福岡県春日市伯玄町二丁目

小2から中2まで福岡県春日市伯玄町二丁目に住んでいました。大雨で大分方面の旅の予定をとりやめ、福岡空港周辺で時間をすごそう、そうだ、約40年ぶりに3時間ほど春日市を徘徊してみようという寸法。

Muyo – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4970613による

天神駅が様変わりしており、懐かしいと思える景色を見いだせません。大丸も岩田屋もありましたが、玉屋や天神コアはなくなっていました。西鉄の車両は昔は鈍行がイエロー、急行がアイスグリーンの600系、特急が特殊形態の2000系でした。私が乗った鈍行電車は2003年に導入された鉄道友の会ローレル賞受賞川崎重工製3000系。立派な電車ですが、第二の故郷に帰ってきた実感が湧きませぬ。

雑餉隈駅で降りると高架になっています。工事中の通路をしばらく歩かされてようやく1階の改札におりて出ますが、長年暖めた郷愁の欠片も落ちていない。きれいになりすぎ。テレビ番組みたいにナツカシー!とおいそれとはさせてくれないもどかしさ。40年も経てば痕跡探しの旅になりそう。

やっと地形に見覚えがある商店街がありました。左へ弯曲していて、右の並びに昔焼き鳥屋があったところだと直感し歩き始めました。「店先で焼き鳥を焼いていたお店がこの辺にありませんでしたか、40年ぶりに春日市に来て懐かしんでおります。」と開いている肉屋に尋ねたら隣ですよと、そこはもうしばらく前からやっていないとか。おばあちゃんの跡継ぎさんもやっていたけど、結局やらなくなった、というような話を伺いました。

焼き鳥屋”伊勢屋”調べると、「昔からやっている激安の焼き鳥屋」、ほぼ間違いない。来るのが少し遅かったか・・・”ボク”が小学生のときは皮が25円でモモが35円ぐらいだった。裸電球に照らされた飴色の焼き鳥が丁度子供の目線の高さで誘う、そして香ばしい煙。ココを通りがかったら必ずねだり、たらふく食べさせてもらった、タレの味が大好きだった。カワが少し安くて美味しいから倹約家の親の顔色を伺いながらカワばかり欲しがった。そうすると、ネギマも食べなさいと、高いのも買ってくれた、私は知能犯、作戦だった。雑餉隈駅を降りてまっすぐここに足が自ずと向いたのは帰巣本能というか、いや、ただ単に食い意地がはっているからですね。

この画像は食べログより引用。

食べログに載っていた昔の画像。カワ60円だ。値上がりしても安い!

雑餉隈には2つ駅があります。旧国鉄と西鉄。昔2つとも名称は「ザッショノクマエキ」。手動踏切がどこかにあったはずだが思い出せなかった。手でぐるぐる回すやつ。途中まで遮断器を下ろし、渡っている人が渡り切ると完全に下ろすやつ。すでに立体工事が進んで、踏切が除去されているのかもしれない。南福岡駅の踏切を渡るとき、電車区に佇む特急のロゴマークを観察するのが好きだった。481系「有明」「にちりん」の肌色のボンネットの肌理を間近でみたり赤い眉毛を見たり、485系の「かもめ」、寝台特急の電気機関車、「明星」だったか「金星」だったか、星系のマークとか。踏切から侵入できる場所があったような。

40年前と変わらずの開かずの踏切、じっと立っているだけで汗が流れる。懐かしいとか要らんのやけど。しびれをきらし、跨線橋(歩道橋)へ。私が登ったところで踏切が開いた。チッ!

