於保城の跡

2023/05/17 

知り合いの於保さんにご出身をたずねたらご夫婦ともに佐賀と、「城があったんです、石垣が少し残っています。今は没落してしまいましたが。」於保氏が皇別氏族の苗字と知って思い切ってたずねてみたらそう答えられました。

佐賀の嘉瀬川西岸(佐賀医大の川向うあたり)に於保という地があり、そこにを所領とした高木家が高木宗益の時代から「於保氏」を名乗ったのだそうです。つまり地名に由来する高木氏の係累なのであって、古代氏族の皇別氏族である多氏とつながるわけではないようです。

以下メモ書き。

於保氏の祖、肥前高木氏は九州では有力者、刀伊の入寇を撃退した藤原隆家の曾孫が高木氏を称し、そこから菊池氏、於保氏、龍造寺氏、上妻氏、赤司氏、肥前井上氏、草野氏が分出。

佐賀駅から路線バスにのり、於保氏の所領だった場所をたずねてみた。

佐賀駅に隣接して便利なバスセンターがある。行き先がとてもわかり易く表示してあるが於保城址は観光地ではない。バス案内所で「於保天満宮」と聞いても誰もご存知ない。バス案内所の親切な女性にバス停からかなり歩くことを調べてもらった。

9時佐賀バスセンター発、「中極経由、小城行」に乗る。昭和バス。

中極バス停に到着。

昭和バスのお尻。中極は「ちゅうごく」と読む。中極バス停から歩く。車内放送で「この路線は補助金で成り立っています、皆様のご利用をお願いします」と。

「中極」の地名の由来は、当時の旅人が「この付近の景色が中国地方(山口県や広島県などの中国路)によく似ている。」との話が定着したものと書かれています。「中国」が「中極」になった経緯は解りませんでしたが、地元の長老たちの話によりますと、川上村の中心が中極一帯であるとの考えから「極」(座標の原点の意味)に変ったと言われています。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000287925

一面の麦畑。そして麦乾燥工場であるJA佐賀大和カントリーエレベーター。

佐賀は豊かな平野に支えられている。佐賀平野に広がるクリークと田園風景、モンシロチョウが春の暖かい風に無数に浮遊している。佐賀の農産物はすごい。二条大麦が全国第1位、れんこん、たまねぎ、アスパラガスが2位、小麦が3位。佐賀はマイナーじゃないヨ、私が思っていたよりも、ですが・・。

於保城に近づいてきた。農家のおじさんに聞いてようやく辿り着く。於保さんはもうこの辺りには居なくて「別の部落におられる」と伺った。

於保城跡(於保天満宮)の西南に立ち並ぶ”於保因幡守胤景”以下の墓石。菩提寺であった長禅寺は後年に失火焼失し再建されることなく廃寺となったようです。塔身部分、胴体部分が丸いので宝篋印塔ではなく五輪塔のようです。

於保天満宮、であるとともに於保城跡。

神社周りの石垣の草取りをされていた老夫婦に伺うと、宮司さんは遠いところの神社が兼務されているとのことでした。その老夫婦に「失礼ですが於保さんですか?」とたずねてみたら違います、と。同様に、このあたりにはもう居なくて離れた部落に居られるとおっしゃった。

於保氏はいつ、なぜ滅亡したのか。

元亀元年、1570年、豊後の大友宗麟と、肥前の新興勢力龍造寺隆信の間で争いがおきました。大友は肥前に攻め込み、加勢あわせて6万に達し、龍造寺側は3000。龍造寺隆信は佐嘉城で籠城を選びました。大友宗麟の弟の大友親貞が佐嘉城北西の嘉瀬川を挟んで今山に布陣し、6万の兵が佐嘉城を包囲します。

大友親貞が占いの「待て」に従って攻める気配がないため大友宗麟がしびれを切らし肥前に赴き、ようやく親貞は攻め込むことを決断。大友軍は攻める前になぞの酒宴を開き、翌日二日酔いのところに龍造寺隆信の義弟である鍋島直茂が手勢500で本陣を奇襲攻撃し大将大友親貞を討ち取ります。大殊勲ですな。この今山の陣で大友軍は負けたものの、宗麟が出張ってきて、半年粘って結局和議に。


