関東には「関西みたいな部落はない」と関東出身の人がいう。昔はあったが今はない、という意味だろうか。古代には半島人が集住させられた部落が武蔵野には点在したし、穢多ガシラの弾左衛門だって居た。それだけでもなかったとは言えまい。
部落とスラムとは違うが、そうなりやすい捨て置かれた地域が何処にもあり傾向は似る。川っぺりであるとか谷であるとか水害を受けやすい場所は好き好んで人は住まずスラムになりやすい。また、政治的に優先されるべき領域が保護され外郭部はスラム化しやすい。江戸時代の朱引の外郭(後述)であるとか。そういった地区は都市において低賃金労働者を受け入れる場所に傾きがちであるし、公営住宅を整備をしなければスラム化する。あるいはスラム住人を受け入れるために建てられる。
ふるさとは貧民窟なりき(小板橋二郎)を電子書籍で入手。私が板橋区大山の職場で働いていたとき、すぐ近くに板橋宿という中仙道の宿場があった。中仙道が石神井川を渡る場所「板橋」、その北側に遊郭があり宿場は二分されていた。江戸朱引の外である「岩の坂」では戦後にスラムを形成した。板橋区大山にあった養育院は、明治の当時、福祉などという概念がなく行き倒れの人が東京のまちに溢れていたころ、収容施設として渋沢栄一が創設に関わったもので、板橋区大山の競馬場跡地に移転してきた。
福祉という概念は最近のもので、明治大正のころは「自助」出来ないものは放って置かれるのが当然の時代、「なぜ税金を使ってまで社会的弱者を助けるのか」という反対意見が罷り通った。それを押し切って渋沢栄一らが創設した。ロシアの外交官や軍属が来る前に街の様子を整える必要があったからで国益を考えてのこと。養育院はその後の養育院病院、東京都老人医療センター、今の健康長寿医療センターに連なる。
本書は板橋の岩の坂出身者による回顧が中心で登場人物はあだ名になっていて面白おかしい物語風。したがってよそ者の物好きや左翼風情が思想を我田引水に散りばめるやり方ではなく、血が通った経験談に近い。そこで生まれ育った人の手になる思い出話。物珍しさや偏見や蔑視だらけの偏向した余所者が書くルポルタージュでは、岩の坂は「撲滅すべき鬼ヶ島」として扱われる。ところが、著者は愛郷心も入り混じり、貧しくも楽天的に生きる人を活写しており読後に明るい印象を残す。社会派が書く奇妙な偏見を著者自身が痛罵している所が気持ち良い。雰囲気としては「たけしくんハイ」のちょっと濃い目な感じ。ドラマみたいに軽く読めるが内容は重たい。そして返す返す過剰な政治的メッセージはない。板橋勤務中に私がみた身近な風景をダブらせて興味深く思うところもあり、噂には聞いていたがやっぱりそういう地域が存在したと本書で知る。ただ川の向こうを異世界としてではなくむしろ本書を通じて身近に感じた。
黒澤明監督がスラムの人情を描いた「どん底」は、良いとはおもうけれど部外者による作り物と感じる。それに比べて「ふるさとは貧民窟なりき」は作り物感がない。やはり生まれ育ったなかの人の血で書いた言葉であるから当然といえば当然か。板橋大山で働いた頃に関わった愛すべき人情溢れる住民たちを思い出しながら読んだ。
都市におけるスラムの存在理由として、または、資本主義社会/都市が成立する要因として安い賃金の労働力を常に必要とし、その供給源がスラムであることも再認識しました。以下は、本文に出てきたわからない言葉を調べた自分用のメモです。いつもおいでくださりありがとうございます。
(以下メモ)
朱引・・・しゅびき、江戸幕府が定めた江戸の範囲。地図上に朱色の線を使って示した。内側に墨引、もある。
https://www.viva-edo.com/edo_hanni.html ビバ!江戸さんのHP
江戸街巡りのHP↓
板橋が江戸の範囲(朱引)の境界であったことがわかる。朱引の外に刑場や遊郭や火葬場など忌避されるものが集中している場合もあるが様々、小塚原刑場は墨引の外で朱引きの中、鈴ヶ森刑場は朱引きの外、など。
