NYK vs MOL 日本郵船と商船三井

1930年竣工 日本郵船 氷川丸

日本郵船は三菱の中核会社の一つ。以下調べたことのメモ。

台湾出兵を機に国有会社の日本国郵便蒸気船会社とのシェア争いで勝利した三菱商会系の「郵便汽船三菱会社」は、三井系国策会社の「共同運輸会社」とたび重なる値下げ競争を行ったことで、日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介により両社が合併し、日本郵船会社が設立された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%83%B5%E8%88%B9

日本郵船は便汽が発祥なので郵船日本郵船は商売敵の三菱と三井との合併によってできた。じゃ、今ある商船三井はどういう立ち位置なの?と調べ始めた次第。

度重なる値下げ競争、どうもキナ臭いゾ。

共同運輸会社(きょうどううんゆがいしゃ)は、三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資しあい、東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社の3社が合併して1882年7月に創立された船会社。日本郵船の前身

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E9%81%8B%E8%BC%B8%E4%BC%9A%E7%A4%BE

風帆船会社、聞き慣れないな。函館市史に面白い記事があった。

宮路助三郎は13年に設立された三井系の東京風帆船会社の発起人の1人であった。東京風帆船会社は三井物産会社社長の益田孝が第一国立銀行の渋沢栄一の協力のもとに作ったものである。三井はそれまで自社扱い商品の多くを三菱の船舶に託していたが、三菱の横暴に苦しめられている地方の富豪らを糾合して対抗勢力として興したものであった。(おおお、キナ臭いw)
風帆船会社の設立に先立つ13年に益田は来函し、株主募集を行った。この時函館でいちはやく応じたのが、宮路であった(13年10月5日付「東京経済雑誌」)。宮路は三菱会社の指定を受けて、大町において積荷問屋を経営していた。しかし三菱の常日頃のやり方に不満を覚えていたのか、益田の呼び掛けに応じ、7月25日を以て積荷問屋を休業し上京した。宮路の動きに対し三菱は積荷問屋の指定を解除する旨の新聞広告を掲載した。(三菱への憎悪がすごいな)8月に帰函した宮路は東浜町に新たに宮路回漕店を開き、風帆船会社の業務を代行した。ちなみに三井物産は13年に函館に支店を設置するが、当初はこの宮路回漕店に間借りしている(24年8月29日「函館新聞」掲載の寄書「驚天居士 与木村正幹書」)。宮路に歩調を合わせるように函館では高橋七十郎、小林重吉が風帆船会社の発起人に加わり、後に杉浦嘉七、田中正右衛門の最有力の豪商も株主となっている(『渋沢栄一伝記資料』)。こうして三井の意向を受けた宮路が奔走して反三菱的雰囲気のなかで会社設立に係わった。さらに益田来函時には函館新聞が3回にわたり「帆走船会社の創立を論ず」と題し、三菱会社のこれまでの功績を一定程度評価しながらも、北海道人民に対しては益するところがすくなかったと論じて、一方では三井がこれから興そうとする東京風帆船会社が「人民カ意思ニ適合シタル」ということから北海道への進出を歓迎する論説を掲載した。三井所有の船舶はこれ以前から函館には入港しており、風帆船会社の発起人あるいは株主として参加した函館の商人は何らかの係わりがあったと考えられる。11月に風帆船会社の神倉丸が初めて函館に入港するが、こうした動きを中央紙の「中外物価新報」は「嘗て函館港へ向け出帆せし風帆船会社の神倉丸は、鮭・鱒・昆布等を積み、一昨日無事に帰港したり、今回船の該地に赴きし景況を聞くに、是迄風帆船にて保険を附し得る船は少なきを以て、随て該地諸人の信用も厚く、積荷頗る多くありしゆえ其過半は積残し来りたりと云う」(『渋沢栄一伝記資料』)と伝えている。

http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-07/shishi_04-07-03-01-02.htm#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%A2%A8%E5%B8%86%E8%88%B9%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%81%AF,%E6%A0%AA%E4%B8%BB%E5%8B%9F%E9%9B%86%E3%82%92%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

wikipediaの共同運輸会社の記載をかいつまんで言うと、三菱が外資を追っ払ったが、三菱は国内で一人勝ちしていたので渋沢栄一らが手を回して三井系の船会社を起こしたのだ。

当時、三菱の海運事業「郵便汽船三菱会社」(国有会社であった「日本国郵便蒸気船会社」と三菱商会が合併して設立された)が大規模な値下げ攻勢で勢力を広げ、欧米系の船会社に握られていた日本の航海自主権を取り返したが、一方で日本国内の中小の船会社も追い出されてしまった。独占的な地位を得た郵便汽船三菱会社は運賃を上げて大きな利益を上げていた。

