おしりがもずもずする。

明神さま(下関市立角島小学校HPより)

角島は、まわりに広い浅瀬や速い潮の流れがあり、昔から『海の難所』として知られていました。『角島の沖を通るときは、知って3里、知らなくて10里沖を通れ』という言葉ができるほど、昔の人は角島のまわりを恐れていたのです。
そこで、明治時代(今から120年ほど前・・・ぼくらのおじいちゃんのおじい
ちゃんが子どものころ)になると、すぐに外国の方法を使って、角島の夢崎に灯台が作られることになりました。


その工事は、イギリス人に作り方を教えてもらいながら、明治6年9月に始まりました。さて、灯台の光は遠くまでとどかなくては、その役割をはたしません。ところが、角島の灯台の建っているところは、海の上わずか13メートルしかありません。そこで、そのころには珍しく、30メートルといった高いとうをもった灯台が作られました。この高いとうを作るためには、たくさんの石を積み上げなくてはなりません。そのため、たくさんの石工さんや力仕事をする人たちが、角島の中から、また、外からも集められました。そのときに起きた不思議なことを、今からお話ししましょう。


角島灯台のすぐ近くにある夢崎明神さまは、海の安全と大漁をかなえてくださる神様として、角島の人たちに昔から大切にされてきました。また、明神さまのまわりにある石垣は、海にもぐる仕事の人たちが、漁を終えて海から上がるとき、安全をかなえてもらったお礼に、その度ごと1つ1つ海の中の石を拾ってきて、積み上げたものだと言われています。
灯台を作った人たちは、その明神さまのすぐ近くで働いておりました。人々の中には、男の人も女の人もいます。休み時間におしっこをするのに、ここには便所がありませんでした。男の人たちは、立ち小便ですませられたのですが、女の人たちは大変困ってしまいました。そこで、ある若い男が、
「明神さまの石垣の中ですりゃあええんじゃないか。」と、言いました。しかし、女の人たちは、
「神様の前で、そねえなことはできん。もしやったら、きっとばちが当たるじゃろうよ」
と言って、やろうとはしませんでした。男は、
「今の世の中に、ばち当たりなんてことはあるものか」
と、負けずに言い返しました。そこで、女の人たちは、
「それなら、まずおまえさんがやってごらんなさいな」
と、言いました。
「ふん、良かろう。それなら、おれがやってやらあ」
と、男は明神さまに向かって立ち小便をしました。おまけにおしりを出し、おならもし、これでもかとおしりを3回たたいて笑ったそうです。
さて、その夜のことです。男は、何だかおしりの辺りがもずもずとしてきました。あくる日、仕事に行くとみんなが寄ってきて、
「神様のばちが当たらなかったか」
と、聞きました。男は、
「少し、おしりの辺りがもずもずするな」
と、答えました。
2日、3日と過ぎるうちに、おしりはだんだんと痛くなり、1週間もすると歩くことができないほどになりました。その上、座ることもできず、とうとう仕事を続けることができなくなりました。仕事を休みだした男を心配して、石工頭が来て、そのわけをたずねました。男は、明神さまに失礼なことをしたので、ばちが当たったのだと答えました。石工頭は家に帰り、奥さんに相談しました。奥さんは、
「私があの男にかわって明神さまに毎朝お参りしましょう」
と、引き受けてくれました。奥さんは、毎朝、暗いうちから明神さまのところに行き、
「どうか、あの男のおしりの痛みを止めてください。もし、治していただけたら、お礼に明神さまの前に鳥居を作りましょう
と、一心にお祈りをしました。お祈りをはじめて3日目、男は仕事に出られるほどよくなりました。そこで、奥さんは、だんなの石工頭にたのんで、約束どおり明神さまに鳥居を作って差し上げ、ばち当たりな男といっしょにそれを建てました。それが、今ある明神さまの鳥居だそうです。同じころ、灯台も完成し、明治9年の3月から、毎晩暗い角島の海を明るく照らし続け、船の安全を守っています。

奈良時代、メノハ(ワカメ)とコットイ(牡牛)を税として納めていたそうです。

赤いマークが角島灯台、海側の近くに明神様があります。

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