於保氏

・南北朝時代は北朝方少弐氏に従い筑後川の合戦に参加、懐良親王を奉じる菊池武光ら南朝方と戦ったが、その後南朝方に転向。

・戦国時代に一族の多くが戦死したが、於保宗益の時代に龍造寺氏に取り立てられて於保氏は再興し、於保天満宮が再建される。於保宗益の父於保胤宗の室が龍造寺家兼の子女であったことが関係。

・於保宗益の二男於保宗暢は「今山の陣」において、なんと大友軍に味方してその先手に加わった。そのため龍造寺側の勝利に終わったあと、於保宗益-宗暢系の於保氏は滅亡。なぜだろう。

宗益の二男宗暘は八戸を領し八戸下野守と称した。少弐氏・神代氏と結んでしばしば龍造寺氏を苦しめていたが(伏線があるのだな)、元亀元年(1570)今山の陣で大友八郎親貞の先手に加わり今山にいたが、深傷を負い山内にのがれ内野で死んだ。宗暘の妻は隆信の妹でその幼児に飛車松と称する者がいた。隆信はこれを殺そうとしたが、飛車松の祖母であり隆信の母である慶誾尼はふびんに思って命乞いをしたため一命が助かり、後に叔父に当たる八戸九郎次郎光宗の養子になった。後の龍造寺彦兵衛入道宗春である。

https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=2110

龍造寺氏も高木氏の系統で於保氏の同系統だが、於保氏はもともと少弐氏の配下であった・・少弐氏とのつながりの方を重んじたのだろう。武藤氏(のちの少弐氏)、大友氏、島津氏とともに九州御三家で昔鎮西役をやっていた。龍造寺氏が少弐氏を乗っ取った格好で龍造寺氏が伸長していた時期でもあり、大友が攻めてきたのにも理由があり、於保氏がそちらに加勢したのもわかる。

・同じ於保氏で、宗益のおじにあたる於保鎮宗の系は命脈を保った。於保鎮宗の子於保資宗、その子於保弼親、その子が三人いる。於保弼親の次男於保賢守は常に龍造寺氏鍋島氏に従い、奇襲攻撃に参加し、須古の戦で活躍、しかし負傷し元和7年(1621)死去。於保賢守の子孫は江戸になっても長く鍋島家に仕えた

・弼親の長子乗忠は小城晴気の山伏に弟子入りを経て島原の合戦で戦死。

それにしても於保氏、戦死が多い。立派に戦う血筋なのだろう。今山陣では命脈が途絶えないように敵味方に分かれて戦ったようにも思えるが考えすぎか。狭間にある弱小勢力は両勢力とパイプを持っているのが生き残るための知恵であるが、いざ戦となると本当に分かれて相戦わねばならなくなる。

千手観音だろうか、なにか生き物を踏んづけてる。右手に錫杖、左手に月輪。ほかはよくわかんない。

風で折れたのか、寿命なのか。於保氏の命脈が途絶えたようにみえて実は途絶えていなかったことに重ねて見たり。

観光地になりそうでなってない感じが良かったです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

コメント

  1. nakagawa より:

    公共交通機関だけで行かれたとはすごいです。
    今山合戦は九州の戦国史好きにはアツい戦いで、於保氏視点で考えたことがなかったので夢中で読ませていただきました。
    知り合いに於保さんいますが、こんな歴史があったとは。

    一面六臂の像は青面金剛っぽい気がしました。
    猿田彦碑と並んでいたとしたら、ですが。

  2. yopioid より:

    nakagawaさんこんにちは。バスは意外に便利ですし乗客もゆるい感じです。
    視点を変えると違った景色になりますね。
    少弐氏と龍造寺氏のちょうど間に於保城はあり、於保さんはちょっと可愛そうなぐらい運が悪い気がします。
    猿田彦碑と並んでいましたよ!青面金剛。見てわかるんですね。すごい!
    庚申待という落語を聞いたことがありましたがそれっきりでした。
    今知ったのですが庚申信仰は道教に由来するんですね。
    仏教では「青面金剛」、神道では「猿田彦大神」が庚申塔に刻まれる・・・フムフム。

    ご教示賜り誠にありがとうございます。これからも色々教えてください。