とてもオーガニックな野菜

宮島の海峡に浮かぶ牡蠣筏。

宮島は神の島であります。し尿をどうしていたか?大野町にある神社の方から聞いた話と親父からの話とが符合して面白かったので書きます。ただ、ウンコの話なので食事中の方はご遠慮いただければ幸甚に存じます。。。あと、方言で書いてしまい、後付カッコで注釈をつけました。

大野にあるその古社は高速道路山陽道脇の山にあり、妹尾の滝が社奥にあります。自然の造形をご神体としたのでしょうかと社務所の方に伺ったら「いや、元の位置は海の近くです」と私の妄想は砕かれます。元の神社の場所は畑が囲み、し尿を撒いて畑を肥やす、そんな場所にあったので、明治期に山側の滝の近くに移動するように言われたそうです。私のオヤジが宮島の出だと伝えると、し尿は宮島から買って船で運んだと。。お、ワシのじいちゃんやオヤジのもここに来たんじゃろうか。うちがたは宮島にあり参拝客相手にしゃもじや食べ物を売るお店を構えていました。大野の神社でこんなこと聞いてきたで、と親父にはなしてみると話が符合します。

前置きとしてすでに述べましたが、宮島は島全体が自然信仰の対象で農業禁止です。他にも出産も禁止、死体埋葬も禁止、亡くなるとすぐに本土側の大野の赤崎に運ぶなど、今も続く決まりに島民は従っています。神聖な島に「し尿を撒けない」から農業禁止でしょう。では余ったし尿をどうしたか。商業地宮島に観光客が落としてくれるお金で他所の野菜や食料を買っていたようです。オヤジが言うには「当時、し尿は売れたんよ。買いにきよった。野菜と交換したり」。そういう親父に「同じ船で野菜運んでくるんか?」いうて聞いたら、「そうよのうはははw」と。正月の酒盛りでの戯言じゃけ、話ハンブゥ(半分)にきいてくださいや。わし「そがいなぁじゃたら、野菜が臭いじゃろうがぃ?!」「蓋しとるけぇ、大丈夫よw」話がリアルすぎる。ちり紙交換でトイレットペーパーをくれるように、元と子をブツブツ交換しとったんといの。こりゃあ、ほんまもんのオーガニック野菜じゃの!

大野の業者さんがし尿運搬船で宮島にやってきて、浜からこえたご二個天秤棒担いできて、柄杓で掬うてとったんといの(といの=だそうです 伝聞)。ほいで、タップンタップンしながら波止の小舟にえっちらおっちら運ぶ、こぼさんこぅにね(こぼさないようにね)。あんまり話さん親父と久しぶりに会うたんじゃのに、ウンコの話じゃあごとでもりあがりょるアホなウチよ。「こーよんなんじゃ」と紙と鉛筆で舟のフィギュアを描きはじめたオヤジ、ふとなんかを思い出したげな風。し尿運搬船は小舟で小さいつり船に構造は似とるちゅんよ(似ていると云うのです)。小舟の絵を描きながらじいちゃんが持っていた生簀のある船の話をしだして、それん乗ってトラフグを釣って捌いて食べとった話を、どうじゃ、えかろうがい(訳 どうだい、ちょっと羨ましい話だろ)、ゆうふうな感じでし始めた。し尿運搬船の便槽の形がじいちゃんの釣り船の生け簀とそっくり良う似とったけ二重写しになったんじゃろうてw、きちゃにゃー尾籠な話ばぁで(汚い尾籠な話ばかりで)ゲニホンマニ悪りぃねぇ(誠に本当に申し訳なく思っております)。こがなぁもん聞かすうつもりじゃぁなかったんじゃけどねえ(このようなことをお聞かせするつもりではなかったのですが)、ほじゃけゆて(とは申すものの)、まだウンコのはつづくんじゃけどね~!。ワシもいまちいとばあ(すこしばかり)のんどるけ、もとおらんこと(回らないこと)を云いよるね。

釣り船の話つづく、戦後の食糧難の頃、朝はように宮島の松茸が採れる場所に行って入手(ええんかい!)、船で釣りにでてトラフグを釣って11時頃帰ってくる(ええんかいね!)。お昼に爺ちゃんがさばいて(ええええ!)、松茸とトラフグの鍋と刺し身を大根とダイダイ汁と醤油と少し唐辛子を入れたポン酢で食べとったんじゃげな。「戦後のもののない時代じゃけのう。しかたなく高級料亭よ。今でも食えんような贅沢じゃったわ、ワハハ」じゃと。まあどうゆんかいね(まあなんだろう)、話はほんまじゃろうね。良お言やあ、闇市のものにゃあ手を付けいだった言うて解釈できんこたぁないがの(良く言えば闇市の世話にはならなかったと解釈できないこともありませんがね)。じゃが、なんぼものがない云うても、毒フグ捌いてくっとったとはたまげるでよ。よおまあ当たらいだったことよ(よくまあ中毒にならなかったものですよね)。

