本当は教えたくない、について

「本当は教えたくない、ナニナニ」

と銘打つ記事にしばしば出くわす。いちいち勿体をつけた表現だ。大した内容でもない事に、ものものしい感じを与える。教える側と教わる側、次のような彼我の構図が想定される。即ち何らかの知識を得て”法外な利”を手にしている既得権益者、および、その他無数の無知蒙昧の徒である。(ホリエモンとその取り巻きを思い浮かべると良い)

その対立関係は「本当は教えたくない」と教える側が言い放った瞬間に形成されるが、その俄仕立ての枠組に、半ば強制的に取り込まれるか否かは、教えられる側の心理的状況に委ねられている。素直に無知蒙昧の徒に堕し、うやうやしく教えを請う側になり下がりさらすか、あるいは遠慮するかである。前者は苦しみの深く果てしない苦界にあり、助けを乞う状況にある。後者は何も今更教わらなくとも人間界はそこそこに幸せであると認識する、信仰心に薄いリアリストであり「本当は教えたくない」というレトリックごときでは布教されにくいセグメントだ。

「あなたが知らない秘法、奥義があるんだけれど、本当は教えたくないんだけどネ、こっそり教えてあげるヨ」とポン引きのように言い寄ってくる、この上なく鬱陶しい。本当は教えたくないと言うのなら、わざわざこっちに来て教えなければよいのに、なぜ「教えたくないんだけどネ、教えたくなってしまうの」か。既得権を守りたいなら、本来死守すべき秘法をなぜかくも簡単に公開するのか。それほどまでに軽々しく公開できる、その程度のことを勿体つけて言っているだけではないのか。あるいはあなたの守秘義務の倫理観念はそれほどにまで薄っぺらいものなのか。

「本当は教えたくないコスメ」「本当は教えたくないスキンケアの方法」を、お世辞にもきれいとは言えない、口悪しく言えば ”規格外ではないけれどお多福相当” ”精度誤差範囲内で出荷可能” なご婦人方が自信アリげに披露する。

だが「本当は教えたくない漁師のカツオ漬け」、これはうまそうだ、素直に教えを請いたい。

十分な利を得て、または修練を積み、高みに登ったにも関わらず、世俗的な称賛を得ていない人々が、急に植樹したり慈善活動をしたりし始めることはある。高みにある事自体が、称賛を得るどころか逆に反感を買い批判の対象になることも動機としてしばしばある。つまり、そのカウンターとして寄付をしたり、それまでやったこともない慈善活動を行ったりする。一見不可解に見える富裕層の行動「本当はやりたくないけどやる」は彼らには合理的で保身的な行動であり、合目的的なのだ。

いぶかしいと思うのは、「本当は教えたくない」事を「アミーゴは、あたしの本当の友達だから特別にシェアしたい」という体をとって行われることだ。無自覚なだけに一層始末に負えない偽善に見えるのは気の所為ではないだろう。

宗教改革の時代に、啓蒙専制君主が流行った。王様が荘園制で土地に縛られていた農奴を貴族や教会から解き放ち、その実は、工業に労働力を有効に供給する役割を果たした、そのことをヴォルテールなどの援護をかりて”啓蒙”と言いさらし、啓蒙専制君主はいわゆる「上からの近代化」を推し進めた。農奴に「アミーゴ、農奴なんかやめていいよ、今日から工場ではたらきなよ」と教えたのだ。”啓蒙”、つまり教えるというのは大なり小なり打算の産物である。土地から解き放たれた農奴のうち、エルベ川以東の未開の地に東方植民したものは、商工業の発展に取り残され、皮肉なことに農業を続けざるを得ず、中世的な封建制度に再び逆戻りし、地主貴族に支配される(高校の世界史で習った”ユンカー”ってやつです)。”啓蒙”とは上からの保身的なキャッチコピーにすぎず、農奴はなんら開明していなかった。教えてあげる、と近づいてくる側に教わったような気になり、俄に偉くなったような気にさせられ、チヤホヤ持ち上げられた挙げ句、やっていることは旧態依然。教えてあげる、は”余計なお世話”なのだ。