上の写真、南福岡駅北側跨線橋より俯瞰。本線の右側に南福岡電車区。

南福岡運転区、南福岡車両区。電車区と言わないのかな。。

陸上自衛隊福岡駐屯地の北側を歩き、福岡県道31号まで歩いたあたりで暑さが限度に達し、沸騰したみたいに汗が吹き出します。須玖とか岡本とか小倉とか懐かしい地名表示にドキがムネムネしてきます。小高い丘の上、奴国の丘歴史資料館に到着。クーラーがありがたい。冷蔵庫に出たり入ったりする麦茶のボトルの気持ちがよく分かります。

お出迎えの蝋人形、なかなか面白く作ってあり顔がユーモラス。最近の蝋人形は漫画っぽく、怖くはないです。古代人は頭がボサボサというステレオタイプはおそらく偏見で、きちっとしている古代人と適当な古代人とが居たはずです。ロン毛でバンダナ、チョビひげの若者は今も一定数いますが、古代人へのオマージュかもしれません。

私が住んでいた伯玄町の中央公民館にツギハギ復元されたカメの展示がありました。昭和50年代当時岡本遺跡への遠足の際、古墳を見るだけで資料館はありませんでした。名前も”須玖岡本”と変わっていたり。須玖岡本遺跡周辺を「奴国の都の中心じぇっ!」と宣言するこの”奴国の丘歴史資料館”は1998年にできたようです。私が春日をあとにして40年の間、新たな発掘資料や知見が加わったのかな、春日すごいやん、評価は変わるものです。

小学校のとき、同級生が須玖岡本あたりで迷子になり大騒ぎになったのを思い出しました。須玖岡本あたりは丘陵に力技で道がつけてあって、グネグネした上に上がり下がりもするから方向を見失う。その子は夜になっても帰らず、春日市はため池が多いから落ちたのではないかと怪情報が飛び交い、日がとっぷり暮れた夜になって、大勢の捜索の結果須玖岡本あたりでようやく見つかったと回覧が来ました。以来、須玖岡本あたりは禁足地と暗黙のルールができ遊びに行きませんでした。子供の頃に怖がっていた須玖岡本あたりを小倉経由で伯玄町まで歩いてみました。

普通かな。どうってことないや!子供の頃のおそれを一つ克服。大丈夫かも。

国土地理院 デジタル標高地形図より引用

大興本社ビル、建設業。解体業。。やっぱり怖いや。あ、いえ、かっこいいです。。30°cを超えて蒸し暑い、陸上自衛隊春日駐屯地を小倉の丘から見下ろせます。この暑い中訓練されている、偉い、敬礼!(`・ω・´)ゞビシッ

南福岡駅から那珂川へ伸びる道路。宝町交差点から昇町方面へ緩やかに登るところ。須玖岡本の丘と、伯玄町の丘とは本来連なっていて、この道路はそれを切り通している(下図赤線 上が須玖岡本小倉、南が伯玄町自衛隊病院あたり)。

国土地理院 デジタル標高地形図より引用

同じく宝町交差点。西を望む。懐かしい景色、宝町交差点のロイヤルホスト・・・はもうなくて、代わりに居抜きで白い食堂みたいなのがあります。よくみるとふくや、辛子明太子屋、パン屋も分画して入っているようです。住んでいたビルの勉強部屋から夜のロイヤルホストとナトリウムランプが見えていました。頭の白いペンキで塗り潰されているところにはかつて「ROYAL HOST」とオレンジ色と茶色で書いてありました。

地形は変わってないけど、町並みは様変わりしておりました。グリーンベルトは夏仕様、鮮やかで若々しく、一方で街全体の印象は私がいた人口急増期に比べ落ち着いた感じに見え、街も年を取っていきますが、それでも明るい感じ。横断歩道を渡るとき、落ち着きのないおじさんが人懐っこく歌いながらこっちをジロジロ見てきました。同級生だろうか。思い出せなかった。いや、ただの変なおじさんだろう。

サニー、マツキヨ。。こんなのなかった。この区画、道路からは一段下がった広い田んぼだった。水田にはザリガニが湧いていた。そのザリガニに就いてなんだが・・・もう時効だと思うからいいだろう、話す、私は悩んでいた。