ついでにゆんじゃがね、時代は下り、バキュームカーの時代にワシは生まれました。宮島の店ん前(参道)にバキュームカーが来てね、そっからホースぅ伸ばして店の中の奥の肥溜めまで入れてさろうちゃったんじゃげな。赤ん坊のワシはバキュームカー見るんがうれしゅうてうれしゅうて、ホースがブルルン!となるたんびたんびぃに(ブルルンとなる毎々に)ゲラゲラ喜んだんじゃぁげぇな。言葉がちぃと喋れる様になった頃「おとなになったらワシねえ、絶対バキュームカーの運転手になるんじゃけえ!!」と言うて両親を相当落胆さしてしもうてねえ。もうちいと大きゅうなってからも、当時あらくれもんが多かった広電の運転士にわしゃぁなるんじゃあいうて。あんたあ勉強できるんじゃけもうちいとええのにしんさいゆわれたもんよ。

おっと、ネイティブ広島弁が出すぎてちいと難しゅうなってしもうたね(方言で少し難しくなってしまいました)、ちいとみば良うするように(少し体裁を整えるために)普通の日本語で今から喋るけ、こらえてつかあひゃい。変身・・・・・

・・・・・・さて、廿日市の本土側には厳島神社領がいくつもあって、遠くは広島市安佐南区祇園の倉敷地や、安芸府中の多家神社周辺、南は西国街道沿いの宿場町なども関連します。それらは経済活動で繋がります。荘園とか倉敷地であるとか教科書的みばのええ説明でもいいのですが、もっとリアルな経済関係として具体的に、コエタゴ担いできて作った有機野菜と交換、この有機的繋がりがイイです。これぞオーガニックです。宮島のヒトは農産物を作れないから、ウンコをギブして野菜をテイク、Give and Take。私、しつこいですね、ごめんなさい。うんこの話んなったらわしゃあ止まらんのんよねえ。うんこを黄金と云うたりする由来ちゅんはこのあたりじゃろうて。おそらく宮島のうんこは商業地でええもん食うちょるやろうけ、ホテルやお座敷もあったりでお客さんがええもん食うてブリブリひり出したやつじゃけ高級堆肥よねえ・・・。

また、広島弁もどっとったわ、こらえてつかいの。なんゆうた?日本語で喋れえ?なにょかばちゅたれちょんな、これが日本語じゃわい!(筆者が酒でワルノリしています。すみません。)

現在、廿日市市と大野は、市町村合併で”廿日市市”として一緒になっています。個人的には”宮島市”というのでも良いかと思います、この地域は旧厳島神社領が多かったから。歴史的にも宮島と大野とは一心同体で、宮島だけでやっていけない部分を本土側の大野町や他の神社領で補ってもらっていました。大野の人たちにホンマニ感謝せにゃいけん宮島の人は、ゲニホンマニそう思います。

↑明治27年測図「厳島」より引用、宮島の対岸、現在の宮島口駅あたり。地蔵ケ鼻のあたりから墓のマークがあります。地名を赤崎といいます。墓の地図記号 ⊥。国鉄が開通するまでは墓と叢だけの場所。

↑明治30年に宮島口駅ができた時に、当時の大野村長の中丸次兵衛さんが宮島島民の墓地を山手の対厳山へ移転し(青い四角)、国鉄と宮島への桟橋とを結ぶ立派な拡張道路(上図黄色)をつけました。

この宮島口の土地はもともと赤崎といい、宮島口に町名が変わった今も延命寺の土地です。墓地赤崎から賑やかな宮島口へ大変身。

↑現在の状態です。なんで地蔵ケ鼻かというと、ここの海中に地蔵サンを立てていて、宮島から渡海してくる宮島島民の亡くなったホトケさんを迎えていたからです。海中に立っていたから結構荒波で転げたらしい。いくら瀬戸内が穏やか言うてもね。ほで、赤崎墓地が移転した先の延命寺の近くに海のなかにおっちゃった地蔵さんも移動して、墓地の入り口でお迎えになっています。

はつかいち観光協会HPより引用

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