「本当は教えたくない」と専門家が言うときには事情が変わる。その場合、心底「本当に教えたくない」つまり難しいことを教えても君等どうせわからんだろうから、ややこしい説明を「本当に、したくない」のである。化学構造を並べて数式で説明しても理解力が乏しいひとには無用であるに留まらず、不安を助長し、最後にはわからないが為に「お前は下手な説明で私を誑かそうとしている!」という理不尽な怒りに変わる。(例 有病率が低いときに感度が低いPCR検査を行うことで偽陽性、偽陰性が多発し、検査後確率がものすごく低いこと、スクリーニングに用いるべき検査ではないことをベイズ推定という簡単な数学で説明しようとしても、大多数の人が誤魔化すな!たぶらかすな!と怒る)

わかる、理解するということの本質は、多くの人にとって”情緒”である。ゆえに、世の中には多くの理不尽なことがまかり通るが、ほとんどが情緒的に合意されているのだ、世の中の殆どは理屈でできてはいない。お墓参りだってそうだ。コロナ騒ぎだってそうだった。理屈を通そうとすると、情緒に基づく怒れる大衆によって吊るし上げられる。一時的な感情であれば、感情が過ぎ去ったときに説明を施すのが賢明で、その間は粛々と実務に徹していればよく、情緒的な人々が”大衆運動”、”集団ヒステリー”の最中であるときに、説得するのは無駄骨だ。

”わかりやすい”つまり”情緒的にわかったような気にさせる”説明のために難しい説明を省くとき、もっと言えば「説明が不安を招きかねないので本当は教えたくないことを、本当に教えないとき」に、誠実な専門家は罪悪感を持つ(いや、そんなもの持たないというならあなたは擦れっ枯らしの専門家だと断言できる、なにせ私がそうだから・・)。だいぶ端折った説明にもかかわらず、邪念や私欲のない老人に「よくわかりました」と裁断されたとき、背中から、閻魔様の持ってる槍でツンツンされ、それでいいのかい?とジロリ見つめられているような気さえするから、まだ良心の欠片がのこっているのか。

「本当は教えたくない」という言葉は、ネットの見出しに、実に軽々しい符牒として使われている。いつものように脱線してしまった。私は何を言っているのだ。。。長文の挙句の果てに、さっきから一つの想念が脳裏に力強く浮かんでいる。

「本当は教えたくない漁師のカツオ漬け」が食べたくてしょうがないのである。

本当は教えたくない!?漁師のカツオ漬け by ちえ子
カツオはたたきやポン酢だけじゃなかった!こんなにおいしい食べ方があったのです。普段の味に飽きても、これはいくら作っても飽きません。一緒に漬けるたまねぎもまたウマイっ! 18.6.16 ちょっと分量を変更しました。
高知県元漁師の鰹のたたきのタレ by ☆ゆいママ75☆
元漁師の祖父から高知県のたたきのタレのレシピの覚書です。ポン酢で食べる事が多いですがこのタレで食べたらポン酢に戻れない!

今夜のおかずはこれで決まりです。まんまと罠にかかった気がする。

コメント

  1. 昨日、ちょうど鰹のお刺身を買って食べなかったので、「本当は教えたくない漁師の鰹漬け」にしたいと思います(*^^)v
    元漁師のかつおのたたきもいいな(#^^#)

  2. yopioid より:

    コメントありがとうございます。
    「本当は教えたくない」という表現にムカつく~!キ~ッ!で始めたのに、
    存外に私が布教する側に加担してしまいました。

    ぜひ、「本当は教えたくないコスメ」や「本当は教えたくないスキンケア」もやってみてください。
    「本当は教えたくない」のですが私オジサンなのでコスメはちょっと試せません。

  3. 了解です(^_-)-☆

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