努力を要したことへの過剰な自己評価

努力して手にしたものに過剰に価値を見出しても、周りは同じようには思いません。個人のありがたみは一般化できません。実は修理した椅子を「田舎の旅館風ネ」と言われて軽いショックを受け、駄文を書き始めました。要するに以下グチです。

努力して手に入れたものはありがたい。才能のない分、四苦八苦しただけありがたい。経験や才能があればできる人には簡単にできることでしょう。絵がうまい人、野球がうまい人、数学が簡単に解ける人、生得的です。私は椅子の修理に努力を要しました。手に棘が刺さってトンカチで指を叩いて修理した椅子には過剰に「できたー!」と達成感を覚えました。努力して手に入れた結果に自惚れました。周りの評価を離れた自己満足を、周りに確認してはいけなかったのです。ありがたみは過剰な自己評価をゆるし、世間と乖離します。

昔、サイババという人がおりました。別所哲也が10日ぐらい毎日待って、サイババにようやく頭をなでてもらってありがたがって泣いていたのを思い出しました。慶応を出てもこんなんなんだって強烈にドン引きしたのを思い出しました。なかなかさせてくれない女の人に過剰な価値を見出すのも、まあ多少覚えがありますが。ありがたみが価値を決めるのです。宝くじで労せず手に入れた当選金はありがたみがなく、スルスルと身を離れていきますが、バイトで初めて稼いだ1000円はありがたく神棚に飾ります。

羞恥心とは個人のありがたみを隠すことだと思いました。どんな反応するやろなどと、淡い期待を周りにかけてはいけない。努力して手に入れたありがたみは自分の中にしまっておくべきです。そんな風に振り返りつつも、我が手を痛めて修理した椅子を「田舎の旅館風、田舎のお蕎麦屋さん」と言われたショックがなかなか癒えません(笑)。

お読みいただきありがとうございます。

コメント

  1. 五条 桐彦 より:

    椅子が壊れたら、買い換えることしか思い浮かばない僕には凄いことに思えますが、そもそも「田舎の旅館風、田舎のお蕎麦屋さん」の椅子も味わいがあって僕は好きですけどね♪

  2. yopioid より:

    (T_T)ありがとうございます。
    よかろーみてーたべてんーおいしかろー、の博多気質に育まれたので、
    ついつい「よかろ?!」のゴリ押しをやってしまいます。
    そのくせガラスのハートです(50過ぎてますが。。)