龍神池でアッカン(アメリカザリガニ)を釣ってきてしばらく家の飼育箱で飼っていた。ザリガニを飼うとドブとかヘドロの有機的な臭い、ゲオスミン臭が漂ってくる。臭い!捨てなさい!と再三にわたり母に怒られ、泣く泣くザリガニを水田に逃した。その数年後その田んぼにザリガニが繁殖し、子どもたちが集まるザリガニ釣りの新たなメッカと化した。私の放った、たった数匹のザリガニ、あいつらが増えたのか?大いに焦り、子どもたちがザリガニ釣りに興じる様子を通るたび横目で見て、知らぬふりをして妙な汗をかいた。ブルーギルを無断で放流してはいけない、みたいな話の連想からザリガニを勝手に放したことに罪を感じ良心の呵責に苛まれていた。だが広い田んぼの真っ赤っかなアメリカザリガニ達は光の届かぬアスファルトの下に埋めたてられて、かわりに黄色いマツモトキヨシが建っている。私の罪ごと埋められてしまった。複雑な気分でその横を通った。春日には土の中に色々なものが埋まっている。古代の甕棺やらザリガニやら。

住んでいた場所、ビルの形から建て替えられたよう。大きかった印象があるけれど、すごく小さく感じた。眼の前に自衛隊病院、隣の中央公民館は”春日市商工会”に変わって建物も新しくなり二階の図書館はなくなっていた。中央公民館の図書館では学研のひみつシリーズ、学研の図鑑、世界の怪奇現象の本、象形文字の成り立ちの本などをよく読んだ。あの本はどこに行ったのか。学研の科学と学習も取ってもらって、このベランダでカブトエビを育てたり感光紙の実験をしたり呈色反応の実験をしたり。

伯玄町の由来は伯玄社というおやしろにあって、そこに祀られているのがはっけんどん(伯玄どん)。子供のときに知ろうともしなかったし、意識すらしなかった。

はっけんどん(伯玄どん、伯賢どん)。ほっかむりしているのがはっけんどんという人物。博多から筑紫野まで田を開いた人という。たくさん飯を食う大男。小倉のヒーロー。

落書きみたいなのがあった。昔、こんなのなかったよ。はっけんどん、覚えとくよ。”大男”で”土木技術”や各種知識を持ち、、それってもしかして、西方より来たりし胡人?

伯賢でググるとK-popのアイドルが出てくる。韓国人名、「ベクヒョン、ベッキョン」。関係ないだろうが。

伯玄社の下から弥生から古墳時代の甕棺が発掘されました。古代人の共同墓地だったようです。

家のベランダから落雷を見ていたとき自衛隊病院の中の国旗掲揚のポールに落雷した瞬間を見たことを思い出しました。天を引き裂くような衝撃音がバキバキッっと同時にしたのを思い出します。そのポールがあるかな?と思ったら同じ場所にありました。昔自衛隊病院の敷地の中で集団でランニングされている隊員たちの威勢のいい掛け声がよく聞こえたものです。これと同じ掛け声です。↓ジョギングでスタミナが切れたとき、この掛け声をものまねするともう一周できます。

図書館(元中央公民館 現春日市商工会 はっけんどん)の丘から下る坂道でローラースケートを履いたまま勢いがついて止まれず道路に飛び出てしまいひやっとしたことがあった。車は来なかったが来てたら。。。トラウマで時々思い出す。その場所に来た瞬間ゾワゾワした。

私が住んでいた40年以上前からある富貴という和菓子屋。私が勝手に懐かしがっているんだけれど、和菓子屋のおばちゃんは「あーそう」て感じ。「40年前のことはよくわからないの」ずっとここの店におられる人かと勘違いして話しかけていたことに今更気づき、そそくさと店を出た。伯玄町は二丁目しかない。伯玄町一丁目は若葉台西に町名変更になった。伯玄町二丁目も消滅して町名変更の予定だったが、伯玄町の町名を残したいと春日市に請願した結果伯玄町には二丁目だけが残った。伯玄町に二丁目しかない理由はこういうわけ。

昔はあれほど遠く広く感じた生活域が思ったよりも狭い。ノスタルジアの中で暖めていた地図は実態より大きくなっていた。このあと小学校まで歩いてみたんだけれども、あっという間についてしまった。巨人になったような違和感を覚えた。

博多ラーメンが昔のままあってラーメン290円という価格で今もやっていた。レタリングは昔のまま、色は褪せている。味は変わっている、思い出の方の味はもう少し透明でラードの風味がもっと強かった。思い出バイアスかもしれん。値段を考えれば上出来、美味しい。お客も多く人気だ。替え玉の声が飛び交う。

