路地が大好き。
使用感があるが活き活きしている。
なんのお店でしょう。
↑ お肉屋さんのノレンとロゴです。シャレオツ肉屋。
肉屋が多い人形町。今半のお弁当は、デパ地下で買うより人形町で買うと少し安い気がします。
防火目的に銅板で壁が施されています。銅加工のまち高岡市内でも”ろくしょう色”はよく見かけました。
かつて江戸初期に人形町は「葭原遊郭」といい、茶屋が並び、絃歌さんざめく傾城町でした。その前は葭の繁る沼地で幕府は埋め立て、使える土地とし、ここに遊郭を集約したのが始まり。江戸最初の遊郭はここにありました。建物を見上げると二階から太鼓がきこえてきそうです。
1657年明暦の大火をきっかけとして、現在の吉原のある浅草の北(台東区千束)に、遊郭は名前ごと移転、新吉原と名付けられました(今の通称吉原)。その後の人形町には歌舞伎小屋(中村座や市村座)、人形浄瑠璃や人形芝居が盛んとなり遊興街として存続、人形町の名前はこのあたりに由来します。
1841年の火災の後、天保の改革で歌舞伎座や芝居小屋は人形町から浅草に移されました(浅草六丁目、かつての猿若町)。庶民の奢侈を厳しく禁ずる水野忠邦は歌舞伎を目の敵にして潰す勢いでしたが町奉行(遠山の金さん)に反対され存続します。浅草猿若町は江戸歌舞伎興隆の地となります。
関東大震災で人形町は区画整理され現在の区割りになります。震災以後、人形町はキャバレーのような風俗で”カフェー”という名称の女性がサービスする新興喫茶が立ち並ぶ街となります。下の写真は銀座のカフェー。
谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」のナオミは15歳で銀座のカフェーに出ていた設定でしたが、谷崎潤一郎の生誕地は人形町にあり、身近にカフェーの猥雑な雰囲気を感じ取っていたはずです。
樋口一葉は「たけくらべ」で吉原の風景をえがきました。樋口一葉の旧居跡は吉原遊郭の絃歌が聞こえる近さの竜泉にありました。
ふと、ロートレックの絵を思い出します。ロートレックはモンマルトルのムーラン・ルージュでダンサーを描き、観客の紳士を男前に描いてやったり、劇場のためにポスターを描いてやったりしました。ムーラン・ルージュの目玉は文明堂のカステラの曲に合わせてスカートをひらひらさせて下着を見せる大変けしからんダンスです。今もやっているそうで、見に行きたいです。
子供の時、福岡市美術館で、”描画の画家「ロートレック展」”が開かれ、絵の好きな親に連れて行かれ、相当に色気のある絵をありがたく拝ませてもらいました。ストッキングをはく女などが気に入りました。入場者何万人目かにあたり、福岡の新聞に掲載されたうえ、主催者から画集までいただきました。私にとっては公認のエロい本が思いがけず手に入ったようなものでありました。裸婦のデッサンてんこ盛り、芸術という大義名分。それ以来ロートレックは、常に身近です。教養有りげにロートレックと言っているのではないのです。美しいものばかりを見させられて飽き飽きしていたところに、猥雑さをピリッと混じえた絵、例えばきれいな踊り子と醜悪な顔をした男を並べて描いたり、それをとても面白く感じ、儚げでありながら活き活きとしていて、描く側の面白がりようを感じました。ロートレックには障害があり、踊り子と情交を重ねながら自らは酒に溺れ梅毒にかかり、挙げ句36歳で亡くなります。こういう生き方もあるのだと子供のときに知ったのでした。
夜の世界に憧れ、すこし通ったこともありましたが、それほどどっぷりとハマることなく現在まで至り、大きな脱線をしなかったのはこの画集のおかげです。つまり、どうも子供の時点で相当おかしな老成した分別がロートレックと言う人物を通じてついたためで、夜の世界はハマるとこうなるという警戒感を俯瞰的に小学生の頭で持ち・・・いや、あるいは夜の世界への妄想が成熟してしまい、物足らなさをどこか冷めた目で感じていたかもしれません。
子供の情操教育にロートレックの画集を、身を以て強くオススメいたします。こんなのを子供に見せるワシの親は頭おかしい、一体何を考えていたんだろう、とも思っています。
いつも読んでいただきありがとうございます。
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