神域と風俗

厳島は神聖な島でありながら遊郭があった。

厳島の島民は、出産したらしばらく島に戻れなかったり、今も死人を宮島に埋葬してはならないし、勝手に島の神木を切ってもいけないし、コエを鋤き入れて島の土地を農耕地にしてもいけない、島からでたコエは対岸の大野に小舟で運んでいた。ケガレを忌避する土着の陋習、掟があり、それは島自体が”神聖であるため”と教えられてきた。楯突くとかそういうことではなく我がふるさとの文化であり決まり事。しかし、その神聖な厳島になぜケガレの最たる遊郭があったのだ。私はこう考えた。神域は公権力の外であり、アンダーグラウンドな商取引を引き受けていた。

寺社領は聖域であり、公権力の及ばぬ場所で、貢免地域でもある。関東地方だと不入斗という地名がそれに当たる。罪を犯したお尋ね者も寺社領に逃げ込めば罪に問えない避難場所であった。また、公権力の及ばぬ場所では自由に市が営まれた。女性の売買も行われていた、つまりは、そういうことではなかろうか。。

なぜそう思ったか。大森の不入斗(寺社領周辺の貢免地)のそばに大井三業地があったことが一つ。全国にどれぐらい不入斗があるのか調べたら横須賀唯一の公認遊郭であった「柏木田遊郭」があった所も不入斗、我がふるさとの宮島(島自体寺社領)は不入斗とは呼ばれないが遊郭があった。アンダーグラウンド業界や士農工商の「商」とされた部分を寺社がまる抱えしていたのではないか、という私の乱暴な仮定から話を進める。寺社勢力と対抗していた織田信長が楽市楽座という経済政策をとったのは有名、なぜそれを作ったか。それ以前にあった「座」の既得権益をチャラにするのが目的だった。「座」は寺社がお墨付きを与えた権益受給者、彼らによる商業の独占状態を織田信長は否定したかったのだ。単純化すれば既得権の否定。

座ということばは、そもそも市場の中の場所を意味する言葉で、市場内で商売ができる権益を意味した。座は公家や寺社を本所として座役を納め、あるいは奉仕を行い、本所は座の構成員である座衆に供御人・寄人・神人などの身分を与えてこれを保護した。座は仕入れの独占を行い、流通も独占した。また、座は貢免権を得、公権力の外であった。

室町時代に入ると、領主権力が強くなり座の権益を奪おうとする。新興の座を「新座」と読んだ。ただし埼玉の新座は新羅系渡来人集住地由来の地名であったと思う。新羅の座。

織田信長は支配地に楽市楽座を行い、豊臣秀吉によって中世の座は解体させられた。領主と結びついた御用商人が座に取って代わり、宗教勢力は武装解除させられた。武力は即座に権益をまもることと同義であり、武装解除イコール権益を失うことと同じであったと考える。

その後の座は、権益機能を失ったものの商業共同体として残ったものもある。また、芸能者では主要な大夫を家元とする芸能集団としての座が形成され、江戸時代以後に「○○座」と呼称され、それが転じ、映画館などの名称になった。

出雲の今に残る情報ネットワークがあるという話を聞いた。出雲の芸能(おくになど)の歴史を考えるとき、あるいは手工業座の中核をなしていた勢力や、流通を牛耳っていた勢力は寺社のネットワークに支えられていたような気がする。

浄土真宗と近江商人は繋がりが深い。瀬戸内の流通を牛耳った海賊とよばれた水軍衆も浄土真宗が多い。どちらかというと底辺で強かに生きる人々(飢饉などでは一番最初に被害を被る人々)によって既述の「座」は成り立っていたのではないか。座衆である供御人・寄人・神人が、どのような由来であったかというと、決して上流ではないだろう。前時代の「負け組」、歴史を抹殺された人々を中核として、流れ者の寄せ集めの混成部隊なのではないか。それが我が国の基層をなす静かな大多数ではないか。南北朝時代、公家の南朝に神人や供御人が加勢し、河内の惣村の”悪党と呼ばれた”楠木正成が加勢した。

風俗の話からすっかり脱線してしまったけれど、ようするにしぶとく生きる人々のネットワークは南朝方につき、商工業や漁労や馬借が南朝に味方した。個人的には忍者や情報機関は既成の枠組みの外、つまりアンダーグラウンドにあり、それらをなりわいとする人々は寺社を本所として結束していたのではないだろうか。

信長と忍者の対立、信長秀吉と本願寺・安芸門徒との対立、織田信長の宗教対立の否定、織豊と雑賀衆との対立なんかが説明できるような気がする。武家は浄土真宗があまりいない。そりゃ対立してたから。安芸門徒の毛利、北陸の本願寺ぐらい。

宮島-3 町家通り
厳島神社参道の山側に、現在の参道と平行する町家通りがある。かつてはメインストリートであった。現在はひっそりし、裏通り的、または島民の生活の道。車両が昼でも通れる。軽トラは枝道を参道の際まで来て荷駄を積み下ろし、参道の中で転回して引き返す。 ...

コメント

  1. agehamodoki より:

    へぇっ、神聖な世界遺産「厳島神社」に遊郭ですか!?
    確かに治外法権的な場所であったでしょうが、
    よりによって風俗営業とは!
    人の営みは基本的にどこも変わらないということかな。
    残念であると同時にほっとする話でもあります。

  2. yopioid より:

    コメントありがとうございます。下卑た話ばかりで恐縮です。
    宮島参道の裏棚にはそのような町筋があり、今もうす暗い印象があります。
    江戸初期の統制厳しい時代に宮島に娼家、見世物小屋など芸能一切が現広島市から強制的に移転され、
    広島城下での芸能が禁止されました。傾奇モノは全て反体制として、排除されたようです。
    遊女を「傾城」と言ったりしますが、城が傾くほどの美人という意味合いからのようです。
    ケイセイともカブキ、とも読めます。歌舞伎町というのはそのあたりから。
    ケガレを嫌う宮島がなぜそういった芸能風俗を受け入れたのが不思議でなりません。
    宮島に関わる厳島神社の雑色役として、エタが江戸から派遣され、
    その意向によるものという説(弾左衛門説)があることはありますが。
    まあ微妙な話なのでこれくらいでやめておきます。