羅津港 ザルビノ港

新潟県の港湾資料を読んでいて、新潟港がザルビノ港(ロシア)とのルートを策している、とあってまず驚いた。なんでロシア?!中国への貿易ルートとしてなぜそのルートになったかを調べていたら、そのルートの歴史は古くからあった。北朝鮮の羅津港が日本統治時代に築港整備が進められ、同時期に満州鉄道によって羅津港で海運と鉄路が結ばれ、東部満洲への入り口であったことを知った。満洲東部と日本とを結ぶ最短経路がウラジオ頼みロシア依存であったことから北鮮三港(羅津港、雄基港、清津港)を新規に整備した。その結果、満州国内のウラジオまでのルートである東清鉄道(北満鉄道)への依存度が減り、ソビエトは満州国へ北満の鉄道を売却し、ソビエトは満洲から撤退した。

羅津港は現在北朝鮮領。1991年頃から始まった羅津港の中国による租借地化に関わった北朝鮮の張成沢は売国として失脚した。

ザルビノ港は羅津港に近いがロシア領で、琿春と結ばれている。

新潟県HP https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/65172.pdf より引用。

中国東北部、満洲への日本からのアクセスを考えると、大連ルートより朝鮮半島の東側を通って直航するルートが有利。しかし日本海側にはロシアと北朝鮮が沿岸を占めていて、羅津港は制裁中の北朝鮮領。消極的選択でロシアのザルビノ港ということになる。

満州東部方面と通商する北鮮ルート、及びウラジオストックルートは、それほど新しいアイデアなのではない。中国東北部への北朝鮮を介する直航ルートについては1900年初頭頃から検討されていた。伊藤博文サンの頃に。

北朝鮮の羅津港は先に述べたように、日本統治時代の満洲東部へのウラジオに変わる玄関口だった。日本統治下朝鮮に咸鏡北道(かんきょうほくどう)という行政区が設定され、その沿岸の羅津港、雄基港、清津港のいわゆる北鮮三港が急ぎ整備された。対ロシア(ソビエト)の最前線に位置する咸鏡北道の羅南(清津市)には第19師団がおかれた。日本が支配する満洲国への短絡路としてウラジオに変わる自前の港を必要としていた。ウラジオストクは冬季に凍結するだけでなく、戦略的にロシア依存から脱却せねばならなかった。

咸北の位置

満洲東部の国境地域間島について内藤湖南は「間島の地勢」で地勢、距離どちらの点でも間島からは敦化や吉林へのルートを取るよりは北鮮ルートを取る方が有利であり、長春吉林鉄道を海口まで延伸する提案をしている(間島鉄道意見)。ウラジオ自由港がロシアの戦略で閉鎖された場合の代替港としての意義(当時満州北部の物流をウラジオ経由が占めていたから)、ロシアの東清鉄道への対抗策として、北鮮に自前の港を持つ重要性を述べている。この時代背景として北満州におけるロシアの勢力が当時の日本にとって最大の脅威と見做されていたことが、羅津港などの北朝鮮ルート発案の動機になっている。北鮮三港(清津、羅津、雄基)を整備することでウラジオや東清鉄道の存在価値を低下させたことが、ひいてはソビエトの満洲撤退に繋がった。

社団法人日本旅行協會 鐵道省編纂 汽車時間表 昭和九年発行より引用(蔵書)

昭和九年の時刻表では羅津まで鉄道はない。1905年明治38年に結ばれた日露戦争後のポーツマス条約で長春(新京)以南のロシアの東清鉄道の南満洲支線は日本に譲渡され南満洲鉄道(満鉄)となった。地図上の太い線が満鉄線で細い線は東清鉄道分やその他の経営母体。