万年町・・・下谷万年町(したやまんねんちょう)の貧民窟。上野駅近く。
新網・・・浜新網町(浜松町駅の西南)の貧民窟 築地の海軍兵学校の残飯を利用とあり。
鮫ケ橋・・・四谷鮫河橋(さめがはし) 黒澤明の映画「どん底」の舞台。明治期は陸軍士官学校の放出した残飯を利用した。
万年町(上野)、新網(浜松町)、鮫河橋(四谷)の三箇所は江戸時代から続くスラム。
「東京では江戸時代に浅草の雨溜り、品川だまり、本所柳原などがあったし、明治に入ってからは芝新網町、四谷鮫ケ橋、下谷万年町などが有名であった。昭和の初期には白山御殿、板橋岩の坂、三河島千軒長屋などがあった」・・・都会人歪んだ精神構造を探る(岩井弘融著)
スラムは都市の発展とともに移動する。スラムの周囲が経済発展するとスラム住民は家賃が払えず次のスラムに移動する。
「街道の宿場町」が明治に一旦衰退するものの、東京都市圏拡大に伴った道路敷設人足の寄せ場として息を吹き返した。以下の地域が新しい”スラム”。
「輪郭の大きい貧民窟は何処かと言えば、三河島、日暮里、南千住、西新井、吾嬬、板橋などに貧しい者が集まってゐる」・・・ 吾嬬は荒川沿い。「どん底の人達」(草間八十雄著)からの引用。
縁切り榎・・・「江戸時代から板橋宿の名所として名高い縁切榎。もともと大六天神の神木でした。皇女和宮が降嫁の際、縁起が悪いと、この場所を迂回したという逸話が残っていますが、庶民の間では、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるというので礼拝の対象となっていました。場所:板橋区本町18 交通:都営三田線板橋本町駅から徒歩5分」(板橋区公式HPより引用)
「かの国ではポシンタン(補身湯)といって犬肉の鍋が真夏の精力源として一部の壮漢たちにいまだ好まれていることを知った。」・・・赤犬を使うらしい。闇市あがりの東上野や新大久保でも供する店があるとのこと。
ヨナゲ・・・よなげは堀割、下水、流し場、便所等を廻つて金銭、物品、金物類、皮類、硝子、ゴム類等をヨナゲ出して拾ふもののことである。(隠語大辞典)淘げる(よなげる)
バタヤ・・・ごみ箱や道路上で紙くず・ぼろ・金物などの廃品を回収して生活する人。
ホリヤ・・・不明
窶れた・・・やつれた
「らくだの馬さん」・・・落語、らくだのこと。
半畳を入れる・・・芝居小屋などで、役者に不満や反感を持ったりする時に、敷いている半畳を舞台に投げる。 また転じて、他人の言動に非難、冷評、野次、茶化しなどの声をかける。
「これはもう、当時の私がラジオの講談や浪花節で慣れ親しんでいた『瞼の母』の場面の忠太郎の世界である。」・・・瞼の母(青空文庫)
「千兵衛万兵衛ある中で、ただの一兵衛とは情けねえ、なあ半兵衛」・・・調べたがわからず。歌舞伎のセリフらしい。
久闊のあいさつをして・・・久闊(きゅうかつ)を叙・する。無沙汰をわびるあいさつをする。久し振りに友情を温める。「互いに―・する」
追悲荒年歌・・・折口信夫(釋 迢空)の詩 http://bungeikan.jp/domestic/detail/385/
ニコヨン仕事・・・1949年6月、東京都の失業対策事業として職業安定所が支払う日雇い労働者への定額日給を240円と定めた。そしてこの百円2枚と十円4枚という日当から日雇い労働者のことをニコヨンと呼んだ。ただし、日当の額の変化とともに意味を成さなくなり、この呼び方は使われなくなる。
おキャンな性格・・・=御侠(漢字があった!) 勇み肌な性格の女性 類似語 お転婆 フラッパー じゃじゃ馬( じゃじゃ馬ならし等に使われるお転婆の類似語) 跳ねっ返り アプレ娘
「西武百貨店もその前身の武蔵野デパートも、更にその前身のPXの売店もあったかどうか。」・・・
