古代の宇宙観

古代に頭の鉢の中に描いた宇宙のほうがずっと創造的に思える。荒唐無稽とは思わない。稽とは考えることで無稽とは「根拠がない・考えていない」の意だが、考えたかどうかという点では前例を無視してよく自分の頭で考えたからこそこんなヘンなものができたのだ。前例がそもそもないからこうなったのか。と一旦身贔屓したのだが、これもかつては”公式の宇宙観”ではあった。私は公式とつくものが苦手だ。公式なものの周辺にいる人々が苦手だ。

先に答えを示される教育は、宇宙に対する勝手な想像を許さない。もてば抹殺される、天動説を唱えた人のように。専門家に任せなさい、違うことを考えているお前は頭の中がイカれている、専権事項である、お前は先人の発見した公式を謙虚に踏襲していればいい、本当にそれをやりたいならしかるべき大学に上がってからにしろ。そんな風に躾けられながら”公式”を学べたひとに学歴が残る。

”頭がいい”というのは先人の発見を疑わずにいったん引き受け、先人の努力や発想に感心し敬意を払い追想することである。学んでいる最中に横にそれて想像したり、反発する気持ちが出たりすると公式なお作法を学ぶのに支障をきたす。古代インド人の考えた図が”公式なお作法”であった世では「宇宙の構造」を、蛇さんとぞうさんを描きながら説明することが”優秀”となる。そこで問われているのは、事務処理能力もさることながら、黒を白と言える能力や素直さという気もする。

他人の創造物のまねすることを頭がいいとは思わない。単に優秀であるだけだ。記憶系に異常に優れる秀才でもその割には創造性が乏しい人も中にはいる。教条を墨守するだけの、基準の番人を自負するだけの。

古代人の宇宙観を、ヘンテコでちょっと面白いと思ってみているうちはいいけれど、それぞれこんなものが一時公式だったんだ、と考えが及び、暗澹たる気持ちになった。

傍流が面白く、本流を避けてしまう私の邪心、判官びいきというのか、は、本流への反発に根付くところが多少ある。仮にその亜流がまかり間違って本流として認められた途端に堕落したように思え、私に腐臭を放ち始める。イモ臭い不人気な女優さんを俄かに身贔屓するものの、少し有名になると全く興味を失ったことがある。

一体私は何を話しているのだろう。あ、そうだ古代の宇宙観についてだ。脱線してしまいました。

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