到着時点で汗だくで、塩気がうまくてうまくて、ラーメンの汁を全部飲んじゃった。きくらげ大盛りと替え玉を追加、それらも安い。職人っぽいお客さんが多く、昔の吉野家のよう。

5号線沿い、三八うどんのカツ丼が好きだったが、もうその場所には三八うどんはなかった。同じ名前の店が調べると昇町にあることを帰宅後に知った。移転した可能性があるが未確認。カリッとしたカツに甘辛い香ばしいツユと溶き卵がかかっていた。剣道の稽古のあとヘトヘトで塩っ気と甘みが美味くてよく食べた。

D君の家に行ってみたら、もうそこにはD君のお父さんがやっていたカーショップはなく、D君の家があった場所は駐車場になってひと気はなかった。ニワトリが居たその家に遊びに一度行った時だ。お父さんとお母さんが急にじゃれあい始めた「やめて、こどもがおるけん」ちょっと嬉しそうな雰囲気。気まずくなって帰ってきたのを思い出した。お母さんはちょっと色っぽい人でお父さんはなんか精力旺盛な感じだった。横になり重なり始めたのでものすごく気まずくて気まずくて。D君と弟たちは慣れた風で知らぬふり、めいめい遊び続けている。ニワトリも変わらぬ様子。でもD君をよく見るとちょっと泣きそうな顔をして平静を装っていた、目が合うと押し黙って目を逸した。その瞬間のことは何度も思い出したからよく覚えている。”ボク”は「用事がそういえばあったから帰るネ」などといって逃げるように帰った。薄情なのか、いやどうすればよかったのか。それ以来、D君とあまり口をきけなくなった。D君は突然ウッドペッカーの甲高い喚き声のものまねをする明るい子だったのを思い出した。

もう少し歩くと少しお高めの文具屋があったはず。なんだけれども、それはもうなくて立派なお家に代わっていた。ウチは倹約家だったから、春日原にある文具のタカツの特売日に買うように厳命されていた。小遣いはなく、お年玉を切り崩す経済だった。

春日中央通り

春日中央通り 若葉台方面に登る坂

春日中央通り 光町交差点へ下る坂、至る春日原。正面に航空自衛隊春日基地官舎。

小学校の入り口の様子は変わらない、校門にひよこ売りが来ていた。可哀想に毒々しい色がつけてあった。たまに怪しげな教材売りが来ておもちゃを配ってたり、変な封筒をわたされ、親にサインを貰って明日ここのポストに入れるようにと言われたり。断層帯に建てられた小学校の坂をのぼりながら右を見ると茶色の時計台があって、ただ文字盤は流石に40年経って少し錆びが認められ、ナショナルと書いてあった、Panasonicじゃない。行事でタイムカプセルを時計台のもとに埋めたのだが、40年の間にもう発掘されただろう。体育館の壁に防衛施設の建設のついでにこの体育館を建てました、みたいなことが書いてあって、当時読みもしなかった。扉は薄い灰空色だったと思うけど、少し錆びてくすんでいた。ここのガチで練習がきつい剣道クラブに通っていた。バンドウ先輩というひょうきんな人に色々教わった。練習中に面を外したら怒られたから、タレの名札の中にストローを隠して、便所に行くふりして手洗い場の水をちょぼちょぼ出しながらコテを外した手で結んで、蝶々がやるみたいに、メンの隙間からストロー入れてチューチューやっていたがバンドウ先輩仕込み。「おまえしらんのか」とシコシコ(自慰)というものを教えてくれたのもバンドウ先輩だ。

剣道の練習が終わったあと、たまに先輩に率いられて中学校のプールに柵を越えて勝手に入ってドボン!夜だから誰もいない。大の字に浮かんで火照った筋肉を冷やして夜空を眺めた。時効だ、お許しください。

