跡をたどったあと、越前福井の吉崎を拠点に布教。吉崎のは輸送船の寄港地。浄土真宗の寺院は交易地に位置し街を発達させたケースが多い。名古屋長島の願証寺も。瀬戸内の船乗りも浄土真宗で尾道の耕三寺も浄土真宗。近江商人も浄土真宗。

浄土真宗は底辺層に広がったと習ったが、当時の運輸貿易・商業・工業・農業などの現在で言えば産業の主力分野に信仰が広がった。

信徒は念仏講(日曜教会みたいなの)で団結。富樫政親(加賀国守護大名)が一揆の首謀者を殺したことに信徒は腹をたて、10万人が立ち上がる。1486年冨樫政親は追い詰められ自害、以後100年浄土真宗が地域を支配。北陸は守護大名を戴かず、宗教勢力が100年間支配したという特異な地域的特徴がある。

1478年に山科に本願寺を造営。北海道から九州まで教えが広がる。

https://hotokami.jp/heatmaps/ ・・・・神様マップ(現在の浄土真宗の宗派別分布域)

第11代 顕如と石山合戦 顕如の没後、東西の本願寺へ

蓮如が建てた山科本願寺が六角定頼と日蓮宗によって焼き払われる 山科本願寺の戦い。蓮如が創建した大阪石山御坊へおひっこし。

天下統一を目指す織田信長が浄土真宗排除を目指し1570年石山合戦。本願寺は雑賀衆鉄砲隊や安芸門徒からの援助などを得て石山合戦では優勢だが、地方では敗れ、信長の死後、秀吉と和議。顕如は和歌山鷺森へ、更に大坂貝塚の願泉寺へ。その後豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へうつる。浄土真宗の多い商業層が体制に組み込まれる。

顕如は大僧正になったものの、秀吉から孫の自害を命じられるなどあまり良い待遇を受けていない。1591年、秀吉によって京都七条堀川へ移転させられ、本願寺(現・西本願寺)を建立。顕如の没後、顕如の意思をつぐ三男(西本願寺)とそれに反対していた長男が対立、三男は西本願寺を継ぎ、長男側には家康が土地を寄進し東本願寺(大谷派)を建立して独立。

浄土真宗の倫理と資本主義の精神

私は信心深くないけれど、全宇宙を作った存在はあるような気がしている、これは子供の頃のひらめきで、今もそれほど変わらない。お天道様でもいいし、外国の人ならアラーの神様でもいいし、何かわからないすごい存在が物理化学や宇宙や数学の法則を作っていると思う。この感覚を「神」と世の中は言っているのだろうと勝手に思っている。

その程度の信心であるくせに、寺社を見つけたらこまめに賽銭を入れて手を合わせる、宗派を問わない。ゼニカネのご利益のあるところは少し長めに祈願するケド。原始的な神の存在の意識が、様々な形で肉付けされ、一部は原理主義化したと考える。それぞれの地域で夫々が絶対的だと思っている原理を、私は尊重する一方で、神のかたちはいかようでも良く、それぞれ相対的であると思っている。幾つも有る原理のうち一つを絶対化することが、生きるための糧として必要な人がいることは承知している。

私は原理主義からは程遠い。戒律を墨守して神仏におすがりしてなにかしてもらおうという願いを持たない。期待をしていない一方で、自分の内なる信仰心に従い、そのへんの寺社で宗派、神仏関係なく手を合わせ、お天道様に手をあわせる。良く言えば一方的な全方向的愛慕であり、試験などで合格を祈願したり必要なときは近くの神社でお祓いしてもらう。原理主義者からみればいい加減であろう。それを許す日本の神仏は現実的な宗教である。非難覚悟でいうと神も仏もそう違いはないとさえ思っている。

浄土真宗は聖書のように細かな原理がなく(教行信証など原典に準ずるものはあるけれど)、戒律の強制が少なく、念仏だけ唱えれば良いという有り難さは、ともすれば自らの正しさに従えば無法も許されかねないと思うところがあり、内なる信心に従うことを優先するあまり、一つ間違うと暴走を許す部分はある。だが、戒律の厳しい宗教に見られる原理主義や排他性は乏しいため柔軟で応用が効く。あなたはアレルギーがあるから処方できない、ということが浄土真宗にはない。

商工業者(近江商人や大工)や輸送従事者(船乗り馬借など)、漁民や狩猟民といった、生産者に信者を獲得していったこともプロテスタントと似ている。プロテスタントは農業従事者には不興であったが、逆に浄土真宗は農民にも広まった。中世の農奴制を否定し蓄財の自由を認めるプロテスタントの倫理が、資本主義の底流であるが、では浄土真宗はどうか。

昭和初期の研究で近江商人の商業哲学の基底に浄土真宗の思想が流れているというものがある。近江は蓮如が熱心に布教をした場所であり、江戸時代には真宗の盛んな場所。後の伊藤忠の創始者の伊藤忠兵衛や、中井源左衛門、松居久左衛門といった近江商人を輩出したが、かれらは熱心な仏教徒である。日本橋を構成した人たちも近江商人であり、現在の商業系の大企業は近江商人に由来することを考えると、浄土真宗の倫理は近代の経済的発展を支えた日本の企業の精神を(社是とか社訓とか表向きなのも含めて)下支えしていた。日本の商工業者の倫理観や日本式の会社精神が国際的に特異的だと思うときに、浄土真宗の教えや近江商人の倫理に源流を見いだせるかもしれない。株主の利益だけを最大にするという舶来の株式会社の仕組みは日本にはちょっと合わない。浄土真宗の倫理と資本主義の精神と捩って表題したのはそういう感じ。プロテスタントとの大きな違いは浄土系は原理主義化しないことだろう。というのも、そもそも「原理化や戒律なんて無理!」からスタートしているのが浄土真宗だから。

コメント

  1. Wow, beautiful photos! What a rich architecture.

  2. yopioid より:

    Thank you Maria Cristina Gino Baroso. This architecture was built for the Jodo Shinshu mission. Fine carvings are made by the techniques of woodworkers living in the town of Inami. Inami Town has been designated as a Japanese heritage site.(^^)/

  3. Wow, that’s great to know! This post of yours make me want to visit Inami Town in Japan, someday. Thank you! 🙂

  4. yopioid より:

    I’m glad you commented, so I’ll take you around if you wish! Have a nice day, Maria Cristina Gino Baroso! (^^ゞ

  5. Thank you, take care and stay safe!

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