砂防会館会議室シェーンバッハ・サボーの語源を調べる

所属学会が砂防会館会議室で年四回行われる。治水の仕事ではないが砂防会館。砂防会館には、かつて自民党本部があった。中曽根康弘、田中角栄の事務所もあった。砂防会館の3Fでロッキード事件の現金の受け渡しが行われたとされる。

ドイツ東亜細亜協会(明治6年設立)がこの地にはあった。現在のOAG(オーアーゲー)が後身にあたる。オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会は現在赤坂にある。砂防会館の敷地でルドルフ・レーマンの石碑に気づいた。ドイツの造船技術者、機械工学技師、土木工学を専攻。明治2年蒸気船建造の指揮にあたった人。京都の角倉洋学所に明治3年ドイツ語教師として招かれた。いわゆるお雇い外国人だ。角倉洋学所は欧学舎独逸学校となり医学教育も行った。のちに京都府立医科大学に合併される。ルドルフ・レーマンは東京に移って、東京外国語学校や東京大学予備門で教壇にたった。

砂防会館会議室の名前が「シェーンバッハ・サボー」でドイツ語であることと、レーマンさんやドイツ人と繋がりそうだ。サボーは砂防だろう。シェーンバッハとは?schönが美しいや良いの意味で、バッハが小川という意味。もっぱら地名や人名で使われる。日本語の「吉川」あたりか。もしや吉川氏邸や小川氏邸があったか?暇つぶしに古地図を調べてみる。

国立国会図書館 江戸切絵図を参照。

カイサカ(貝坂)を手がかりに。貝坂が赤坂御門前通り(現在の首都高4号)と交差するあたり、砂防会館のあたりにキッカワがないだろうか。

石ケ谷鉄之丞、駒井相模守、坪内帯刀の名はみえるが、吉川も小川もいずれもなかった。\(^o^)/オワタ!

本日の収穫

ヨハン・セバスティアン・バッハはヨハンセバスチャン小川(転んでもただじゃ起きない)。

ついでに調べてみた。

駒井相模守は駒井信興・・・江戸末の旗本。神奈川奉行、外国奉行、江戸南町奉行を歴任。

石ケ谷鉄之丞・・・江戸末の旗本。父は石谷穆清。いずれも加賀藩。

坪内帯刀・・・加賀藩家老。加賀藩に洋学をすすめ、軍備を整え財政再建を行った。

お読みいただきありがとうございます。

コメント

  1. agehamodoki より:

    コンニチハ、猛残暑にうんざりの毎日ですね。
    砂防会館は確かに田中角栄の時代のニュース番組によく登場していたのを覚えています。語源が人の名前の「サボー」だとは笑えますね。ついでに角倉了以は確か京都の豪商でしたね。高瀬川を開削したり・・・。嵐山へ鳥見の出かけた時に銅像を見たので思い出しました。

  2. yopioid より:

    コメントありがとうございます。夏がなかなか終わらず、秋の出番が減ってしまいそうです。ヴィヴァルディの四季だと秋が少し長いみたいですが。
    角倉了以、関西にものすごく立派な人がいたとは知りませんでした。朱印船で財をなし、倉庫業も土木も手がけ、とても一人でやったとは思えない偉業です。伏見と京都を結ぶ運河だったんですね、高瀬川。勉強になります。ありがとうございます。