グランドでは子供たちが夏休みでサッカーをしていた。白線を引く石灰を貯めておくコンクリート造りの小屋は昔と変わらない様子でグランドの角に存在していた。鉄棒や登り棒も同じ場所だ。ようやく帰ってきた気がし始めた。私は運動場に白線を引くのが好きだった。その石灰の触感が面白くて石灰溜めの中に手を突っ込んでモニモニ揉んでいたらアルカリで掌の皮がズル剥けになったのも思い出した。校舎の中を覗いてみたかったけれども、ちょっと不審者と思われても困るので結局写真も撮らずに5分ぐらい校庭を眺めて帰った。ソテツは昔のままだ。剣道の先生に厳しく指導されたり、悪さして怒られてビンタされたり、色々あった。私はなんでもソコソコ出来たせいで、先生にえこひいきされていたが、依怙贔屓が小っ恥ずかしくなって先生にやめてほしいというのが伝えにくく、5年生のとき態度が悪いとえらい叩かれた、こういうとききちんと叱ってくれる先生が居たことはありがたい。今は感謝をしていますが。反抗期と重なったのかもしれない。

ゲームセンターが悪い場所だとして一時問題になった。先生が行ったことあるやつは正直に手を上げろと高圧的にいうから、真っ先に手を上げた。誰と行ったんか?というから、一人だ、と嘘を答えた。怒られるなら俺だけで十分だ。悪いとわかって行ったのかと公開尋問が始まったから、正々堂々弁明した、私はゲームセンターは悪いところではない、と。屁理屈をこねた。麻雀だってトランプだって花札だってゲーム、すごろくだってゲームです。どこが違うんですか?先生だってパチンコやるでしょ。駄菓子屋にだってインベーダーがおいてある。それもゲームセンターなのですか?どこまでがゲームセンターなのですか?プレハブにゲーム機を置いたらそれもゲームセンターですか?とゲーム機がおいてあるところなんて山ほどある、ゲームセンターという意味がよくわかりません。と質問攻めにしてやった。いやらしい子だ。まともに先生は答えなかったので、ちょっとやりすぎたと思った。「ゲームセンターに行ったら不良」というレッテル貼りはおかしいと伝えた。

同級生にお父さんがマルボウ団の子がいて、その子も剣道仲間だったのだが剣道の練習には来ないくせに、「今度の大会(やくざの)お父さんが見に来るから俺を勝たせてくれ、引き分けでもいい」と卑怯なことを俺に言う。変なやつやなと思いながらその日を迎えた。そいつのお父さんは背が低いのだが、黄色いカマロで剣道の試合場まで送り届けてくれた。「いつもありがとう」みたいに理由のわからん礼を言われた。私の親から聞いたぶんには、そのお父さんは福岡の有名なマルボウ団の幹部であんまり付き合うんじゃないよ、と真顔で言われたが、逆にそんなので子供を区別するのはおかしいじゃろと反抗して関係は続けた。たまにしかお父さんが居ないのはどこか遠いところでお勤めしているからという噂もあった。お母さんは細くてきれいな人だった。結局試合は鍔迫り合いを長引かせて適当にウソの気合いを出して引き分けてやった。別に怖がってそうした訳では無い。そいつがある日ゲームセンターにつれていってやる、俺と行くとゲームセンターがただになるけん、と自慢げにいうので別にそんなのいらん、と思いつつ興味本位でついていった。天神近くまでそいつのお父さんの顔が効くというゲーセンに自転車でヘイコラ行ったのだが、そいつ奥に行って何やら店員と交渉して帰ってきて「だめっていわれた」と。当たり前やろ。結局はお金を払ってゲームをして帰った。くたびれ損だ。インベーダーが一回100円、ありえん、近所の駄菓子屋なら10円でできる。ゲームセンターってやっぱりやばいヤツなんかなあと認識し、先生に言い過ぎたと反省した。

