名胡桃 なぐるみ

戦国時代の最終局面、真田氏と北条氏が利根川を挟んでにらみ合った場所の真田側の城、名胡桃城址です。利根川の上流から見た右側に真田氏・名胡桃城、左側に北条氏・明徳寺城があります。天下統一の機運の下、秀吉の裁定により、利根川以東を北条氏に与え、北条氏に有利な国境線を引き、名胡桃城だけを真田氏に残しました。下の地図で黄色の部分が真田氏から北条氏に移された領域です。

ところが、豊臣秀吉の裁定に北条氏は満足しなかったのか、それとも”陰謀”に乗せられたのか、わずか3ヶ月後にこの名胡桃城を攻め、乗っ取ります。

ココをどう評価するかが難しいところです。

北条氏が真田領を攻めたことを口実に、豊臣秀吉が小田原城を大群で攻め、挙げ句に北条氏が滅ぼされ、その結果全国統一に繋がります。

こんな書き方ではまるで北条氏がアホみたいではないですか。歴史は勝者の記述であり、敗者はいつも悪く書かれます。北条氏の強硬派が攻めることを予想して、真田領の名胡桃城を”エサ”としてホレホレと見せ、北条氏がまんまと引っかかって、滅亡のきっかけを自ら招いた、というのは後世の歪曲された歴史観と言う感じがしないでもないです、が一応通説です。北条氏側の見方を知りたいです。

さて、名胡桃城を北条氏がどのように攻略したか。名胡桃城の発掘の結果は、お椀などのかけらが出るばかりで争った跡はないようだとのことでおとなしく明け渡したようです。伝承によると、責任者が名胡桃城から謀略によっておびき出され、留守中に乗っ取ったようです。つまり激しい戦闘なく、名胡桃城は北条氏の手に渡りました。実際に戦闘の痕跡は発掘されていません。北条氏は名胡桃城を攻略する際に、明徳寺城から攻め上がるのではなく、背後の山の上、権現山城から攻めてきました。下の写真が権現山城のある山。

名胡桃城、利根川からは段丘の崖上がりで難攻、ところが、背後を衝かれると弱いのでした。権現山から健脚であれば30分で到達する距離。上から攻めたほうが有利なのは戦の常です。権現山から名胡桃城まではなだらかな傾斜地、転がるように攻めてきたのかもしれません。

名胡桃城と明徳寺城との間は河岸段丘で50mの高さの崖があり、下からは攻めにくい地形です。赤谷川と利根川の合流部で、河原は堆積物により広い川幅と浅い水深を形成し、利根川における数少ない渡河点(歩いて渡れるところ)となっています。これは同時に防御の必要な場所となります。しかし利根川を渡ったあと、崖が簡単に登れない。そこで北条氏は背後から攻めたのでした。

名胡桃城(真田)vs 明徳寺城(北条)

自然地形を利用した山城ですが河岸段丘と側面の小河川で削られた島状台地ですが、三方がそうなっているだけ。険しい形をしているのは利根川側だけと言って良いと思われます。下図では上側が利根川側になります。

先にも言いましたがあまり争った跡が残っておらず、謀略によって乗っ取られたとのことです。名胡桃城の鈴木氏は責任をとり自害しています。

もし、名胡桃城を北条氏が攻めていなかったら。小田原城攻めはなく、北条氏はそのまま残り、場合によっては小田原幕府ができていたかもしれません。北条氏は本当に名胡桃城を攻める気で攻めたのか、あるいは秀吉の策略で名胡桃城を北条氏が攻めるように誘導したのか、北条氏を滅ぼすための口実づくりとなったことは間違いなく、これが名胡桃城が天下統一のきっかけとなった城と呼ばれる所以です。

真田氏・名胡桃城は城址として良く整備されていますが、利根川対岸、北条氏・明徳寺城址は整備されていないのにはワケがあります。明徳寺というお寺自体が近年投資に失敗し、その土地がいろいろなお人(お察しください)たちの手に渡り現在に至り・・・。整備すれば立派な観光地になるはず。そうすれば明徳寺城址に北条ミツウロコの旗が翻り、名胡桃城址に六文銭旗が翻り、目視で互いを確認できればどれだけ楽しいことだろう、ガイドさんはそうおっしゃいます。

