台湾博物館・牛の銅像、東京・騎馬の銅像

台湾博物館、二二八和平公園側から。日本統治時代の1908年に設置された台湾で最も歴史のある博物館です。1月ですが緑濃く、南国の植物が繁っています。気温は20度弱と快適です。

国立台湾博物館

沿革

1908年 南北鉄道の開通を記念した台湾総督府博物館が最初。

1913年 児玉総督および後藤民政長官記念博物館の名称で新館建設。

1949年 台湾省教育庁の所属となり台湾省立博物館。

1999年 中央政府所属となり国立台湾博物館に。

その博物館の入口に可愛い牛さん。

牛と博物館。どうつながるのでしょうか?

調べたら、この牛、かつて日本統治時代に台湾神宮にあった銅製の牛で当地に移転したものだそうです。台湾神宮のあった場所円山には蒋介石夫人が戦後に建てた円山大飯店という中華風の立派なホテルが建っています。台湾の人々、博物館も牛さんも保存してくれてありがとうございます。

在りし日の台湾神社。台湾銀行のお札にもかつて台湾神社の図案が使用されました。

台湾神社の御祭神 天照大神(1944年(昭和19年)に増祀)開拓三神 大国魂命 大己貴命 少彦名命、そして北白川宮能久親王

ウィキペディア 北白川宮能久親王より引用
ウィキペディア 北白川宮能久親王より引用 北の丸公園

北白川宮様は日清戦争で日本に割譲された台湾の平定作戦に指揮官として出陣しマラリアに罹患しお亡くなりになり、台湾神宮に祀られました。皇居近く北の丸公園に馬に跨った銅像があります。北白川宮様は、明治に先立つ幕末、徳川幕府の菩提上野寛永寺の貫主で輪王寺宮と呼ばれ、戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の盟主となった人物でもありますが明治政府に帰順しています。靖国神社に合祀されています。

北白川宮能久親王銅像 · 〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園1
★★★★☆ · 彫刻

騎馬像といえば上野恩賜公園の小松宮彰仁親王像を思い出しました。北白川宮のお兄さんが小松宮です。兄さんと弟とで袂を分かつて幕末に戦ったのでした。

小松宮彰仁親王
上野恩賜公園の小松宮彰仁親王像 

小松宮彰仁親王は北白川宮能久親王の実兄です。先ほどの弟の北白川宮様が奥羽越列藩同盟の盟主、兄である小松宮様が逆に奥羽征討総督として、兄弟で敵として戦ったのでした。小松宮様は維新後は佐賀の乱、西南戦争で指揮、のちに陸軍大将、元帥となりました。小松宮親王はヨーロッパの君主国にならって皇族が率先して軍務につくことを奨励し自らも率先垂範した方です。

銅像の配置に違和感を覚えました。上野寛永寺にゆかりのある弟の北白川宮様が北の丸公園で、幕軍を討伐するため官軍を率いた兄の小松宮様が上野公園、逆のような気もしますが何らかの配慮があるのでしょう。

小松宮彰仁親王銅像 · 〒110-0007 東京都台東区上野公園8−83
★★★★☆ · 彫刻

お次、都内の三体目の騎馬像は有栖川宮熾仁親王像。

有栖川宮熾仁親王 ウィキペディアより引用
有栖川宮熾仁親王像 ウィキペディアより引用 有栖川宮記念公園

有栖川宮熾仁親王は官軍の司令官として指揮を取り、戊辰戦争を戦いました。熾烈をきわめるの「熾」をどういう意味合いで名前につけられたか詳細はわかりませんが騎馬像がよく似合う名前であろうと、火が盛んな様を示す漢字だから。熾仁(たるひと)と読みます、読みが難しいです。

有栖川宮熾仁親王は、幕末においては三条実美とともに長州派でかつ攘夷派で、松平容保や中川宮朝彦親王らの一会桑政権首脳部と対立していました。権力闘争に敗れた有栖川宮熾仁親王は蟄居させられ、その間に長州征伐や薩長同盟の成立などの動きが生じたあと、明治天皇が践祚し、明治になって復権、戊辰戦争では旧幕府勢力鎮圧のための司令官(東征大総督)を志願しています。日本最初の軍歌と言われたトンヤレ節。戊辰戦争で官軍が気勢をあげたトンヤレ節の歌詞の「宮さん」は官軍が担いだ有栖川宮熾仁親王のことです。

有栖川宮記念公園は、幕末まで南部藩屋敷、明治に有栖川宮邸敷地でした。

有栖川宮熾仁親王騎馬像 · 〒106-0047 東京都港区南麻布5丁目7
★★★★☆ · 彫刻

上記三騎馬像は皇族であったため金属軍用供出をまぬかれたようです。万世橋駅にあった広瀬中佐の銅像をはじめ軍人さんの銅像も数々ありましたが残ったものも占領軍の指令で撤去されました。

以上、台湾の銅牛と東京都内の騎馬像について述べました。

いつもお読みいただきありがとうございます。

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