5号線に出て春日基地のきわに飛行機が飾ってあった。こんなのあったっけ?。機体番号90-8234 F-1支援戦闘機(三菱製)。本物だ!春日基地の戦闘機パイロットのA先生と整備士のO先生に剣道を習ってたのを思い出した。A先生にコテを打たれると骨の髄までズーンと痛くて悶えた。そんなに砕けるほど叩かなくても一本とれるのにフルコンタクトで手加減しない。A先生は戦闘機パイロットとして何千時間も飛行して表彰されているベテランで、その祝いのときの写真を見せていただいた。とても寡黙なサムライのような先生だった。将来自衛隊も良いなあとおもった。当時の官舎の友達の家に遊びに行くとテレビはなく質素な生活で心がきれいな人じゃないと無理と思った。O先生の家のテレビはNHKしか映らないようにしてあった。それだけでまず尊敬した。

光町の交差点を渡って塩崎模型店があった場所を探すがすでになく、残念に思いながら春日原駅の方向に向かって歩いた。ガンダムプラモが流行った時期だが一切私は取り合わず、グンゼ産業のおっとっとシリーズのプラモにMr.カラーを塗って楽しんでいた。その頃から流行りものが嫌いだ。ただタミヤのラジコンは人並みに憧れた。金もないのでモロッコヨーグルを食いながら中をプラプラするだけだった。その光町に釣具屋があり、小学校の裏のフナが釣れる場所に行くときはそこでリンタロウミミズを買った、だが釣具屋ももうなかったし、池も埋め立てられて宅地になっていた。

暑くて暑くてもう歩けない。西鉄の赤いバスで春日原駅に向かうとする。灼熱照りつける光町バス停に、真っ黒の女子中学生3人組、正面の自衛隊の子供さん達かな。春日基地から通っていた剣道仲間のW君のお姉さんがテニスをやっていて真っ黒だったのを思い出してそっくりに見えた、というだけの理由。

春日原に着く前に JR 春日という新駅ができていて驚いた。私は実はそこの線路の上で初めて精通のようなものを覚えた。春日原にあるNEC のパソコンショップのPCを借りて夢中になってプログラミングを独学していた頃で、その日ベーシックマガジンというプログラムが書いてある本からパソコンゲームを作るプログラムを打ち込んでいた、大袈裟でなく時を忘れてPC9801を触っていた。剣道の稽古があるというのにやめられなかった。例えば試験時間が終わる間際にまだ問題が解き終わらない時のような、尿が横溢しそうな膀胱のむずむずする感覚を抱えながら続けた。どうにか出来上がったプログラムをデータレコーダに入れる、昔の記憶媒体はカセットテープでとても遅く、遅々として進まない、数十分単位で時間がかかり、完全な遅刻になった。このとき、脳が追い詰められたような冷えた感情になった。慌てて帰る途中、春日原の開かない踏切でひっかかり、更に焦る気持ちが生理的な変化に変わり始め胸が激しく打ち始めた。剣道の先生に怒られ親に怒られる、焦った気持ちで、開かずの踏切が開くのを待った。そして、ようやく遮断器が上がって、自転車の車輪がドスンドスンと線路を超える時、サドルの振動が股間を強打し程よく何かのゾーンに当たったのか、パーンと炸裂するような快感が脳の中に広がり恍惚として、次の瞬間腰が抜けて立ち往生したのを思い出した。焦っているのに不思議な得も言われぬ快感が襲ってきたのだ。私はその体験がしたくてその場所を何度か同じように通ったけれども、そのようなことは二度と生じず、それがだいぶ後になって頭の中だけで生じた精通のようなものだったのではないかと考えるようになった。で、その場所なんだけど、なんと今や立体交差になっていてその下が駅になっており、私が精通のようなものを覚えたまさにその場所というのが無惨にも JR 春日駅のホームになっていた。私の、私の、あの場所が・・・私の場所というのも変だけど。ここだ、ここだ、という酸っぱい思い出に浸ることはできなかったし、再び試してみることも未来永劫できなくなっていた。その謎の場所もまたホームの下に埋まってしまっていた。ザリガニが繁殖した田んぼが埋まってしまったように。何か変わり果てた思い出の場所を、跨線橋を渡るバスの中から確実に見た。そのホームを一瞥したとき、私は複雑な気持ち抱えながらこみ上げる笑いを抑え無表情であろうとつとめた、なんもかんも埋まっとるではないか。春日には古代遺跡とともに私のいろんな思い出も地下に埋まっていたのであった。