しかし三菱の独占と専横を快く思わない渋沢栄一や井上馨、品川弥二郎、益田孝、榎本武揚、浅野総一郎らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、東京風帆船会社(益田孝の肝いりで1880年創業、社長遠武秀行)、北海道運輸会社、越中風帆船会社の三社が結集して1882年7月に共同運輸会社が発足した(越中風帆船会社については、反三菱勢力として設立されたのではなく三菱の画策によって設立されたもの)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E9%81%8B%E8%BC%B8%E4%BC%9A%E7%A4%BE

しかし値下げ競争が激しく、両社とも消耗する。

西郷従道農商務卿が仲介に乗り出し協定を結ばせ、一旦は競争は沈静化したものの、やがては協定破りが常態化。共倒れが危惧される事態となった。

同上

1885年、三菱の社長岩崎弥太郎が死去したことを契機に、政府が両者の仲介に乗りだし、共同運輸の社長である伊藤を更迭。両社を合併させ日本郵船が成立した。新会社の出資比率は共同と三菱で6:5、社長には共同運輸側の森岡昌純が就任するなど、発足当初こそ共同運輸色が濃いものとなったが、やがては三菱系の社員が台頭し、名実ともに共同運輸は消滅することとなった。

なお、後に三井物産の船舶部が独立して三井船舶となり、現在の商船三井になっている。

なるほど!

現在ある商船三井は三井系、日本郵船は三菱系である。

日本郵船ができる際、三菱系(郵便汽船三菱会社)と三井系(共同運輸)が合併して出来、当初三井系優位にはじまったが、三菱系に乗っ取られた(言い方は悪いが。。)。その後、三井系は独自に商船三井という船会社をおこしたのだ。これは根が深そうだ。

商船三井の社史を引用。あれ?共同運輸が持っていかれたくだりのところが書いてない。まるで日本郵船のことが三井とは関係がないようだ。

1878年(明治11年) 三井物産、鉄製蒸気船「秀吉丸」で三池炭の海外輸送(口之津-上海間)を開始。
1884年(明治17年)5月 – 瀬戸内航路を主として運航する60余りの船問屋を統合して、大阪商船設立。
1907年(明治40年)3月 – 大阪商船、日本郵船、湖南汽船、大東汽船が合弁で、上海に日清汽船を設立。
1909年(明治42年) – 辰馬汽船合資会社設立(1916年に辰馬汽船株式会社に改組、のち新日本汽船)[4]。
1912年(明治45年)5月 – 大阪商船、観光開発を目的とした1,000トン級のドイツ製客船「紅丸」(くれないまる)が、大阪と別府温泉を結ぶ航路に就航。
1923年(大正12年) – 大阪商船、広島‐別府航路を開設(のちの旧広別汽船)。
1939年(昭和14年) – 大阪商船、「あるぜんちな丸」「ぶら志゛る丸」を建造。両船は貨客船として南米航路に就航。
1942年(昭和17年)5月 – 大阪商船の内航部を分離し、宇和島運輸ほか5社[注 2]と共同で関西汽船設立。
1942年(昭和17年)12月 – 三井物産の船舶部門が三井船舶株式会社として分社化
1947年(昭和22年) – 財閥解体により辰馬汽船が新日本汽船となる。
1964年(昭和39年)1月 – 山下汽船が新日本汽船と合併して山下新日本汽船となる。新日本汽船は、もともと清酒輸送のために灘の醸造家辰馬家が1846年に始めた回漕業を前身とする船会社である[5]。
1964年(昭和39年)3月 – 日東商船が大同海運と合併してジャパンラインとなる。
1964年(昭和39年)4月 – 三井船舶が大阪商船と合併し、大阪商船三井船舶株式会社となる。

煙突のマークをファンネルマークと言う。日本郵船のマークは下図右下。赤い線が二本。

この二本線、三菱系(郵便汽船三菱会社)と三井系の共同運輸会社、二社の対等合併を表すもの。海援隊の隊旗に倣っている。その後は対等でなく、三菱のものになってしまう。

亀山社中と海援隊展示資料

郵便マークの由来。

  1. 「T」を第一案とし、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」を図案化した「〒」を第二案として提出したところ、第二案の「〒」が採用された。しかし、告示の時「T」と誤ってしまったために、これを訂正した、という説。
  2. 「T」にすることで最初から決まっていたものの、後日調べてみると「T」は国際郵便の取扱いでは、郵便料金不足の印として万国共通に使用されていた。そのため、これによく似たマークは適当ではないということで、「〒」に訂正した、という説。また、この訂正では、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」からの説と、単純に「T」の上に一本足して「〒」とした、という説の2つがある。
  3. 船会社(日本郵船)のファンネルマークが横二本で、同社の社員から、これは日本を意味するもので、この下に縦棒をつけて「〒」とした説

があるようだ。

三菱と三井の因縁のライバル関係は今も続きます。

長々すみません。m(_ _;)m

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