アトサヌプリ

アトサヌプリ、旅行で立ち寄りました。アトサヌプリつまり硫黄山に関して調べたことのメモです。

アトサヌプリは今からおよそ2000年から500年前に誕生した小火山。低いドーム型(溶岩円頂丘という)で標高が512メートル。中央部分が吹っ飛んだあと(画面全体の白い所)、中央の新しい溶岩ドームが盛り上がった。新しい溶岩ドームの山頂に熊落としという大きな穴(爆発火口)が開いており、盛んに噴煙をあげ、噴気活動をしている。その周辺は硫黄分を含んだガスのため、草が生えず、溶岩が裸でむき出しているためアトサヌプリ(アトサ=裸 ヌプリ=山)と言われる。

明治期に日本はマッチ輸出国だった、意外。硫黄の英名「sulfur」は、ラテン語で「燃える石、火の源」の意味。ここアトサヌプリは硫黄がとれる鉱山。硫黄は燃えるのでマッチの原料になる。あのマッチの燃えるニオイは硫黄の燃焼する匂い。酸素と結びついて二酸化硫黄。

硫黄鉱山ってこうなってるんですね。

国立国会図書館より転載

安田善次郎さんによる硫黄鉱山開発 アトサヌプリ麓のゲストハウス資料より学ぶ。安田善次郎さんの硫黄鉱山開発の歴史、関連展示物がおいてあります。含有率90%以上の高品質な硫黄鉱石がつるはしで掘り起こせた。

アトサヌプリで採掘された硫黄は、鉄路運ばれた。

標茶で精錬、釧路から輸出。運搬用鉄道がのちの釧網本線の一部です。

アトサヌプリの山元から標茶まで陸路(鉄道路)、標茶~釧路が釧路川を下る汽船で舟運。釧路のオダイト(旧名苧足糸)から輸出。

アトサヌプリ山元での様子(やまのふもとを山元という)

アトサヌプリの硫黄鉱山は、明治時代の士族反乱(西南戦争等)における国事犯収容施設(集治監)の建設、北海道開拓の停滞を打破したい開拓使の方針、安田財閥による鉱山開発の意向など様々な思惑が結びついて開発されたものである。鉱山としての命脈はわずかな期間であったが、集治監の設置や鉄道の建設などを通じ行われたインフラの整備は、後の釧路地方開発の礎となった。採掘した鉱石の積み出しは、アトサヌプリの東麓に敷設された鉄道により行われた。安田財閥の撤退後は長期間の休止の後に野村財閥系となり、1970年まで操業が続けられた。(wikipedia アトサヌプリより)

ここでも国事犯が開拓に活躍している。

レストハウス展示

標茶で精錬される。標茶の硫黄精錬所の風景と精錬器、要するに蒸し焼きにして溶かし出す。

これを、下の釜に入れて焚く。

硫黄鉱石から硫黄を精錬する機械。

焼き釜に鉱石を入れて硫黄分を溶出させる。釜から抽出された硫黄は液体であり、これを型に流し込み冷却して円柱状の固体にして出荷した。これに必要な石炭は、釧路近傍の炭鉱から釧路川を遡上して運ばれた。

焼き窯方式は亜硫酸ガスなどが発生するため、のちにオートクレーブ(高圧水蒸気釜)を用いて高圧水蒸気に硫黄を溶け出させてこれを回収する方法に切り替わった。

硫黄は釧路の搬出港 おだいとまで汽船で運ばれた。今の大町6.7.8丁目。横浜に運ばれ、米国や中国に輸出された。製紙の漂白剤、肥料や爆薬原料として。

おだいとの風景。

2000年前にアトサヌプリ(硫黄の鉱山)ができるまで

富士山みたいな屈斜路火山がもともとあって、頭の部分が大爆発で吹っ飛んで陥没、カルデラが作られた。底に水が溜まって古屈斜路湖になる。その古屈斜路湖の中にポンポコ火山が育ってくる。↓

古屈斜路湖の中に3つ火山ができ(上図、左列上図の3つの火山 中島、オヤコツ、アトサヌプリ)、そのうちの一つアトサヌプリ外輪火山は頂上部が陥没。この頃に摩周火山も誕生。屈斜路湖も摩周湖も火山のカルデラ。

7000年前に摩周火山も陥没、摩周カルデラを形成、摩周湖誕生。

2000年から500年前に、アトサヌプリカルデラの内側に火山が出現(アトサヌプリ火山群、アトサヌプリ(硫黄山)、サワンチサップ山、マクワンチサップ山 何れも石英安山岩質)

硫黄の用途

・干し柿の加工工程で皮むき後に「硫黄くんじょう」を行うと、酸化防止(黒くならない)制菌作用がある。干しイチジクにも使われる。

・火薬、農薬

・ワインの酸化防止剤

・ゴムへの加硫

・べんがらの原料

・燃えやすいので焚きつけに

現代は石油精製過程の脱硫装置から硫黄が得られる。昭和20年代の朝鮮戦争時には「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰し、鉱工業の花形に成長したが、昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となり、硫黄の価格は下落。昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山はすべて閉山。現在、国内に流通している硫黄は、全量が脱硫装置起源。

長々とごめんなさい。調べだすと止まらないです。

コメント