何を恥ずかしい話を書いているんだ私は・・・・長文にお付き合いいただきありがとうございます。どうぞ良い週末をお過ごしください。

コメント

  1. 五条 桐彦 より:

    ずいぶん歩かれましたね
    ザッショもここ数年で、本当に様変わりしました。
    コロナ以降、閉店した店もたくさんあります。

  2. yopioid より:

    コメントありがとうございます。駅前が特に変化が大きく、駅を離れると昔の景色がありました。旅行予定地を突然変更し、短時間の滞在でしたが歩く一歩一歩ごとに記憶が溢れてきて冗長になってしまい恐縮です。

  3. nakagawa より:

    車両区に近い踏切は南福岡駅の下り方面側ではないでしょうか。
    そういえば手動式踏切の記憶がうっすらと。。。別の場所の記憶かも?
    車両区にはたまに気動車もいますね。
    何しろJR九州は、博多発着の気動車特急があるくらいですので。

    31号線を5号線と呼ばれているのにウフフとなりました。(そう呼ぶのは地元の人間だけなので。)
    5号線沿いも春日中央通りも道路拡張で随分変わりました。
    西鉄の高架化に至ってはもう別世界。
    踏切の向こうに消えていく少女の歌は、永遠に生まれ無いことになりました。ザンネン
    渋滞が緩和されるのは嬉しいのですけれど。

    アスファルトの道は気温+10°が体感温度と聞いたことがあります。
    無理せずバスに乗られてよかったです。

  4. yopioid より:

    いつもコメントありがとうございます。
    おそらくご指摘の南福岡駅の南側の踏切です。踏切をわたりながらズラリ並んだヘッドマークが見える場所。
    手動式踏切ですが、春日原だったかもしれません。
    南福岡駅に気動車が居たんですね!非電化というと、筑肥線、篠栗線、あと香椎線?あ、入れ替え用でしょうか。
    大分空港から由布院をまわって「ゆふ」に乗るつもりでした。気動車特急ですかね。
    そのゆふが南福岡にとまっているんでしょうか。
    子供の頃5号線と言っていたのを小学校のあたりで思い出しました。謎ですね、地元の呼び方だったんですね!(笑)
    昔は春日中央通りとは呼ばなかったと思います。若葉台に上がる道とか東中の通りとか。
    あの道をずっと行くと大土居と白水池がありました。釣りに行きましたね。
    もっと行くと新幹線車両基地がありましたが柵が厳重で南福岡駅ほどに間近にはみえず自転車で行ってガッカリしました。
    今や博多南駅ですね。新幹線だけだと思ったら在来線が走ってる!しかも330円!乗ればよかった。。今知りました。
    東京から品川まで新幹線にのると特急料金取られるのに比べたら博多南駅の人はいいなあ。
    踏切の向こうに消えていく、海援隊の春日原へ、ですね。
    いっぺん引っかかったら開かないから、確かに先に渡った人影は完全に消えていく感じ。
    また行ける日があるとよいなと思います。

  5. nakagawa より:

    5号線ですが、ローカル番組「福岡くん。」によると、春日市(当時は筑紫郡春日町?)が最初に都市計画をした時に「街路5号線」という名前をつけたのが今でも使われているという話でした。
    GoogleMapで地図の縮小率を少しずつ変えて見ていると、千歳町・光町の碁盤の目のような通りがほぼ○○号線という名前でした。
    最初の呼び方が今でも残っているのは面白いですね。
    地元民なのかそうでないのかもわかってしまうとは、です。
    また是非いらしてください。

  6. yopioid より:

    コメントありがとうございます。我が街には国道1号、2号に連なる5号があるのだとかたく信じておりました。一般の県道、市道が地域住民の要望によって整備が行われるのに対して、ご指摘のように春日基地や陸自駐屯地に連なる重要な路線としての都市計画道路説が有力のようですね。
    福岡の都市計画は太宰府あたりの条坊制から始まるみたいですね。千歳町光町の、筋目もその流れをくみ、それは嘘です。
    中川さんの文章は、簡潔で理系の研究者か理系の専門家って感じがします。
    もしお目にかかる機会があれば色々教えてください。