警固断層の東側が北上しつつ太宰府や天拝山辺りの狭隘部でうっ滞して隆起した

警固断層の東側が北上しつつ太宰府や天拝山辺りの狭隘部でうっ滞して隆起した、私の仮説です。

冒頭、nakagawaさんの記事(nakagawaさんの記事はすごく面白い!!!)を引用し、私見を述べます。

かつて、海面水位が高かった頃、九州は東西に分かれていて、福岡から有明海まで舟が通ることができたそうです。

かつて海面が高かった時代に玄界灘と有明海は繋がっており、九州島は今の佐賀長崎とその他分かれていて、天原島・宇佐島と呼んでいたのだそうだ。

https://wordpress.com/read/feeds/89171406/posts/3947193714 より引用
産総研海面上昇シミュレーション(https://gbank.gsj.jp/sealevel/) による
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筑紫、二日市のあたりは交易船が行き交うところで、貿易に関する西方の人々をチク人と呼んだことにに由来するのがチクシの語源らしい。

筑紫つくしを地元では〝ちくし〟と云う。竺人(ちくにん)の訛りと説かれている。竺とは徳人(とくひと)、或は篤人(あつひと)、即ち西域の胡人、ならびにその文化伝統の総称であった。中世では天竺(てんぢく)は釈経の発祥の地であり、伝来の地であった。今のSilkroadシルクロードがこれであった。〝ちく〟とは韃靼(だったん)、 斯丹(したん)のことであった。

(『儺の國の星拾遺』p.71)

なぜ、大宰府や都府楼があの場所にあるのか不思議だったのですが、交易路の重要港(中継地)であったと考えると納得がいきます。古代の国府ってだいたい海と陸の接続点が多いから。広島の府中とか。

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雄略帝の時代に針摺(筑紫野市)付近が埋まったのだという。

そのため船による竺人の往来もなくなり、竺人ちくにんを意味するちくは消えたのだそうだ。

それでも「ちくし」の呼称は残り、現在に至っているというのは面白い。

https://wordpress.com/read/feeds/89171406/posts/4142721594 より引用
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水路が埋まっちゃった。困った。水路使えねえ!近代まで開削の努力がなされていたようですが、自然には勝てない。なぜ埋まったのか。

縄文海進の巻き戻しで干上がったわけです。nakagawaさんの運河の伝承のなぞときの推測記事がとても面白いです。有明海に舟を通すには分水界より高い位置に水源が必要で難しいのではないかと言及されています。

確かなのは天智天皇が水城を改造したことだけかもしれない(追記有り) —


ここからは私見です。地面が隆起したのではないか。と考えました。

福岡の博多湾志賀島から春日市、二日市を通る直線状に、海の地震帯とそれに続く警固断層が筑紫野市まで続いています。それを境として、東側では地質が博多湾に向かって北上します。これが天拝山~太宰府の辺りで渋滞したのではないか。

福岡市中心部における警固断層の位置。千田昇 大分大学教育福祉科学部地理学教室 より引用。

警固断層の東側の地質が南から北へせり上がります。

国土地理院 活断層データベースより引用。
https://fukuumedia.com/fukuoka-river/ より引用

なぜ平たいはずの沖積平野であるここ(黄色いところ)に分水嶺があるのか不思議です。私見を述べます。

警固断層の東側の地質が南から北へせり上がる際に太宰府や水城、天拝山のあるあたりの狭隘部では断層の上への動きがつかえます。うっ滞した結果として断層の東側(黄色着色部)が隆起して御笠川と宝満川の分水嶺を形成したと考えました。(上図青が警固断層、警固断層東側が上向きの動き、赤矢印の方向。狭隘部に標高の高い地域あり(黄色部))

玄界灘と有明海を結んでいた水路の福岡部分は警固断層帯の上に乗っていて、断層のズレのたびに地形は変わっていったものと考えられ、赤い矢印方向へ断層の東側の土が動くときに狭い場所で隆起した結果、つながっていた御笠川と宝満川の運河が使えなくなった、と考えました。

警固断層の東側の二日市や針摺の標高が過去もう少し低かったと考えます。普通隆起しない沖積平野が隆起して分水界をつくった原因として、断層活動と東側の北上を原因と考えます。どうですかね??

私が住んでいた春日市の31号線の西は崖上がりが続き、小学生のころ帰り道にわざと遠回りして、崖を登ったり降りたり、道草していたのでよく覚えています。

いつもお読みいただきありがとうございます。

コメント

  1. nakagawa より:

    東側の北上!
    なるほど~です。
    御笠川水系を地形図で辿っていた時太宰府市の高雄山へ続く低地があって、ここって川だったのでは?と思ったことがあります。
    でも急に高くなっていたので違うかもと思ったのですが、断層東側の北上に伴う変化だとすればガッテンガッテンです。(←手のひらにこぶしを打ち付けつつ。)

    県道31号線(通称5号線)ぞいの西側は断層崖だったのですね。
    道路が混んでるとき抜け道があるのではないかと曲がったら、どこへ行っても崖で詰んだことがあります。
    春日市はゆるやかな丘陵地帯という認識だったので、高低差をそれほど気にしてませんでしたが、断層なら通り抜けられるはずないですね。
    過去の私に教えてあげたい。

    そして拙ブログに触れていただきありがとうございます。
    変なことばかり書いているので恥ずかしいのですけれど、面白いと言っていただいて嬉しいです。

  2. yopioid より:

    nakagawaさん、勝手に引用してすみません。ご理解いただきありがとうございます。

    警固断層のことを知って、その上にnakagawaさん指摘の例の分水嶺があるなあと気づき、
    もしや隆起ではと思って地形図を眺めていたら、周辺の山々が断層帯を塞ぐようにみえたのでした。
    地質的な検証学術資料があるかどうかも確かめず「仮説」としてupしました。

    県道31号線を西に行くと道が細くなり途切れるんですよね、階段になったり生活道路だけになったり。40年以上前の話です。
    地震の多いところ(構造線上)によく神社があり、31県道沿い(警固断層沿い)にある春日神社はそういう目的のような気がしてきました。
    御祭神、タケミカヅチ、地震の神様であります。おおお。。。
    なぜ奈良の春日大社なのだろうと思っていましたが、本来は地震を鎮める神社という気がしてきました。

  3. agehamodoki より:

    yopioid の少年時代は九州でしたか?
    私は前職時代出張でよく福岡へ出かけただけですが
    「筑紫」や「警固」など耳にした地名です。
    なかなか説得力のある仮説ですね。

  4. yopioid より:

    いつもコメントありがとうございます。警固断層帯の上にある春日東小学校で少年時代を過ごしました。やや高台にある校舎から見下ろす感じでグランドがあり、お隣の春日東中学校はもう少し上の標高にあって、立体的な地勢の上にあったことを覚えています。福岡の警固の語源はモンゴル来襲に備えて設置された異国警固番役に因むそうです。