1933年10月 豆満江(図們江)に架橋され、雄基~新京(長春)間が開通。

1934年10月に、清津~雄基間の鉄道は満洲との結び付きが強いという事情もあり、南満洲鉄道北鮮鉄道管理局に運営が移管された。1935年には満鉄の手で、雄基に代わる日本との接続港となる羅津港が整備された。同年、雄基~羅津が延伸された。これらの港から門司、敦賀、新潟どから連絡船が運航した。

1935年3月、ソ連は満洲国と北満鉄道讓渡協定を結んで北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し満洲から撤退した。

財団法人東亜交通公社時刻表 昭和十九年発行(蔵書)より引用

終戦直前の時刻表では羅津埠頭から満州東部まで連絡している。右上ウラジオストクが浦塩と書いてある。

碧城が制作。参考資料:満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館(2007年)、『大満州国地図』駸々堂旅行案内部(1945年以前)。wikipediaより引用。

直近の羅津港開発についてはきな臭い話がある。まず、1991年頃から中国の提案により国連主導で開発が始まった。中国の北朝鮮側のカウンターパートである張成沢の処刑と、羅津港は関わってくる。

1991年10月24日、国連開発計画は、この地域(琿春・ポシェト・羅津)の開発に300億ドルを投資し、20年間にわたってこの河川(注 豆満江)の下流に「第二の香港、シンガポール、ロッテルダム」を建設するという豆満江(図們江)地域開発計画を発表し、この地域ににわかに注目が集まった。鄧小平から金日成に経済特区を開放せよと迫られ特区が設定され、北朝鮮は中国とロシアに使用権を付与した。

2010年12月、中国による羅津港の利用が開始された。吉林省延辺朝鮮族自治州琿春市で採掘した石炭を、羅津港から日本海を経由して上海へ輸送。

2012年8月、中国企業のコンソーシアムが羅津港の羅先経済貿易地帯の事実上の接収を北朝鮮と合意した。中国商務部部長の陳徳銘と朝鮮労働党行政部長の張成沢がこの計画を担当。

2013年12月12日、北朝鮮の金正恩政権は張成沢を死刑に処した。朝鮮中央通信によると、朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部の特別軍事裁判では張の罪状の一つとして「羅先経済貿易地帯の土地を50年の期限で外国に売ってしまう売国行為」を挙げ、羅先特別市の租借は張の意向であり、なおかつ「売国」であるとの認識を示した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%85%88%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B8%82#%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%B2%BF%E6%98%93%E6%8B%A0%E7%82%B9%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6
より引用、一部省略

張成沢は北朝鮮の外貨稼ぎ部門を推進し中国と協調していた。北京で温家宝と張成沢が密談を行って、核の放棄や正男の擁立の可能性を話していたと正恩に漏れ伝わった。張成沢は正恩の叔父であるが、政権内での勢力が強かったため粛清された面もあるようだ。

通訳だけを介し、1時間以上行われた胡との密談で、成沢は「場合によっては、核を放棄することもできる」と表明。金正恩に代えて異母兄の金正男を擁立する可能性にも言及したとされる。香港メディアが後に暴露したところでは、会談内容は、中国共産党最高指導部メンバーだった周永康=国家機密漏洩罪などで無期懲役=から北朝鮮に漏れた。成沢の言動は、正恩を刺激するのに十分だった。当時の状況を知る護衛総局の元幹部は「12年秋ごろから、正恩は重要事案を叔父張成沢とは相談しなくなった」と証言する。成沢の言動を打ち消すように、12月に事実上の長距離弾道ミサイルを発射し、翌年2月には、3回目の核実験に踏み切る。

https://www.sankei.com/article/20160426-QSNVONFVWJLU3PKT2E4IORU3JI/2/ 
産経 李相哲氏の記事より引用

<参考>

植民地期朝鮮における羅津港建設と土地収用令 広瀬貞三

北朝鮮ルート論の系譜(1)(2) 関西大学 西重信

100年の鉄道旅行 https://travel-100years.com/index.html

時刻表歴史館 http://www.tt-museum.jp/tairiku_0190_knk1939.html

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