この小さな”山城”の西側には、もともとの領主沼田氏の館(住まい)がそばにありました。真田昌幸がその名胡桃館を攻略し名胡桃城を築きました。ここは城と名づいていますが、実は”砦”であり、城郭都市の体裁はなく、10年程度機能したあと廃城となります、規模は小さく、城というより北条の動向を探る見張り台であり、今で言うレーダーサイトのような場所でした。つまり眼下に広がる利根川を挟んで対岸の北条領明徳寺城を観察する場所でした。常駐兵力も20-40人程度。あえて手薄な前線基地を作ったというより、そもそも、見張り台です。

敵にとって美味しそうなりんごがぶら下がっているようなものです。北条氏から見ればもとは北条氏の土地、しかも食い込むように真田領が残され、そこに見張り台。。北条氏はこの物見台が鬱陶しかったと思います。そんな攻めやすいところだけを残した、、、秀吉の陰謀という気がしないでもないです。

真田氏名胡桃城から利根川を見下ろす。山の左端に北条氏明徳寺城

物見台の手前の笹ぐるわは成長の早い笹で覆われ、カモフラージュしたことからそう呼ばれます。笹ぐるわの中は下図のように石垣で隘路を形成し、敵が攻めてきたときに直線状の通路で敵兵を滞りやすくさせ、撃退しやすく作られています。ココだと思って上がってきた敵兵を分散させない。まるで十字砲火を浴びせる感じ。ゴキブリホイホイみたいな形です。

利根川方面から責められると強いが、山から責められると弱点だらけの砦。

この名胡桃城、地名”名胡桃”に由来します。この地を古くは呉桃(ゴトウ)とも書き、お話を伺ったかたは地元の「呉桃小学校」に通っていたと言われます。地名として今も生きているその呉桃、和名類聚抄にすでに見えます。呉の国から伝えられたことからクレミ。『延喜式』にもクルミを指す「呉桃」が見られる。クレモモ→クレミ→クルミ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544219?tocOpened=1 国立国会図書館デジタルコレクション「和名類聚抄」

和名類聚抄の20巻本地名の当地利根郡のところに呉桃(奈久留美 なぐるみ)とあります。

「そんな昔から!とても歴史がある地域なんですね」と、戦国真田の話から古代の話に飛んでもこのおじさんの博識はすごい。

平城京のころ、和銅6(713)年、律令政府はやまとことばの地名を二文字に改めるよう指示、諸国郡郷名著好字令といいます。そのときにナグルミという音に対し「呉桃」の2文字をあてました。やまとことばに無理やり漢字二文字を充てる名称の改正です。日本各地の二文字の難読漢字の殆どがこのときに由来します。上毛野(カミツケヌノクニ)は上野に書き換えられる。読みはカミツケヌノクニのまま。別の例、木の国は1文字なので2文字に増やし、紀伊国になった。泉は和泉に変更。

ナグルミの接頭語「ナ」はなんだろう。地名化する接頭語だろうか。。勿来の関とか名古屋とか???

それから、この上毛地域は古くはエミシを追放したあとに入植した渡来人が多い地域と聞きました。上毛地域の下仁田は甘楽郡でかんらのこおりと古くよばれ、古くは韓良とも書かれました。朝鮮半島南部に存在した伽倻の国から渡ってきた人と言う説もあるようです。付近に村主(すぐろと読む、スグリのほうが知られているかも)と言う地名があり、これも「族長」を意味する朝鮮語由来だとガイドさんはおっしゃってました。

豊玉姫の子孫の神社や、諏訪のミシャグジ信仰の神社もこの群馬あたりに分布していることや、鉄加工技術や織物や養蚕が早くから発達していることから、古代の先進技術や祭祀文化を持った日本国内の他地域からも移住者があったと考えるほうが、全て朝鮮半島由来と教える通説よりは自然な気がします。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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