豊島区成立時の二大繁華街だった大塚と池袋。区内で最初の百貨店は「大塚駅」北口の「白木屋大塚分店」だが、百貨店文化が根付くには至らなかった。一方、池袋には1935(昭和10)年「京浜デパート」が駅の東口に進出、「菊屋デパート」の名称で開店した。1940(昭和15)年に「武蔵野鉄道」が買収して「武蔵野デパート」と改名し、これが現在の「西武百貨店」へと発展する。
三井トラスト不動産より引用 https://smtrc.jp/town-archives/city/ikebukuro/p04.html?id=a04
PX・・・(Post Exchange の略) アメリカ軍隊内の売店。酒保。百貨店が接収されてPXになった時期があった。
四斗樽のなかの雑炊は・・・四斗樽は野球の祝勝会で鏡割りするあのサイズ、神社に積んである酒樽サイズ。
板橋十丁目界隈はガラの悪さでは・・・
膂力も頭の良さも兄弟の中で群をぬいて・・・りょりょく、腕の力、転じて人力作業のことも指す。膂という字は、背骨の意味。
風狂とでもいうべき無頼ぶりは、・・・
風狂(ふうきょう)は、中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語である。禅宗とともに日本にも伝わり、一休宗純がその代表者である。本来、風狂という用語は仏教語ではない。「風」字も「狂」字と同様に風疾あるいは瘋疾の意味である。瘋癲や癲狂と同義語である。雅やかで世俗を超越したさまを表す「風流」とは本来、用法が異なっている。但し、日本では、江戸時代になって、松尾芭蕉の俳風に用いられたりして、風流と同義語の如く扱われるようになった。
wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%8B%82
すっちゃかめっちゃか・・・=しっちゃかめっちゃか(近畿発祥のことば)
野合・・・正式の手続きを取らずにめおとになること。この文脈では本当に野合している。共通するものもないばらばらの集団が、まとまりなく集まること。「選挙のための野合」というが、もともとはアオカンか!
むすびが秀逸。余所者の偏見や運動を痛罵。スラムという括りの恣意性おしつけは間違っている、B解放運動と似た構造を指摘。スラムではなく弱ったときに受け入れてくれるふるさと。
民族差別、被差別部落への差別、同性愛者への差別、身体障害者や貧しい人々への差別、ほかにも差別はいろいろあるが、故ない差別というものは例外なしに、目標の差別集団を便宜的かつ短絡的に安易な括弧でくくってしまうところから発生する。スラムの住民に対する差別や偏見の場合は、「スラムの人間は永遠にスラムの住人だ」というのが、この手の人たちの括弧でくくったスラム観のようだ。しかし、その見方はむろんまちがっている。スラムの住人のほとんどはその一生をスラムのなかですごすことはない。まずスラムには、ほとんど働き盛りの者たちはやってこない。どんなに貧しくても五体満足で力さえあれば男たちは収入を得てスラムの外に住む。女も同様だ。たとえ身を売っても働き盛りにはスラムには住まない。仮にもし追い詰められてそこにやってきたとしても、彼らはすぐに脱出する。しかし、年をとり体力も気力も失いかけたときに、たまたま浮世のなりわいに失敗した者たちはスラムにやってきて吹き溜まる。彼らに子供があったり、スラムにきてから子を授かったりすれば、その子たちはスラムで育つが、スラム育ちの子は成人するころになればかならずスラムの外に自力で脱出する。いってみれば、スラムは病院のようなものだ。
本文 むすびより引用。
<参考>
1950 年代後半の東京における「不法占拠」地区の社会・空間的特性とその後の変容
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